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佐東さんと須々木くん(20)

 二月末、卒業式。
 当たり前だが、未だ桜の気配はどこにもない。きっと今は梅の時期なのだろう、しかしこの校庭やその周辺にそれが植わっている気配はなかった。卒業式といっても、国公立の二次試験の終わった直後のことである。合格発表まではまだ日がある。無論既に進路の決まった者たちもいるのだが、そうでない者たちはどこか心ここにあらずといった様子であった。
「卒業生代表、須々木裕」
 そういった中で、その男子生徒は全く普段と変わらぬ様子である。
 卒業生総代。古めかしい響きであるが、ようは代表して卒業証書を受け取る役目を負う生徒、というだけのことだ。この学校では成績優秀者から選ばれているようであった――誰かがそうと言ったわけでもないが、見ていればわかる。須々木はこの三年間、結局一度だって学年トップの座を他人に譲り渡しはしなかった。傍から見れば簡単そうに見えるその事実が、彼の地味ではあるが他人には真似のし難いたゆまぬ努力に裏打ちされているものなのだと、佐東は良く知っていた。
 その中肉中背の、眼鏡をかけた地味な男子生徒は名を呼ばれると立ち上がり、段を踏んで壇上に上がった。その背中を、佐東侑子はこそこそと見つめている。――あまり見ていると、周りに「彼氏に熱視線を送る痛々しい女子」として見られてしまうのではないか……誰も彼女のことなど気にしていないだろうから杞憂に過ぎないのだろうが、それでも彼女はそう考えずにはいられないのだった。全く、染み付いたくせというものはそう簡単には剥がれない。
 須々木の前には、校長が立っている。教頭から受け取った証書を、彼は朗々と読み上げた。
「卒業証書――」
 須々木は姿勢良く立っている。手渡される証書を一歩前に出て受け取り、一礼して元に戻る。彼は真面目な顔でそのままその場を離れ、壇上から歩き去ったのだった。
 会場の後方には卒業生の父母がいる。だが、そこに須々木を見守る者の姿はない……そのことに思い至り、佐東は小さくため息をついた。
 それにしても――あっという間だったなあ。
 佐東はぼんやりと思った。
 地元の中学に馴染めなくて、ちょっとしたことがきっかけでひどく苛められるようになって――こいつらと同じ高校に行くなんて耐えられない、とがむしゃらに勉強して。それなりの難関を突破し、入学したところで安堵して。ああ、あとはもう目立たぬように大人しく、集団に埋没して、ぬるま湯に浸かっていればいいのだ、そう思っていたのに。「彼」に――須々木に出会って、全てが少しずつ塗り替えられていったのだ。
 はじめは、大人しくて人当たりのいい、地味な優等生だと思っていた。けれど、彼はあっという間にその仮面を――少なくとも彼女の前でだけは――脱ぎ捨ててしまった。
 なぜ、彼女だったのだろう。
 何十、何百回、となく自問していることではあるが、未だにその答えは出ない。答えを出したところで何がどうということもない、そのことも彼女は良くわかっている。答えを手にしたからといって……たとえば須々木がそれを説明してくれたからといっても、決してそれは彼女を安心させてはくれないだろう。
 ただ、彼女は彼と出逢った。それだけが確かな事実だった。

 卒業式の数日前、それは久しぶりの登校日だった。佐東は二次試験を終えて、自己採点をして――大きなミスはなかったはずだ、しかし結果はわからない。当日を迎えるまでは不安で不安で、たまらない。大抵の受験生がきっとそうだろう。後期に備えて勉強は続けなければならない、わかってはいるのだが、しかしセンター試験、私立の受験、本命の国公立二次試験と続いていた緊張の糸は、ぷつんと切れてしまった。
 昼休み、佐東は弁当箱を片手にふらりと教室を抜け出して屋上に向かった。この三年間、何度となく向かった場所。一年の頃、たまたま友人らと弁当を食べそびれてしまって、ひとりでどうしようと悩んだ結果駆け込んだのがここだった。――今ならどうしていたかな。階段を上りながら、佐東は思う。ひとり、教室でお弁当を広げることを選んでいただろうか。変に考え過ぎたり、人の目を気にしたりすることなく……どうだろう。まだ、自信はない。それでもあの頃と少しは変わったのだろうと思う――そう思いたい。それでも今なお、さり気ない風を装って、人に見咎められないよう振る舞って教室をあとにしているのだから、結局のところ自分はそう変わってなどいないのかもしれない。
 屋上には、やはり須々木がいた。少し前よりはましになったとはいえ、まだ冷え込む時期である。彼は優等生らしからぬだらしなさで、床にぺたりと腰を下ろしていた。その手には、いつものようなコンビニのパンはない。昨日佐東が連絡しておいたからだ。
「これ」
 佐東は手にしていた二つの弁当箱のうち、一つを彼に差し出した。妙にぶっきらぼうになってしまったのは、佐東がどうしようもなく照れているからだ。
 ――ただ、なんとなくやってみたくなったのだ。それだけのこと。深い意味などない。断じて、ない。
「おれに?」
 須々木は一瞬目を見開いたあと、眩しげに目を細めて彼女を見上げた。
「う、うん」
「もしかして、さ」
 須々木が持ち前の勘の良さを発揮する――全く、こんな時には不要だというのに。
「佐東さんが作ってくれた……とか?」
「……おかずはほとんどうちの作り置きを使ったから、卵焼きと、具を詰めただけ。作ったとは言えないと思う……」
「十分だよ」
 須々木は心底嬉しそうだった。佐東はどんどんと頬に熱が集まっていくのを感じる。――こんな時に限って、そんな素直な感情表現をするのはやめてほしい。ずるい。
 佐東は須々木の斜め向かいにタオルハンカチを敷いて腰を下ろし、自分の分のお弁当箱を開けた。――代わり映えのしない中身である。わざとお弁当用に小さく作られているハンバーグ(佐東の母は夕食を作る時、こうやって弁当のおかずもついでに作って冷凍しておくのを常としていた)、エビフライ、ミニトマト、きんぴら、そして鮭のほぐし身と白胡麻とを混ぜ和えた白飯。それから、唯一今朝佐東が焼いた、卵焼き。
 須々木に渡した弁当箱も、佐東のそれと中身は変わらない。彼はじっとそれを凝視していた。
「何か苦手なものでもあった……?」
 佐東が尋ねると、須々木は首を横に振る。
「違う」
 須々木は箸を手に取り、そして丁寧に手を合わせた。
「いただきます」
「……う、うん」
 もそもそと中身を口に運ぶ佐東に、須々木はぽつりと言った。
「おれ、手作りのお弁当って初めてなんだよね」
「え?」
 佐東は顔を上げる。
「初めて?」
「そう」
 須々木の顔に表情はない。
「うち、親居ないからさ」
「居ないって……えっと」
 佐東は言葉を選んだ。――以前、須々木と話していた時に担任が口にしていた言葉を思い出す。
「海外出張がどうとかって……」
「ああ、それは嘘だよ」
「嘘?!」 
 あっさりと言う須々木に、佐東は目を見開いた。
「嘘って……え? 嘘?」
「そう。嘘」
 須々木はけろりとしたものだった。
「そもそもおれの戸籍上の親は本当の親じゃないし。おれも会ったことないんじゃないかと思うよ。少なくとも、物心ついてからはないはず」
「えっ……」
 佐東は絶句する。
 ――以前、休日にばったりと須々木に会った時、彼は少し年上の派手な美女と一緒にいて、うちに雇われている人だと言っていたけれど……どうやら事態は彼女の思うよりもかなり複雑らしい。
「今まで誰にも言ったことなかったんだけど……まあ、いいか」
 須々木は特に動揺する様子もなく、淡々とした口調であった。
「おれの父親――遺伝上の父親って、ちょっとした有名人でね。誰かまでは、佐東さんにもさすがに言えないんだけど」
「…………」
 別に聞きやしない、と佐東は思った。須々木くんが話したいと思うこと以外、聞きたいなんて思わない。
「それが、誰だか知らないどこかの女との間に作ったのがおれでね。父親が女からおれを取り上げて、適当な両親を見繕って養子縁組させたってわけ。随分と金を積んだらしいよ?」
 一応、自分の血を引く子供にはそれなりに情があったのかなあ。
「…………」
 佐東は絶句した。
 ――何と言っていいのか、わからない。口に含んだ唐揚げが、妙にぱさぱさついて感じられた。須々木は美味しそうにエビフライを頬張っている。そのあっけらかんとした表情が、むしろ佐東にはわからない。
「それからは――まあ、いろんな人がおれの面倒を見てくれたってわけ」
 佐東が会ったあの女性も、そのうちの一人だったのだろうか。
 ついに箸を持つ手を止めてしまった佐東に、須々木はくすりと笑った。左手を伸ばし、彼女の頬をぐいと引き伸ばす。
「いひゃ」
「佐東さんがそんな暗い顔をする必要はないだろう? おれは別に同情を引きたくてこんな話をしたわけじゃないんだし」
 ――それに、おれ自身は不自由なく育ってきたつもりだしね。金銭的にはむしろ恵まれていたほうさ。
「別に、同情なんて……」
 そんな、えらそうなこと。佐東は首を横に振る。――ただ、平凡な家庭に生まれ育った自分には想像もつかない状況に育った須々木に対して、彼のその話を聞いてもなんと相槌を打っていいかわからないのだ。黙り込むのも感じの良くないことだと、わかってはいるのだけど。
「おれはね、佐東さん」
 須々木は静かに微笑みを浮かべている。その眼差しは、どこか遠くを眺めていた。
「早く大人になりたかったんだ。誰かの庇護のもとにないと何ひとつ自由にならないような、未成年でいるってことは屈辱的だと思ってた」
 大人になって、誰の力も借りず、自分の意のままに振る舞えるようになりたい。その為の力を。力のある大人になる為に、学力が欲しかった。特に運動能力に優れるでもなく、他に特別な才能の見受けられなかった自分が手っ取り早く自立するには、それしかないと。ただ、それだけのことだった。
「別に、おれは誰のことも恨んじゃいないんだよ。別に母親に会いたいとも思わないし、父親のことだってどうでもいい。戸籍上の両親にだって、むしろ感謝しているよ。彼らのお陰でいろいろと助かったからね」
 ――だけど。
「とっとと全員と縁を切りたいっていうのも、正直なところなんだよ」
 須々木は笑う。何故彼は笑えるのだろう、と佐東は思った。その強さは、一体どこから……。
「今はその為の力を準備しているところなんだ。成人まで、あと二年……もう少し」
「…………」
 佐東はじっと須々木を見つめる。その須々木の言葉に嘘はない――ように見えた。
 けれど、ひとつだけ聞いておかなければいけない。佐東はそう思った。
「どうして、わたしに話してくれたの……?」
「うん?」
 須々木は卵焼きを口に含みながら、眼鏡の奥の瞳を瞬いた。
「別に、佐東さんにはいつ話しても良かったんだけど。手作りのお弁当が初めてだって言っちゃったから、ついでにね」
 いつかは話すつもりだったんだよ、と彼にしては珍しくやや言い訳じみた言い方であった。
「でも、どうして?」
 ――わたしに、話してくれるの。須々木は食い下がる佐東に苦笑した。
「そりゃあ、決まってるでしょ」
 佐東さんには、聞いて欲しかった――知って欲しかったから。
「知ったうえで、これからもおれと付き合っていて欲しかったからね」
「…………」
「ちょっと強引に進路も決めさせちゃったし」
 須々木は手にしていたペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「あれは……でも」
 佐東は目を伏せる。
「決めたのはわたし、だし」
「その決めた理由っていうのに、おれは関係ないっていうの?」
 関係ないとは言わせないよ、とでも言いたげな強い口調だった。佐東は苦笑する。
「そうね。確かに……須々木くんのせいよね」
 ――全部、全部、須々木くんのせいだ。
「全部?」
 全部って何のこと、と言いたげに須々木が眉を寄せる。進路のことだけではないというのか、と。
「そう」
 佐東は頷く。どこか晴れ晴れとした心地で、断言した。
「全部、よ」

 ――この三年間で、きっとわたしは変わったのだと思う。
 とにかく目立たず、平凡に、普通に、人目につかぬよう、目をつけられぬよう、集団の中に埋没していたいと、それだけを願っていた。それなのに、いつの間にか――少なくとも、今はそうでもない。俯いてばかりじゃなくて、少しは顔を上げてみてもいいのだと思う。そうでないと見えないものもたくさんあるし――何より。
 須々木くんを見失ってしまうのは、嫌だから。

 佐東はそれ以上何も言わなかった。だが、須々木は何かを合点したようにくすりと笑う。
「そっか」
 ――全部か。
「それは――」
 うれしいなあ。
 佐東が取り出した弁当箱を目にした時と、まるきり同じ表情で。須々木はそう言って、冷たく澄んだ青空を振り仰いだ。

 ふと、須々木が佐東を見遣る。
「ところで、試験は大丈夫だったの」
「え……うーん」
 佐東は弱ったように唸った。大きな失敗はしていない――と思う。でも、そんなの発表まではわからない。苦し紛れに言い返す。
「須々木くんは、そりゃ自信あるんだろうけど……」
「皆、そう言うけどさ――おれも同じだよ」
 自己採点が問題なくたって、実際は思いも寄らないミスをしているかもしれないしね。合格発表までは、気が気じゃないさ。
 須々木は弁当箱を仕舞い込み、そして佐東のくずした正座をしている膝を枕に、ごろりと寝転がった。その重みに、佐東は目を白黒させる。
「す、須々木くん?!」
「やれるだけのことはやったんだ――あとは結果を待つしかないよ」
「…………」
 その声音は、いつになく硬かった。佐東からは須々木の後頭部が見えるだけで、今の彼の表情は見えない。
「…………」
 ――須々木くんも、少しは不安なんだ。
 佐東は思った。もしかすると……須々木くんは、今までずっと誰にも弱音を吐かず、励まされることもなく、独りきりで頑張ってきたのではないか。親もなく、家族もいない状況で――他人が彼を叱咤激励することはあったかもしれない。でも、須々木くんがそれに対して心を開いたかというと……。
「須々木くん」
「なに」
 須々木は振り向かない。佐東は腿にその眼鏡のつるが当たるのを感じながら、ぽつりと言った。
「二人とも、受かってたらいいね」
 ――別々の大学ではあるけれど、そんなに遠くはないし……遠くはないところをわざわざ選んだのだし。
「せっかく須々木くんが勉強見てくれたんだもの」
「そんなの」
 須々木が彼女の腿の上でぐるりと首を捻った。いつもの――佐東の前でしかしない笑い方で、唇をにやりと歪める。
「デートの口実だけどね?」
 ――佐東は思わず噴きだす。
 ああ、やっぱり須々木くんは須々木くんだ……。
 そんな彼が――わたしは。そんな彼だから、こそ……。

「須々木くん!」
 卒業式の後、最後のホームルームが終わった。
 友人との名残を惜しむ挨拶もそこそこにひとりさっさと帰路に着こうとしていた須々木を、佐東は追い掛け校門の前で呼び止める。振り向いた須々木の前に、背後の母親を手招いた。
「お母さん。この人が須々木くん」
「あら」
 佐東に――侑子に良く似ていると言われる、おっとりとした母である。須々木は珍しく心底驚いたように佐東を見たが、やがていつもの優等生然とした表情を取り戻し、一礼した。
「初めまして、須々木裕です」
「貴方が……そう。須々木くん」
 娘がお世話になっています、と母は言った。この青年が娘の彼氏であることは、母も察知してはいるようだ。それはそうだろう、彼の名は何度か家で口にしたこともあったし、何よりも今わざわざ佐東が紹介したのだから。
「貴方と一緒に勉強するようになって、この子すごく成績が伸びたの。随分お世話になったようね、ありがとう」
「それはたまたまです。佐東さんが頑張っただけでしょう」
 しれっと須々木は言って、そして笑みを深めた。
「うまくいけば、ぼくら近いところで大学生になるから――これからもよろしくお願いします」
「これからも?」
「ええ」
 少し怪訝そうな顔の母親には構わず、須々木はにこにこと笑っている。
「本当にお世話になっているのは、ぼくの方ですから」
 ――ね、佐東さん?
 思わぬ須々木の言葉に、佐東はたじろいだ。
「そ、そんなことは……」
「だから」
 遮った須々木は、笑みの形に目を細めている――ああ、でも、これは笑っているんじゃない。佐東は思った。何ひとつ逃すまいと、狙いを定めている目だ……。
 佐東はその眼差しに、覚悟を決めた。
「これからも、よろしくね。佐東さん」
 真っ直ぐにその視線を受け止める。
「こちらこそ。須々木くん」
 受けて立つわ、と佐東は思った。

 ――こうして、佐東さんと須々木くんの高校生活は幕を閉じたのだった。