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佐東さんと須々木くん(18)

 受験生の夏休みは、休みであって休みでない。そんなことは佐東侑子もよくわかっていた。
 高校生活三回目の夏。高校での補講と、予備校での夏期講習。模試。友人と出くわしては顔を見合わせてため息を付く日々である。
「侑子はいいよね、彼氏もできたしさー」
 予備校で出会った友人のつぶやきに、侑子は飲んでいたペットボトルのレモンティーを噴き出しそうになった。
「どこか遊びに行った?」
「まさか」
 佐東は首を横に振る。
「せいぜい、図書館行って勉強するくらいかな……」
 それを聞いた彼女は、感心したような呆れたような、何とも言えない顔で鼻息を漏らした。
「さっすが! でもさ、教えてもらえるんでしょ、羨ましいよ」
 返答に困って曖昧に笑う佐東に、友人はさらに尋ねた。
「おんなじ大学受けるわけじゃないんだよね? 侑子もできるけど、須々木君は桁違いじゃん」
「うん、違う」
 佐東はあっさりと肯いた。その通りだ。今も須々木は――彼が一応、佐東の彼氏ということになるのだが――彼女の受けている夏期講習の上位クラスを受講している。
 須々木裕。彼は進学校と言われる彼女らの高校の中でも、入学以来ほぼ学年トップであり続けているのだった。銀縁眼鏡の絵に描いたような優等生。きっと同級生は皆、彼をそのように見ているだろう。多分、佐東以外の誰もが。
「じゃあ、卒業した後って……」
 友人はその続きを何か言いたげに口元をうごめかせ、やがて思い直したように肩をすくめた。
「まあ、今からそんな心配しても仕方ないか。問題は受験よね、受験」
「……そうそう」
 佐東は気弱げに微笑む。
「先のことなんて、ね」
 ―が本当は先のことどころか、そもそも何故自分が須々木と付き合っているのか、数ヶ月が経った今も佐東はそれすらよく分からずにいるのだった。

 須々木とは高校一年の頃から同じクラスで、何かと佐東に良く話し掛けてくる存在だった――多分、彼女が自分のそれまでの環境を変えるためにわざわざこの高校を受験したことを、彼は知っていたのだと思う。そうとしか思えない言動が多々あるからだ。
 それだけではない。彼は彼女の臆病なところを――引っ込み思案なところ、自分に自信のないところ、とかく目立つのを嫌がるところ、集団の平均に埋没していたがるところ、そういったところを徹底的に指摘し、糾弾し、時に嘲笑した。腹立たしくなかったといえば嘘になるが、それでも完全に須々木の存在を拒絶しきれなかったのは、きっとそこに彼なりの真摯さがあったからだろう。少なくとも、彼はずっと佐東と真っ直ぐに向き合っていてくれた。彼女の言葉に耳を傾け、そしてそれに応えてくれた。それだけは、信じられる。
 しかしこの彼の言動の源が何なのか……そもそも何故彼女だったのか、それはずっとわからない。
 何故、わたしなのか。

 頭がくらくらするほど密度の濃い夏期講習の授業を終えると、既に時刻は十八時であった。佐東は未だ瞼の裏にちらつく英単語を追い払いながら、教室の外へと出る。
「佐東さん」
 壁際で単語帳を繰っていた須々木が、彼女に歩み寄ってきた。周囲の視線が痛い――受験生のくせに、と言われているようで佐東は思わず身を縮める。須々木に言わせれば、佐東の成績はむしろ最近良くなっているのだから、何も肩身の狭い思いをすることなどない……らしい。正論である。理屈は納得できる、だが彼女の自意識は付いてこない。
「じゃあね侑子、須々木くんも」
 先ほどの友人が足を止めた佐東の横をすり抜け、手を振って帰っていく。須々木もよそ行きの、まるで毒気のない笑顔で手を振っていた。全く、外面だけは良いのだから。佐東は憮然としながらその笑顔を眺めた。
「そんなにまじまじ見ないで欲しいなあ」
 須々木はふと真顔になって佐東を見返した。
「照れるだろ」
「……嘘ばっかり」
 佐東はため息をひとつつき、歩き始める。すぐにその横に須々木が追いついてきた。
 階段を下り、予備校校舎の外に出る。途端、夏の夜の湿気に満ちた熱気に襲われ、佐東は顔を顰めた。
「暑い……」
 受験生は皆一様にしかめ面をしながら、駅の方角へ向かって歩いていく。彼ら二人も行く先は同じだ。
「今日、花火があるよね」
 突然、須々木が言った。
「花火?」
 佐東が聞き返す。
「そう」
 須々木が口にしたのは、ここからふた駅ほど離れた辺りで行われる祭りの名だった。
「寄って帰っちゃ駄目かな」
「ええっと……」
 迷う彼女に、須々木は畳み掛ける。
「少しくらいは息抜きも必要だよ」
 言う須々木に、家に連絡してみる、と佐東は携帯を取り出した。
 友達とお祭りに寄って帰る――そう伝えた佐東に、母はあっさりとそう、たまには息抜きも必要よね、気を付けて、と返した。日頃の生活態度と成績がこういう時に物を言うのかしら、と佐東は思う。
「須々木君は……連絡しなくていいの」
 彼が両親と暮らしていないことは知っている。それでも、家に全く誰もいないというわけではないだろう――前に会ったあの、女の人もいたことだし。尋ねた佐東に、須々木は小さく笑った。
「心配要らない。そもそもおれは一人暮らしだから」
「……そうなんだ」
 佐東はこれ以上は聞くまいと思った。須々木が自分から話すのでなければ、或いは自然と自分の耳に入るのでなければ、あれこれ無遠慮に踏み込むべきではない領域だ。

 夕方の混み合った電車に乗る。同じ祭りに向かうのか、浴衣を着た男女の姿が目についた。大学生、だろうか。――来年の今頃、わたしは……いや、わたしたちは。一体どうしているのだろう。その時もまだ、須々木くんとわたしは……。
「降りるよ」
 須々木の声にはっと顔を上げた。彼はぼんやりしていた彼女の手を掴み、電車の扉の方へと向かっていく。佐東は引き摺られるようにしてついて行った。
「人が多いなあ」
 須々木はぼやく。掴まれたままの手――いやこれは手を繋いでいる、というべきなのだろうか、と佐東は困惑する。
「お腹すいた? 何か食べる?」
 駅前から既にちらほらと見られる屋台を指し示し、須々木は尋ねた。
「須々木君は?」
 聞き返すと、彼は何故か少し顔を顰めた。
「君のお腹が空いているかどうかを、おれが先に尋ねたんだけどな」
 聞き返す前に、返事が欲しいんだけど。
「…………」
 佐東は困って視線を落とす。
「そんなに、ぺこぺこではないけど……多少は空いた、かな」
「おれはまあまあ空いてる」
 須々木はあっさりとそう答え、佐東の手を引いて歩き始めた。
「たこ焼きは好き?」
「う、うん」
「焼きそばもあるね」
「…………」
「たこ焼きにしようか?」
「うん」
 何故分かったのだろう、と佐東は思う。正直なところ、今の気分はたこ焼きだった。
 熱気に包まれた屋台に並び、彼らは十個入りのたこ焼きとジュースをひとつ買った。無論割り勘である。佐東はそこは譲らない。
「佐東さん、先食べなよ」
「え?」
 どうして、と尋ねた佐東に、須々木はふいと目を逸らした。
「おれ、猫舌なんだ」
「…………」
 猫舌。須々木君が。毒舌のくせに。
「意外」
 笑いを堪えて呟く佐東に、須々木はやや憮然とした顔をして見せた。その日頃に似合わぬ子供じみた仕草に、佐東はますます笑ってしまう。
 須々木がひょい、と彼女から割り箸を取り上げた。
「早く食べなよ」
「あつっ?!」
 熱々のたこ焼きをひとつ口の中に放り込まれ、佐東は悲鳴を上げる。火傷するほどではないし美味しい、しかしこれはあんまりだ。ふふん、と笑う須々木を佐東は涙目で睨んだ。
「あふい……」
「さっき買ったジュースあるだろ?」
「…………」
 佐東が黙ってジュースを飲んでいると、須々木はたこ焼きにふうふうと息を吹きかけて冷まして口に含んだ。その慎重な仕草に腹が立つ。
「うん、美味しいね」
 ――そういえば、屋台で何か買って食べるの初めてだなあ。呟いた須々木に、佐東は目を見開いた。
「初めてなの?」
「そうだけど」
 須々木は平然と答える。その眼鏡の奥の切れ長の瞳は、いつもと変わらず冷静だった。
 佐東は思い返す――屋台になど、幼い頃から何度となく立ち寄っている。例えば、両親と出掛けた近所の小さなお祭りの思い出。時には父の地元であったり、母の地元であったりもした。毎年欠かさない家族との初詣でも、必ず屋台には立ち寄っている。中学の頃はそれどころではなかったけれど、高校に入ってからは何度か友人とも出掛けたし……。
 須々木は今まで一度もそういう経験をしてこなかった、ということなのだろうか。
 佐東は口を開いた。
「じゃあ」
 折角だから、と言葉を継ぐ。
「他のものも食べてみる? それか、金魚すくいとか、やってみる?」
「金魚すくい、したことあるの?」
「あるよ。大抵すぐ死んじゃったけど、しばらく飼ってたこともある」
「へえ」
 でも、生き物はちょっとな――と躊躇う須々木に、佐東はさらに提案した。
「じゃあ、スーパーボールすくいとか。射的とか」
「いいよ」
 小さく噴き出して、須々木は言う。
「何、変な気の遣い方して」
「別に、そういうんじゃないけど」
 口調はいつものそれだが、須々木の眼差しはひどく優しい。その目は、ずるい。佐東は狼狽して俯いた。
「行くよ」
 須々木はまた、佐東の手を引いて歩き始めた。佐東はつんのめりながらも足を前に出す。その須々木の強引さが、今の佐東にはどことなく心地良かった。ただ、自分の手がじっとり汗ばんでいるのではないかと、それが気がかりではあるのだけれど――でも、もしそうだとしたらそれはきっと須々木くんの掌の熱のせいだ、と佐東は思う。須々木くんの手が熱いから、それと祭りの熱気がすごいから、それで汗が出るのだ。
 人混みをすり抜けながら、花火会場となる河原へと向かう。河川敷は一面の人だかりであった。ここ、毎年すごい人なんだよね、と佐東は呟く。
「ふうん」
 須々木は相槌を打つ。――もしかして、花火自体も須々木は初めてなのだろうか。佐東はふと疑問に思ったが、尋ねなかった。それを確認することに、あまり意味はない。
 そろそろかな、と言って、須々木は腕時計に視線を落とした。花火が始まるのは十九時半。まさに今がその時刻であった。
 ――ざわめきがふっと遠のいたような感覚。風を切る打ち上げ音に引き続き、ぱん、と乾いた音が鼓膜を打った。
「わあ」
 佐東は思わず声を上げる。
 ふわっ、と夜空に広がる大輪の菊。
「綺麗」
 ありきたりな、平凡な感想しか口をついて出てこなかった。だが須々木は空を見上げていた視線を少し動かして彼女を見ると、うん、と頷く。
 花火の名前を彼女は知らない――様々な色の、様々な形の花火が打ち上がっては消え、打ち上がっては消えた。丸いもの、柳のように枝垂れていくもの、或いは土星のような円盤形をしたもの、中には笑顔のマークをしたものもあった。
「あれ、可愛いよね」
 くすりと笑って佐東が言う。
「たまに裏返ってるの、おかしい」
「ああいうの、どうやって作るんだろう」
 と答えた須々木に、佐東はまさか、と疑問を投げかけた。
「須々木くん、いちいち炎色反応考えながら花火見てたりしないよね?」
「そこまでじゃない」
 須々木はすぐに否定した。
「考えなくても、普通に覚えてるし」
「……そ、そう」
「大学受験には要らないけどね」
 須々木は肩をすくめる。
「…………」
 受験、か。その単語に、ふと現実に引き戻される。
 群衆に紛れて立つ、須々木と二人。花火が終わったら、彼らは河川敷を後にして帰路に着く。繋いだ手も、いつかは離れるだろう。
 
 ――おなじ大学を受けるわけじゃないんだよね?
 
 友人の台詞が、脳裏に蘇った。
 須々木は、佐東に自分の受ける大学の近くへ進学しろという。無茶な要求だとは思ったが、そこを目指して佐東が勉強しているのもまた事実だった。だが、須々木は決して「近く」ならどこでもいいとは言わない。彼が提示しているのはどれもそこそこの難関で――つまり、彼女が落ちてしまう可能性だって十分あるのだ。第二希望、第三希望に受かるかもしれない、けれどどこも駄目だったら。或いは、遠方の大学しか受からなかったら。
 須々木はきっと第一志望に合格するだろう――安易にそう言ったら彼は怒るかもしれないけれど、彼女にはそうとしか思えない。
 うまく近くの大学に進学できたとしても、今までのようにほぼ毎日教室で顔を合わせるわけではない。それぞれの進学先で、新しい友人もできるだろう、新しい異性とも知り合うだろう。そうなったら、きっと……。
 
 激しい連続音に、佐東はふっと顔を上げた。
 フィナーレを飾る派手な花火。地上近くから空高くまで、一面に光が埋め尽くしていく。
 弾けては燃え尽き、散り散りになって消え――全ては一瞬の間の。
「…………」
 うっすらと、夜空に煙が漂っている。それとかすかな硝煙のにおいだけが、先程まで夜空を染めていた花火の残滓だった。
 花火は終わった。終わってしまった。
 周囲の人びとはぞろぞろと駅に向かって歩いていく。ああ、自分も帰らなくては。
「……写真くらい、撮れば良かったかな」
 ぽそりと呟いた佐東に、須々木は言った。
「なんで?」
「なんでって」
 佐東は目を伏せ、言う。
「花火が好きなら何度でも行けばいいだろう」
 ――行けばいいって、そんな。佐東は思う。今年見た花火は、今年しか見られないものだ。それに――今年は須々木がいた。来年からは、どうなるかわからない。この気持ちが、彼にはわからないのだろうか。
「あっちにもきっと花火大会なんてたくさんあるだろ」
 須々木はあっさりとそう言った。――あっち?
「今日はこんな予備校帰りの格好だけどさ」
 ふたりは人の流れに乗り、ゆっくりと歩き出す。
「次は浴衣もいいんじゃないかな」
「ゆ、ゆかた?」
 着るの、と尋ねるとおれじゃないでしょ、と返ってきた。
「佐東さんが着るんだよ」
「わたし?!」
「そんなに驚くことかなあ」
 須々木は笑う。
「……だ、だって」
 来年のことなんて、考えられないし。口の中でもごもごと呻く。
「また、来たくない? 花火」
「…………」
 彼の質問に、佐東は顔を伏せる。夜なのになんで辺りはこんなに明るいのだろう。彼女の顔色が――きっと真っ赤になっているであろうそれが、丸わかりになってしまう。
「で、できれば……。でも」
「そりゃあ、先のことなんて誰にもわからないけどね」
 ――それでも願いを叶える方法、未来を変える方法を、君はもう知っているだろ?
「なに、それ」
 知らない、そんなの。そう言う佐東に、須々木は呆れたような――それでいてひどくあたたかな、そんな笑顔を向けた。
「君は自分の力で自分の進路を選んだんじゃないの、三年前」
 佐東はしばらく考え、そしてあ、と声を上げる。
 中学の頃、彼女が自ら望んで進学先を変えたことを言っているのだ、と佐東はようやく理解した。
「でも、あれはわたし……逃げたかっただけで」
 あの辛く苦しい環境を変えたくて、どうにかして逃げ出したくて、その一心で。未来を変える、なんて、そんな大層なことじゃなかった。
「それは君の解釈。君の力で、意思で、未来を変えたことにはかわりないよ」
 須々木は言う。
「おれは、そう思う」
 
 ――だから、変えるんだ。おれも。これから。
 
 何を、とは聞かなかった。その代わり、須々木の手をそっと握り返す。
 夜風はまだぬるさをはらみつつも、既に熱気とは程遠い。それでもやはり、須々木の掌は熱かった。
 ――わたし、須々木くんが好きだ。
 佐東は不意に、そう思った。
 ――このひとと、一緒にいたい。
 そのために、今わたしにできることは……さしずめ、次の模試に向けて勉強することだろうか。その勉強も須々木と一緒にするのだから、言うことはない。
 
 須々木くんが、好き。

 不意に花開いたその感情は、瞼に焼きついた花火の残像のように。
 彼女の胸をじりじりと焦がしていくのだった。