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佐東さんと須々木くん(19)

 秋が来た。センター試験まで、いや、もはや二次試験までも百日あるかどうか――数えたくない、と佐東は思った。
 予備校で返却された模試の結果に、佐東は肩を落とす。第一志望校の欄になんの容赦もなく印字された、Dの文字。――いくら彼女が現役生だからとはいえ、この時期にこれはまずい。第二志望もC、第三志望は辛うじてB判定。
 二学期の中間テストも、あまり結果は芳しくなかった。勉強そのものは頑張ったつもりだったのに……少しくらいは学年順位も上がるのではないかと密かに期待すらしていたというのに、むしろ今までよりも少し悪いくらいの結果だった。この時期はみんな勉強してるよね、そんなのわたしだけじゃない、当たり前だ。佐東は反省した。
 そんな中でも、やはり須々木は須々木だった。学年一位のキープは当然のこととして、彼が第一志望としている最難関校の判定もきっちりA。時には一緒に勉強しているというのに、この差は一体何なのだろうと情けなくなる。
 一応、彼らは付き合っている間柄のはずではあるのだが、彼は何が良くてこんな、私なんかの相手をしているのだろう、と佐東は訝しんだ。可愛くもないし美人でもない、自分では自分を中の下だと思っているが、実際は下の中くらいかもしれない。特別気が利くわけでもないし、話が面白いというわけでもない。驚くような特技も、別にない。平凡な――いやになるほど平凡な、つまらない一女子高生である。
 須々木は一見地味だが、実は人望も厚いし、一部の女子からも根強い人気があることを、佐東は既に知っている。まあ、彼らは須々木の温和な優等生としての表の顔しか知らないのだろうが……。
 やはり、須々木は自分をからかって、遊んでいるのではないだろうか。そう思うと、佐東の胸はつきつきと傷んだ。須々木が自分を構っているのは、ただの気まぐれなのではないか。きっとすぐに飽きられる。そもそも、「自分の近くの大学を受けろ」なんて無茶なことを言っているけど、受からなかったらどうしよう。呆れられるかもしれない、やっぱりね、なんて冷たく言われたらどうしよう……。
 嫌だな、と佐東は思った。誰かに嫌われることになんてもう慣れたつもりだったけど、でも須々木くんには嫌われたくないし、話せなくなるのも嫌だな。でも、きっと時間の問題なんだろう。少しずつ、薄めていかないと。須々木くんを特別だと想ってしまったこの気持ちを、打ち消していかないと……。

「佐東さん、ちょっと」
 佐東がそれとなく須々木を避けるようになってから数日。ホームルームが終わった後、佐東はそそくさと教室を出たところでぐいと腕を掴まれた。
 振り向くまでもない、須々木だ。
「な、なに?」
 少しだけ顔を向けて、佐東は尋ねる。
「今日、ちょっと急いでて……」
「ふうん?」
 須々木は銀縁眼鏡の奥の瞳を、きゅう、と細めた。
「ま、俺には関係ないね」
 須々木はごく小さな声でそう呟くと、佐東の腕をぐいと引いた。
「須々木くん……?!」
「わあわあ言うと、目立つよ?」
「…………!」
 佐東は抗議の声を飲み込んだ。目立つのは、今でもやはり嫌だ。人の目は怖い。佐東がそうであることを彼はよく知っていて、わざとそれを口にして佐東をコントロールするのだ、この男は。
「相変わらず仲良くやってんなあ」
 廊下ですれ違う友人らのからかいの声も須々木は何なくいなして――佐東はもはや俯きっぱなしで、自分がどこに向かっているのか全く把握していない――図書室の中に入った彼は、つかつかと奥まで進むと、佐東の腕を掴んでいるのと逆の手で学生服のポケットを探り、小さな鍵を取り出した。ドアノブの中央の鍵穴に差し込んで回すと再びそれを仕舞い込み、彼は扉を開けた。佐東をずるずると引き摺り込み、後ろ手にドアを閉めてご丁寧に鍵を掛ける。佐東がおそるおそる顔を上げると、そこはおそらく倉庫だった。書架に並べられていない本を保管しておく為の、狭くて埃っぽい小部屋。なぜ須々木君はこんな場所の鍵を持っているのだろう、と疑問に思ったが、もはや彼女は敢えて尋ねなかった。
「で?」
 須々木はじろじろと彼女を無遠慮に見下ろしながら、その腕を掴んだままだった手を離した。
「で、って……?」
 佐東は目を逸らす。須々木はわざとらしくため息をついた。
「何? もう付き合いきれないってこと?」
「え?」
「いくらおれでもさ、いきなり露骨に避けられちゃ気になる」
 憮然とした顔で、須々木は彼女を真っ直ぐに見ている。
「お互い大事な時期なんだし、腹に言いたいこと溜めておくのは良くないだろ?」
「…………」
 それはそのとおりだ、と佐東は思った。恋愛にかまけて勉強に身が入らない、なんて笑い話にもならない。
 正直に言おう。佐東は意を決して口を開いた。
「……最近、その」
 須々木みたいな優等生の前でこんなこと言うのは恥ずかしい。しかし、仕方がない。その場限りの嘘をついても、きっと須々木君には見破られてしまう――彼女には奇妙な確信があった。
「成績が、ぱっとしなくて」
「ああ、そうなんだ」
 須々木の反応はごくあっさりとしたものだった。何だそんなこと、とでも言いたげな。ひどい、と佐東は思った。わたしのことなんて本当は興味ないんじゃないの――どうして興味があると思ったの、と言われたらどうしよう。
「で?」
 須々木は先を促した。
「対策は考えたの?」
「対策……?」
 思わぬ問いに、佐東は目を白黒させる。須々木は真顔だった。
「当たり前だろう、問題点の洗い出しをして、それぞれに対する対策を立てない限り同じミスを繰り返すよ?」
「……え、えっと」
「おれといることが勉強の妨げになっているわけはないから、おれを避けても無駄」
 須々木は先回りをするかのようにそう言い切った。なんという自信だ、と佐東は思った。そこから逃げるように、彼女は俯く。
「それはそうかもしれない、けど」
 ――志望校の設定に、無理があるのかも。
「じゃ、変える?」
 須々木はあっさりとそう言った。佐東は、えっ、とつぶやく。――そこを受けろって言ったの須々木くんなのに。
 佐東の抗議の眼差しにも、須々木は少しも動揺した様子は見せなかった。
「あくまでおれは提案しただけ。それを容れるも容れないもきみ次第、だろ?」
「そ、それはそうだけど……」
「おれは、大学に行ってもきみが近くにいればすぐ会えるし、いいかな、と思った。それで、きみに向いていそうな学科や学校を選んできみに提示した――きみの学力的にも無謀ではないと判断した。でもそれは全部おれが勝手に考えたことだ」
 淡々と、表情の一つも変えずに須々木は言う。
「もし、きみがそうじゃなくて、別の大学を志望するというのなら、そこに自分の進路として相応しいものを見出して、そっちがいいと言うのなら、おれは止めはしない。当たり前だけど、止める権利もないしね」
「…………」
 佐東はぽかんと須々木を見つめた――今更、そんな。彼はその視線を真っ直ぐに受け止めている。
「どうなの? きみは自分の進路をどうしたいの」
「…………」
 ――なんで、今更突き放すようなことを言っておいて、こんな時にそんな風に優しい声を出すの。佐東の胸が詰まる。苦しい、でも……嫌じゃない。
「……わたし」
 佐東は何度も瞬きを繰り返した。――須々木が彼女の志望校として候補に上げた大学のことは自分なりに調べたし、親とも(無論、須々木のことは伏せて、だが)相談した。その結果、彼女は心底そこを受けたい、と思っている。受けて、受かって、通いたい、と――きっかけは須々木の提案だったかもしれない、けれど今は、そう言ったことを抜きにしても、その大学を志望している。その気持ちは、わたし自身のものだと胸を張って言える。
 ――今はまだ、顔を上げることも胸を張ることもできないけれど。
「……がんばる。がんばりたい、と思う」
「そう、それなら」
 俯いたままの彼女の頭の上に、何かが載せられた。ぽん、ぽん、と弾むように、それはきっと須々木の手だろう。
「それでいいんじゃない?」
「…………」
 おそるおそる顔を上げると、須々木はいつもどおりの飄々とした顔で彼女を見下ろしていた。
「良くなかった模試と試験の問題と答案、明日持ってきて」
「え?」
「放課後、一緒に復習しよう。どうして間違ったのか、どこがわかっていなかったのか、突き止めないと駄目だろう。受けっぱなしの試験なんて、受けるだけ時間の無駄だよ」
 ――もうやっているのなら、いいけど。言われた佐東は首を横に振る。須々木はやっぱりね、とため息をついた。
「おれは、返されたその日にやるようにしているよ。時間が経てば経つほど忘れてしまうからね」
「間違ってるところが少ないからできるんじゃないの……」
「なに?」
「ううん、何にもない」
 佐東は慌てて首を横に振る。と、須々木の右手が伸びてきて彼女の左頬をくいと引き伸ばした。
「いたっ」
「全く、振り回すのもいい加減にしてほしいなあ」
「はあ?」
 佐東は痛む頬を抑えて彼を睨む。
「誰が、誰を?」
「きみが、おれを。だけど?」
 そう聞こえなかった? と、須々木は澄ました顔で言い、笑う。
「ま……、きみがあっさり志望を変えたり諦めたりするようなら、おれもこうはならなかっただろうけど」
「…………」
 こうはならなかった、ということは、今はいったいどうなっているというのだろう、と佐東は頬から掌を離した。そもそも、それほど痛くはなかったのだ。
「今回はもういいけれど、ね」
 須々木はじっと彼女を見据えた。この、ひとの心の奥の奥まで見通すような、彼の切れ長の瞳が彼女は苦手だった。嫌いだというのではない、そんなはずがない。ただ、落ち着かなくなって、どうしようもなくどぎまぎして、苦しくなる。それでいて逸らされると、ほっと息をつくような心地がすると同時に、言いようもなく心細くなるのだ。再びその視界に彼女を入れてくれるだろうか、またそのレンズに映る自分を見ることができるだろうか――まったく、何故そんなことを自分が不安に思わなければならないのだろう!
 須々木は彼女の逡巡を知ってか知らずか、静かに口を開いた。
「勝手な思い込みで、おれを避けないこと。おれだって、不安にもなるし心配もするんだ」
「…………」
 佐東は、うん、と頷いた。ごめんなさい、と小さく付け加える。
 ――もしかしたら、須々木くんもわたしと同じなのかもしれない。わたしが須々木くんの言葉で、表情で、眼差しで、態度で、一喜一憂してしまうように。須々木くんも、わたしのことを少しは気に掛けてくれているのかもしれない。だからこそ、須々木くんはわたしの迷いに、不安に、気付いたのだろうから。
「ごめんなさい」
 繰り返して、佐東は須々木の学生服の裾をそっと握った。
 ――手を伸ばしてもらってばかりじゃ駄目だ。わたしも、ちゃんと手を伸ばさないと……そうでないと、須々木くんにとって面倒なお荷物になってしまう。そんなふうじゃ、いつ手放されたって不思議はない。
 それは、いやだ。
 わたしは須々木くんといたいと思っているのだから、そのためにはちゃんと努力をしないと――やれることをやらないでおいて、後悔するのはいやだ。
 受験勉強も同じ――同じと言っていいか少し疑問ではあるけれど、でもきっと同じだ。やれることは、やらないと。
 佐東がそう心に決めたとき、不意に須々木が少し背を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。
 近い。佐東は思わず後ずさる。
 須々木は苦笑した。
「そんなに俯きっぱなしじゃなくてもいいだろう。せっかくなのに」
「せっかく……?」
「ほら、ふたりきり。きみの苦手なひとの目もない」
「な……」
 わざとらしく低められた声に佐東は目を白黒させ、彼の上着の裾からぱっと手を離す――それを見た須々木は、くくく、と喉の奥で笑った。
「冗談だよ、冗談」
「須々木くん!」
「さすがのおれも、受験前の大事な時期にはねえ」
 肩をすくめた須々木は、まるで獲物を狙う獣のように、すうっと目を細めた――
「だから、おあずけ」
「!」
 思わず、佐東は荷物を抱えてドアから飛び出した、その背後から須々木の声が追ってくる。
「ちゃんと明日、試験と模試を持ってくるんだよ!」
 真っ赤になっているだろうから、顔は上げられない。それでもきっと、彼女はそうするだろう――そして、須々木と一緒に勉強に励むのだろう。
 何故なら――
(わたしだって)
 佐東は思う。
(わたしだって、須々木くんと一緒に大学生になりたいんだから)
 同じ大学ではなくても、できれば近いところで――このままの、続きで。
(わたしだって……)
 佐東はますます顔が赤くなるのを感じながら、明日の放課後をひどく待ち遠しい、と思った。