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佐東さんと須々木くん(2)

 放課後の校門は、低く高くさざめく声で溢れていた。ちらほらと目立つ他校の制服は、たいてい目当ての異性ひとりと出逢い、連れ立って帰っていく。中学時代からの付き合いだろうか、それとも塾や予備校で知り合ったのか。
 ──まあ、どちらにしてもわたしには関係ないけど。佐東侑子は笑い合う男女をまぶしげに横目で見ながら、帰路を急いでいた。校門を抜けると、そこは青々と葉の茂った並木道である。その木の名前を、佐東は知らない。
「……おい!」
 ざわめきの中で、ひときわ大きく聞こえた男性の声。誰かを呼んでいるのだろうが、それにしてはつっけんどんだ。たぶん、怒っている。巻き込まれまいと佐東は足を早めようとした、その腕を、誰かが強く引く。
「無視、すんなよ」
 低い声。佐東は足を止め、恐る恐る振り向いた。視線の先に佇むのは、見覚えのある顔だった。ただし、髪だけは記憶と違って茶色に染められていたが。彼の着ている制服は、地下鉄で数駅は離れた場所にある公立高校のものだ。わざわざここまで来たんだ、と佐東は思った。
「南野くん……?」
 中学時代の同級生の名前を呼ぶと、彼は端正な顔を歪め、彼女の腕から手を離した。
「覚えてんじゃねーか」
「う、うん」
 だって、人気者だったし。内心つぶやく。まあ、わたしの名前は覚えていないみたいだけど、でも別に構わない。むしろその方がいい。佐東は思う。彼は良くも悪くも彼女と関わりはなく、つまり傍観者の立場だったのだ。助けてもらったわけではないが、それは期待しすぎるというものだ、と佐東は既に諦めていた。
「あの、何……?」
 おずおずと尋ねる。できれば、早くこの場を立ち去りたい。いくら直接関わりがなかったとはいえ、中学時代の同級生にはあまり会いたくなかった。
 だが、南野はなかなか口を開かない。いくらかの逡巡のあと、ようやくぽつりと言った。
「石田」
「え?」
「石田、愛」
「え? ……あ、ああ、うん」
 佐東は慌ただしくうなずいた。クラスは違うが、その名は知っている。彼女は別の中学出身で、かわいいと評判だった。ぱっちりとした目にグロスでつやつやとした唇。確かにかわいい、と佐東も思う。
「石田さんに、用事なの?」
「…………」
 南野は黙り込んだ。
「……あの、」
「最近、あいつに変わったことはないか?」
「はっ?」
 佐東は目を瞬いた。質問の意図がよくわからない。南野はいらだったように佐東を睨んだ。
「だから! 最近あいつと連絡取れねーんだよ! 何か知らねーかって聞いてんの」
「…………」
 佐東は彼の意図をようやく理解し、やがて困惑した。石田愛は──確か、サッカー部の二年生の彼氏がいる。というより、最近できたはずだ。南野と石田がいつからの知り合いかは知らないが、たぶん南野はその事実を知らない。
 そして、もし今自分がその事実を知らせたら──たぶん、南野は激高する。そんな気がした。そういう事態は勘弁して欲しい。
「し、知らない」
「メアドもケー番も変わってんだけど」
 まるで佐東がその原因だとでも言いたげに、南野は彼女を睨んでいる。だから知らないし、と佐東は心の中でつぶやいた。
「とりあえず、わたし何も知らないから……じゃあね」
「おい」
 そそくさとその場を離れようとした彼女を、南野は呼び止めた。
「お前、石田を連れて来いよ。明日の放課後、場所はここでいい」
「ええ?!」
 そんなむちゃな。佐東は首をふるふると左右に振った。だが、南野はそれを無視して言い募った。
「言うこと聞けよ。さもなきゃ」
 目を見開いたまま、口元だけが笑みのかたちに歪む。──それは、彼女がかつていやというほど見た種類の表情だった。幾度となく、彼女はこういう顔を見た。そのたびに、碌でもないことが起こる。
「お前がいじめられてたってこと、この学校にいる塾のツレにバラしてやろうか。まだ、ここのやつらは知らないんだろう? その為にお前はここ受けたんだって、みんな噂してたぜ。逃げたんだってな」
「…………」
 答えない彼女に、南野は言い募る。
「お前を見る目、変わるかもな?」
「…………」
 ひどい。佐東は立ち尽くした。なんで、わたしが……なんで。拳が震える。なんで。わたしは、何もしていないのに。
 ――でも……。
 佐東はふと思う。
 ――何もしてこなかったから、何も変わらなかったのかもしれない。わたしはただ、何もしなかった。初めて自分からしたことが、この学校を選んだこと。そうしたら、少しは変わった。何かをすれば、少しは変わるのかもしれない。
 でも、今はどうしたらしいのか、わからない……!
「あ、佐東さーん」
「?!」
 脳天気な声に割り込まれ、佐東の目に浮いていた涙は引っ込んだ。
「今、帰り?」
 彼女の横で歩みを止めたのは、クラスメイトの須々木裕。南野とは対照的な、地味な男子だ。耳にはめていたイヤフォンをひとつ外し、手に持っている。
「す、すずき」
 慌てたのは、何故か南野だった。
「久しぶり、南野くん」
 須々木は落ち着いた様子で、彼に挨拶をしている。
「誰かに用事? 呼んでこようか」
「い、いや、別に」
 何故、南野はこんなに焦っているのだろう。佐東は不思議に思った。そもそも、彼らはどこで知り合ったのだろう。
「ああ、そういえば」
 須々木はあくまで涼しい顔をしていた。
「南野くん、石田さんと別れたんだって?」
 いきなり、核心をつく。それがわざとなのかどうか、佐東にはわからなかった。南野は動揺を何とか押し隠そうとしていたが、赤く充血した目が彼の内心を物語っている。
「石田が──言ってたのか?」
「いや、直接しゃべってはいないけど。新しい彼氏ができたみたいだったから」
「そ……そうか」
 南野はつぶやき、目をそらした。
「ならいいんだ」
「ふたりは知り合い?」
 須々木は彼と佐東を交互に見遣った。佐東は俯き加減になって。その視線を避ける。
「中学が同じでな」
 南野は短く答えると、くるりと踵を返した。
「じゃ、おれ帰るわ」
「そう」
 須々木は明らかに肩を落として歩み去る南野を見送り、やがて佐東に向き直った。
「なんか困ってたみたいだけど。大丈夫?」
 首を傾げ、尋ねる。佐東は俯いたまま、小さくうなずいた。
「……うん。ありがとう」
「どうせ、石田さんとの仲を取り持てとか、そういうこと言ってきたんだろう?」
「良くわかるね」
「わかるよ」
 須々木は鼻で笑った。
「なんで、きっぱり断んないかなあ」
「…………」
 そんなの、できるならそうしている。だが、佐東は俯いて唇を噛みしめるだけだった。
「佐東さん?」
 須々木の声にも、彼女は動かない。
「…………」
 須々木はため息をついたようだった。
「知らないうちに彼女に捨てられてたような男にびびって、どうすんの」
 普段は真面目な優等生然とした須々木が、彼女の前でたまに見せる荒っぽい素顔。
「この場合、佐東さんの立場の方が優位だってこと、わかってる? 彼みたいな人間はね、メンツで生きてんの。付き合ってた女が知らないうちに新しい彼氏を作ってて、しかも連絡も取れなくってわざわざ学校まで押しかけちゃうなんてさ、今のツレにバレたらコトだろうね」
「…………」
 そんなことをネタに、彼は自分に南野を脅せとでもいうつもりなのだろうか。そんなこと、彼女にできるはずがない。
 佐東は彼の言葉を無視して、別のことを言った。
「須々木くんは、南野くんとどこで知り合ったの? 塾?」
「内緒」
 顔を上げた彼女の目の前で、須々木は冷たい目をして、少しだけ口角を上げた。佐東はびくりと体を震わせる。
「おれにまで怯えないでよ」
 須々木は困ったように表情を変え、頭を掻いた。
 佐東はつぶやく。
「……どうして、助けてくれたの」
 須々木が、わからない。たまたま席が隣だというだけなのに、何故しばしば自分に話し掛けてくるのか。クラスメイトに見せない顔を見せ、他の人にはしないくだけた口調で話すのか。わからない。
 高校に入ってからの自分は、まずまず普通の女子高生であると思う。友達もできた。目立つ存在ではないが、浮いてもいない。理想的なポジションにいる。
 だが、須々木は誰がどう見ても少し変わっている。周囲と馴染んでいないわけではないが、何となく普通ではない。誰も気づいていないのかもしれないが、彼女は何となく気付いている。いやきっと須々木自身が、何となく彼女に気付かせているのだろう。
「別に、助けてないよ」
 須々木は片方のイヤホンを指先でいじりながら、じっと佐東を見つめた。
「はっきり言ってやらないと、ああいうのが今後学校の周りをうろうろするってことでしょ? それはちょっと、鬱陶しい」
「何それ……?」
 不思議そうな顔をする佐東に、須々木は微笑んだ。
「あんまり昔の知り合いに会いたくないのは、おれも同じってこと」
「……そう」
 佐東はぼんやりとうなずき、名前も知らない並木を見上げる。――同じ、か。
「楓だよ、」
 須々木がぽつりと、そう言った。