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佐東さんと須々木くん(17)

 三年に進級して最初の中間テストを終え、やがて梅雨と呼ばれる季節が来た。
 佐東侑子はお気に入りの傘を手に持ち、校舎の玄関のところでぼんやりと佇んでいる。雨は朝に比べると小降りではあるが、まだ上がってはいない。
「侑子、彼氏待ってんの?」
 通りがかりに掛けられた友人の声に、佐東はいや、あの、と言葉にならない声を漏らした。違う、いや違わない、ええと、だから。
 友人たちは苦笑する。以前図書館で会った孝橋も、その中にいた。
「ここまで来ると微笑ましいわ……」
「うん、なんか初々しいよね」
「……うう」
 佐東は呻いた。だから嫌だったのだ、と内心で思う。
 
 彼女の彼氏――いつの間にかそういうことになっていた、その一見特に目立つところもない地味な男子生徒は今日、傘をうっかり忘れてきたのだという。
「途中まで一緒に帰ろうよ」
 平然と彼はそう言った。佐東は思わず目を剥く。
「はあ?」
「はあってことはないだろう?」
 彼は――須々木裕はそう言い、細い銀縁の眼鏡を軽く押し上げた。
「何、おれが濡れて帰ってもきみは心が傷まないってわけ? 薄情だなあ」
「そ、そうは言わないけど」
 教室の喧騒に紛れて、彼らはぼそぼそと会話を交わす。
「私わたし置き傘あるから、それ使えば? 貸してあげる」
「それ、ビニル傘?」
「……あ、違うかも」
 以前までの彼女は全て無味乾燥なビニル傘を使っていたのだが、二年前のあることをきっかけに辞めたのだった。自分の好みに合う色合いとデザインのものを買って、使うようになったのである。そのことにも実は須々木が関わっているのだが……まあ、それはともかく。
「おれに、女物の傘を使って、一人で帰れと?」
 冷ややかに強めの口調で言う須々木に、佐東は観念した。
「……わかった」
「助かるよ」
 にこりと微笑んでみせる。――あ、これは他所向きの笑顔だ、と佐東は思った。教室の人に見せるための表情。本当の須々木は人の良い優等生などではない。彼は意地悪で、強引で、皮肉っぽくて、勝手で――それから、それから。
「放課後少し待っていて。担任に呼ばれてるんだ」
「須々木君が?」
 万年学年トップの優等生が呼び出されるなんてどういう理由、と首を傾げた佐東に、須々木はわずかに口を歪めた。
「面談の件で、少しね」
「…………」
 須々木の両親は多忙を理由に教師との面談に来たことがない。希望の進路は須々木の成績であれば今のところ問題はないらしいのだが、やはり教師としては親と一度は連絡を取っておきたいのだろう。
 その辺りの事情はきっと、佐東の考えているよりずっと複雑なのだと思う。だから、彼女は何も聞かない。
「……わかった」
 こくりと頷く佐東に満足げな笑みを見せ、須々木は彼女の側から離れた。数分足らずの会話である、だがその時間はひどく長く――同時にひどく短くも感じられたのだった。

 須々木はなかなか現れない。佐東がうつむき加減にじっと待っていると、彼女の前に立ち止まる男子生徒の影があった。須々木の気配ではない。誰だろう、と顔を上げた佐東はびくりと体を震わせた。
 ――南野、くん。
「よう、久しぶり」
 にやりと笑うその顔立ちは整っていて、以前見た時よりも更に明るく染められた髪の色が良く似合っていた。
 南野は、中学の頃に通っていた塾での知り合いだった。つまり彼女の中学の頃――いじめにあい、どうにかして地元の公立高校ではない別の私立高校に進学しようとがむしゃらに勉強していた頃の佐東を知っている、今では数少ない存在である。
 彼は、きっといつも人気者として陽の当たる場所を生きてきたのだろう、格好良いし、スポーツもできるみたいだし、友達も多い。だから、佐東のようなものの気持ちなどわからないのだ。訳もわからず仲間外れにされ、嫌がらせのターゲットにされて、地獄のような毎日を過ごした彼女の気持ちなど、きっとわからない。わからなくてもいい、わかってくれとはいわない。ただ放っておいて欲しい、それだけなのに。
 高校入学当初にも、一度南野に声をかけられてひどく嫌な思いをした。彼はとにかく佐東を完全に見下している。くだらない存在だと、ちっぽけでみじめで、取るに足らないような人間だと、そう思っているのだろう。
「お前、彼氏できたんだって?」
 にやにやと厭らしい笑いを浮かべながら、彼は黙っている佐東を眺めている。
「お前が、なあ?」
「何やってんだよ南野、帰ろうぜ」
 友人に少し待て、と合図して南野は声を低めた。
「なあ、どいつなんだよ。お前と付き合おうって物好きは。そいつはお前が昔ダッセエイジメられっ子だったって知ってんのか?」
「…………」
 佐東は顔を上げた。きっと南野を睨む。
「なんだよ、なんか文句あんのか」
 睨み返されて背筋が寒くなる――だが、佐東は耐えた。
 ここでまた言われるがままになっていたら、わたしはいつになっても変われない。いつまでも、いつまでも本当にちっぽけでくだらない人間のままになってしまう。人の言葉を恐れて、人の視線を避けて、人の思惑だけに振り回されて――そんなのは、もう嫌だ。
「……放っておいて」
 佐東の声は小さなものだったが、しかしそれは南野にはちゃんと聞こえたようだった。
「あァ?」
 南野が顔をしかめる。佐東は繰り返した。
「放っておいて。私のことは、貴方には関係ないでしょ」
「何だよ、それ」
 苛立ったように南野が睨み返してくる。
「生意気だな、お前」
「おい、南野!」
 待ちぼうけを食らっていた彼の友人たちが、焦れたように彼を呼んだ。
「雨ひどくなってきたし、先帰るぜ?」
「待てって、今行く」
 南野は舌打ちをひとつし、佐東から離れていく。――佐東はその時、自分の膝が小さく震えていることに気が付いた。情けないな、と思う。たかだかからかわれて、それに対して少し言い返しただけなのに。
 今度会った時が怖い。ううん、そんなことより、他の人にあれこれ言いふらされたらどうしよう。また同じ目にあったら――心ない嘲笑と無視に耐える日々が戻ってきたら、どうしよう……。
「佐東さん、お待たせ」
 背後から聞こえた須々木の声にも、佐東は振り返れなかった。多分、今自分はひどい顔をしている。こんな顔を見せたら、きっとどうしたのかと聞かれるだろう。聞かれたら話さないといけない……そうしたら、須々木君は何ていうだろう。どう思うだろう。
「佐東さん?」
 くるりと回り込んだ彼に顔を覗かれて、佐東は思わず顔を引き攣らせる。須々木は眼鏡越しにじっと彼女を見つめて――やがて一つため息をつくと、ついておいで、と言い残して歩き始めた。
「えっ、あの」
 今一本しか傘持っていないんだけど。そう、彼女に言う隙も与えず、
「いいから」
 と、振り向くことなく須々木は彼女の前を歩いていく。佐東は結局黙ってそれに従った。
「傘」
 促され、佐東は傘を開く。お気に入りの、ペールトーンのブルーとグリーンのストライプ。須々木はひょいと佐東の手から取り上げて、二人の頭上にそれを広げる。
「もう少しこっちに寄ってくれないと、濡れるよ?」
「…………」
 佐東は素直に須々木に従った。いつもの口調の須々木に、少しだけほっとする。
 須々木はいつも通る正門ではなく、裏門の方へと彼女を連れ出した。そもそもこちらを使う学生は少ないし、並んで歩いても傘が邪魔をしてあまり他の人の顔は見えない。視線が遮られることでこんなに安心するなんて――やっぱり、わたしは小心者だ。
「……何があったの」
 ぽつりと尋ねられ、佐東はうつむいた。
「誰かに何か言われたんだろう? おれのこと?」
「須々木君のことじゃ……ない」
 佐東は答えた。――南野君は、私のか……彼氏が誰かは知らないみたいだったから。
「その……大したことじゃないの、本当に」
「大したことかどうかは、聞いた後におれが決める」
 須々木はきっぱりと言い切る。
「君が決めるべきなのは、話すか話さないか。それだけ」
「…………」
 しばらくの間、傘に雨粒の当たる音と、二人の不揃いな足音だけが響いていた。
 須々木君は、聞く用意があると言った。そして、話すかどうかは自分で決めろ、と。
 結局、佐東は話すことにした。ぽつりとぽつりと、つかえながら、ゆっくりと。須々木は何も言わず、耳を傾けていた。
 佐東は、ペールグリーンの傘の柄を握る須々木の手をじっと見つめた。須々木自身さほど長身ではないし、手もそれほど大きいわけではない。しかし、その手は自分のものよりは明らかに厚く、骨ばっている。自分のものではない手が自分の傘を握って差しかけてくれていて、そしてそれがこんなに近くにある。そのことが、佐東は不思議に思えてならない。
「……それで、『放っておいて』って言ったら、ちょうど友達に呼ばれて」
 佐東は言う。
「それで――帰って行ったの」
「……そう」
 須々木はつぶやいた。
「そういうことか」
 南野君がねえ、と吐かれたその冷たい声。
「…………」
 佐東はおそるおそる須々木を見上げる。だが、そこにあったのは予想していたような冷ややかでも不機嫌そうでもない、穏やかな笑顔だった。佐東が自分を見ているのに気付き、須々木はうん、と首を少し斜めにした。
「えらいえらい」
 まるで子供にするように、髪をぐちゃぐちゃと撫でられる。
「な」
 慌てて頭に手をやった佐東に、須々木は少し不満そうだった。
「あれ、佐東さんこれ嫌い?」
「いや嫌いとかじゃなくて、その」
 ――急に、困るでしょう。
「じゃあ、もう一回いい?」
「…………」
 須々木が立ち止まるのに合わせて、佐東も歩みを止める。
「うん」
 傘を持つのと逆の手が、もう一度彼女の髪をがしがしと力強く撫でた。きっと、それは傘に隠れて誰にも見えないだろう――佐東はそう考えながら、唇を緩めて彼の手を目で追う。
「南野のことは気にしなくていいよ」
 須々木は再び歩き始めながら、低くぼそりと言った。
「……二度と舐めた真似ができないようにしてやる」
「……な、何をするの?」
「聞きたい?」
 にこりと屈託なく笑う須々木の笑顔――佐東はぶる、と身を震わせた。
「ううん、あの、遠慮しときます」
「うん、それがいい」
 須々木は言った後、あ、と声をあげた。
「雨、上がったみたいだね」
「……そう?」
 佐東はちらと空を見上げた。確かにそうかもしれない。頭上を覆う厚い雲に遮られていた太陽が、雲の隙間からわずかに顔を覗かせている。
 傘はもう、要らないのだろうか。二人を覆っていたこの傘は、もう畳まれてしまうのだろうか――。
 須々木は、少し笑ったようだった。
 もう少し差しておこうか、と言って彼は歩き出す。佐東はうん、と頷いてその横に続いた。
「――ありがとう」
 佐東はつぶやく。

 傘を差しかけてくれて、ありがとう。
 私の話を聞いてくれて、ありがとう。
 
 ――私を変えてくれて、ありがとう。

 須々木が頭上でくるくると傘を回す。くるくる、くるくる。それを見上げて、佐東はふ、と微笑んだ。