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佐東さんと須々木くん(3)

 四限目の終了と昼休みの開始を告げるチャイムが鳴り響くと同時、教室は喧騒に包まれた。数人ずつのグループを形成し、鞄から弁当箱を取り出す女子生徒たち。既に午前の休み時間中に弁当を平らげてしまった男子生徒たちは、購買のパンを買いに走る。
 だが、その騒動が続くのも十数分のこと。休みも半ばになるとほとんどのものは食事を終えて散っていく。部活の練習に参加しに行くもの、提出期限の迫る課題に慌てて取り組むもの、友人との雑談に興じるもの。一日の中でもっとも自由で、緩やかに流れてゆく時間。
「…………」
 佐東侑子が教師に頼まれた雑用を終え、教室に戻ってきたのはまさにそんな時だった。昼休みが始まってから、二十分が過ぎている。彼女が普段ともに昼食をとっているグループの女子生徒たちは、既に弁当箱を鞄に仕舞い込んでいた。まだ席について会話を楽しんでいるようだが、今更そこに混ざるには少々機を逸しているとしか思えなかった。教室中にはまだ食事中のグループもあるにはあったが、彼女とはあまり親しくなかった。突然彼女が近づいたら――拒絶はされないかもしれないが、きっとぎこちない空気が流れるだろう。では、自分の席について一人で弁当を食べるとするか。しかしその姿を見てクラスメイトたちは……特に女子たちはどう思うだろうか。かわいそう、友達少ないんだ、ひとりぼっちでごはんなんて。そんな風に思われてしまうかもしれない。
 どうしよう。彼女は困惑した。そして、二十分もかかる用事を言いつけた教師を胸中で呪った。
 便所飯、という言葉を思い出す。以前テレビかネットかで見て、そんな行動があり得るのかと目を疑ったのだが、今となってはそうも言っていられなかった。
 ひとりは怖い。いや、ひとりが怖いわけではない。ひとりで過ごす時間そのものは怖くはない。周囲の人間に、あの子はひとりだ、と思われることが、そういうイメージがつくことが、怖いのだ。
 佐東は鞄を机から取り、足早に教室を出た。どこか、場所を見つけて食事をとらなくては。トイレはいくらなんでもあんまりだ。中庭は……いや、あそこは吹奏楽部が練習している。それなら……。
「あ」
 佐東は顔を天井に向けた。その先にある、屋上。以前は合唱部が練習に使っていたようだが、今は音楽室を使う許可をとってそちらに場所をうつしている。
「鍵、かかってないといいけどな」
 つぶやき、佐東は辺りを気にしながら階段を駆け上がった。誰も彼女の動向など気にしていないだろう。そうは思うのに、やはり周囲をうかがってしまう。そんな卑屈な自分を、佐東は嫌だなあ、と思った。

 屋上に続く扉の鍵はかかっていなかった。佐東はほっと息をついて、扉を開ける。
 涼しい風。季節は秋だった。夏の気配をわずかに残した日差しに照らされた床を、彼女のローファーがかつりと踏む。
「だれ?」
 足元から誰かの声が聞こえて、彼女はぴくりと体を震わせた。おそるおそる足下を見下ろす。自分の影になった場所から彼女を見上げているのは――彼女がよく見知った顔だった。
「す……須々木くん?」
 彼女は思わず後ずさった。確かに、屋上の床に寝そべっているのは彼女のクラスメイト、須々木裕だった。教室ではあまり目立たない、ほとんどのクラスメイトからはおとなしい優等生的な存在として認識されているであろう人物だが、彼女の中での認識は少々異なっていた。どう異なっているのかと言われると――その説明は、少しばかり難しい。ただ、決して彼は「おとなしく」もないし、「いいひと」でもない。彼女はそう思っていた。別に、悪いひとだとは思ってはいないのだが。
「佐東さん?」
 須々木は銀縁眼鏡の奥の目をまぶしげに細めていた。
「何やってんの?」
 ――ぶっきらぼうな言葉。これがもし佐東ではなくて別のクラスメイトなら、須々木はもう少し違った応対をするはずだ。彼女はそう思い、唇をかんだ。鞄をぎゅっと胸に抱きしめる。彼から目を逸らし、彼女は聞き返した。
「……す、須々木くんこそ、ここで何してるの?」
「昼寝」
 須々木はあっさりと答え、腹筋の要領で上半身を起き上がらせた。黒い学生服についた埃を軽くはらう。
「おれ、昼休みはいつもここにいるからね」
「そうなの?」
 佐東は驚いた。そういえば、須々木がいつも昼休みにどうしているかなど、気にしたことがなかった。須々木は苦笑する。
「まあ、きっときみはいつも仲良しのお友達と一緒にいるんだろうから、隣の席のやつがどうしているかなんて知らないよね。そんなもんだろう?」
「…………」
 皮肉のつもりなのか、どうなのか。佐東には判断が付きかねた。須々木は唇の端に薄い笑みを浮かべながら、彼女を見ている。
「それで? おれの質問には答えてくれないわけ?」
「え?」
「なんでここにいんの? 鞄なんか抱えちゃって」
「…………」
 佐東は口ごもった。いつも友達が先にお弁当を食べてしまって、自分が食べるところが見つからなかったから――なんて。言いたくない。
 だが、須々木はあっさりと彼女の心の内を見透かしたようだった。
「お弁当」
「え?」
「食べれば? おれが邪魔なら退散する」
「…………」
 佐東はきゅっと唇を引き結んだ。
「……ん」
 小さくうなずく。そして、慌てて付け加えた。
「邪魔、じゃない」
「……そう」
 結局佐東は須々木から一人分くらい離れた場所に座り、鞄を開けた。
 須々木は再び床に寝そべり、日除けのつもりだろう、顔の上に数学の教科書を乗せた。
 佐東はもくもくとお弁当を食べる。母の作るお弁当は、いつも通り美味しかった。いつもと違うのは、一緒に食べる相手がいないこと。にぎやかしい笑い声のないこと。そして――空が広いこと。彼女は目を細めた。頬をなでる風が、心地いい。
「ねえ」
 佐東は突然、須々木に話しかけた。
「なに」
「雨の日はどうしてるの?」
「なんで?」
 須々木は教科書をとることもなく、言葉を返してくる。聞き返されると思っていなかった彼女は、戸惑った。
「え……別に」
「また、雨の日にひとりでご飯を食べることになったら困るから? 場所、知っておきたいんだ?」
「…………」
 やっぱり、このひとは意地悪だ。佐東は顔をそむけ、お弁当に戻った。彼女の大好物の、卵焼きに箸を伸ばす――。
「うまい」
 その感想は、彼女のものではなかった。いつの間にか、須々木が佐東のお弁当を覗き込んでいて、その指先で卵焼きをかっさらったのだった。
「何するの」
 抗議する彼女に、須々木は肩をすくめて見せた。
「無視するからだろ」
「別に、無視なんて……」
「明日からは、またいつもみたいにお友達とお弁当食べるんだろう?」
「…………」
 須々木の言葉に、佐東は少し黙り込んで――やがて小さくうなずいた。
「たぶん」
「その方が楽しいから?」
「…………」
 須々木のこういうところが、佐東は苦手だ。まっすぐな言葉で、彼女の痛いところをついてくる。
「……ふ」
 須々木は笑って、空を振り仰いだ。
「雨の日は、美術室にいる」
「鍵は?」
「この前拾った」
「え、返さないの?」
「なんで?」
 不思議そうに聞き返されて、彼女はもう何も言わなかった。――不意に、須々木の片手がコンビニのパンの空袋を握りしめていることに気付く。お弁当じゃないんだ。何となくそう思った。須々木くんはいつも、コンビニなのかしら……。
「ぼーっとしてると、食うぜ」
 須々木の声にはっと顔を上げる。瞬間、から揚げが彼の口の中に消えていた。
「もう!」
「うん、うまい」
「…………」
 佐東はため息をひとつついた。
「うちのお母さん、料理上手だから」
「ふうん」
 須々木は静かにつぶやいた。
「じゃあ、きっとあんたも上手になるよ」
「……そういうもの?」
「そういうもん」
 ――予鈴が鳴り響く。佐東ははっと顔を上げた。
「もう、そんな時間……?」
「そうだね」
 須々木は立ち上がり、佐東を見下ろした。その表情は、逆光になって見えない。
「どう? 案外、楽しかった?」
「…………」
 言葉に詰まる彼女を置いて、須々木は屋上を去った。
 ――案外、楽しかった? 佐東は視線を落とす。いつもの友達と食べるお弁当。須々木の近くで食べた、お弁当。いつもと同じお弁当。でも、何かが違った。
 あんまり屋上が気持ちよかったから? その理由を思いついた佐東は納得し、鞄を抱えて立ち上がった。きっとこれが真夏だったなら――暑い暑いと汗をかいて、きっと今日みたいには楽しめない。
 本当に?
 須々木の声が浮かぶ。佐東はそれを振り切り、校舎に入る扉を開けた。屋外のまぶしさに慣れていた目に、校内はひどく暗く見える。
 きっと、明日からはいつもの友達と一緒にお弁当を食べるのだろう。けれど、いつか――雨の日に。
「びじゅつしつ」
 佐東は小さくつぶやき、自分でも気づかないくらいの小さな笑みを浮かべた。