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佐東さんと須々木くん(16)

 図書館は静かだった。
 佐東侑子はふと目を上げ、真向かいに座る人物を見遣る。――地味な見た目の、特に目を引くところもない男子である。銀縁の眼鏡の奥の眼差しは手元の問題集とノートを行き来していて、右手に握ったシャープペンシルが淀むことなく動いている。
 須々木裕。――佐東のクラスメイトで、どうやら彼氏、になったらしい。彼女にとっては人生初の大事件であるが、須々木がどうかは知らない。佐東の前に彼女がいたか、どうか。いたとしても中学生の頃だろう、今更気にしても仕方のないことではある。
「なに? わからないところでもあるの?」
 不意に須々木は目もあげずに口を開いた。佐東はぎくりとする。
「ううん。大丈夫」
 彼女が進めているのは須々木が選んだ数学の問題集で、二年の復習と受験生に向けての準備を兼ねている。彼女にはちょうど良い難易度だった。そうなるように、須々木が選んでくれたのだ。
「…………」
 須々木は不意に顔を上げ、ほんの少しだけ口元を緩めた。それは、見ようによっては微笑に見えるかもしれない、という程度の僅かな変化。
「あと三十分したら休憩しようか」
「う、うん」
 佐東は慌てて顔を伏せる。赤くなりやすい自分の顔が、本当に恨めしい。
 春休み、彼らはほとんどの日をこの図書館で過ごしていた――向き合って座り互いの勉強を進め、佐東のわからないところは須々木が教えてくれる。家で独りで勉強するよりは余程捗るし、須々木は佐東が思っていたよりもずっと説明が上手かった。何を質問しても淡々と、彼女が納得できるまで教えてくれる。やっぱり頭の良い人は違うのかしら、とも思うが、きっとそれだけではない、と思い直す。須々木は人一倍努力している。
「……進んでないね?」
 ぼうっとしていたのを見透かされていたらしい。須々木は苦笑して手を止めた。佐東は慌てて謝罪する。
「あ……ごめん……」
「別に謝るようなことじゃない」
 須々木はあっさりとそう言った。
「今日は朝からやってるんだ、そろそろお昼にしよう」
 さっさと鞄に勉強道具を仕舞う須々木に、佐東も慌てて倣う。朝十時に集合して、今は十二時半だった。昨日までは大体午後からだったから、こうして昼食を挟むのは初めてのことだ。
 図書館を出たところで、須々木はくるりと振り向く。
「お昼ご飯は外で食べても?」
「う、うん。家にはそう言ってきたから」
「なんて言ったの?」
 須々木の目が悪戯な光を湛える。佐東は目を瞬かせた。
「なんて、って……」
 特にやましいところもないのに口ごもってしまう。
「友達と図書館で勉強するから、お昼ご飯は要らないって……」
「ふうん」
 友達、ね。呟いて、須々木はすっと目を逸らす。――少し不機嫌そう? 佐東は訝しげに思ったが、須々木はそれ以上追及しなかった。代わりに別のことを口にする。
「何食べたい?」
「あの」
 佐東は思わず肩をすくめて小さくなった。
「あんまりお金、ないから……」
 ファーストフード店の名前を幾つかあげる。その辺にしてもらえると助かるのだが。佐東家のお小遣いは月始めなので、月末は金欠に陥りがちなのである。
 須々木は、ふ、と笑顔を見せた。
「別に、お昼ご飯くらい出すけどね」
 普段お弁当のおかずもらってるし、と須々木は言うが、佐東は勢いよく左右に首を振る。
「なんで? 別に昼食代なんか貸しにはしないよ?」
「そうじゃなくて」
 佐東は珍しく強い口調で力説した。
「それって須々木くんが稼いだものじゃないでしょ? そのお金は須々木くんのために誰かが用意してくれたものなんだから、それでわたしが須々木くんに奢ってもらうのは、なんか違うと思う……」
「…………」
 須々木は少し面食らったようだった。珍しく驚いた顔で、まじまじと佐東を見つめている。佐東はその視線に耐えきれなくなって、俯いてしまった。
 余計なことを言ってしまった、と反省する。須々木の家庭環境はどうやら訳ありらしいと知っていたのに――でも、詳しいことは何も知らないのに――偉そうだっただろうか。失礼だったかもしれない。
「ご、ごめんなさい……」
 結局、彼女は消え入りそうな声で謝った。
「あの……」
 須々木を怒らせたくはない、その一心だった。怒らせて、嫌われたくはない。そう思って、自分でも驚いた。――わたし、嫌われたくないんだ。須々木くんに。
「……須々木、くん?」
 黙っている彼をおそるおそる見上げると、須々木は面白がるような表情で佐東を見ていた。少なくとも怒ってはいなさそうである。ほっとした。
「なるほどね、そういう考えもあるか」
 じゃあ、僕が株か何かで儲けたお金だったら奢らせてくれるの? そう尋ねられ、佐東は、う、と言葉に詰まった。
「それは……その、」
 正直なところ、人に奢ってもらうというのが落ち着かない。缶ジュースの一本くらいならともかく、お昼ご飯なんて。しかも、この間参考書を買ってもらってしまったばかりだし――いくらお金を返そうとしても受け取ってくれないのだ、須々木は。それでもそのお金は封筒に入れて、自室の机の引き出しに仕舞ってある。いつかは返すつもりで。
「佐東さんはきっちりしてるね」
 須々木は感心したように言った。
「じゃあ、そうだな」
 須々木はひとつのファーストフード店の名前を言った。
「そこにしよう。いい?」
「…………」
 佐東はこくんと頷いて、歩き出した須々木の後を追った。
 紺のブルゾンに黒地に赤のプリントの入ったTシャツ、細身のジーンズに黒のスニーカー。私服の須々木に、佐東はなかなか慣れられない。彼女自身もいつも服装に迷って、結局無難なニット地のチュニックとアンクル丈のパンツに落ち着くのだった。別に私が何を着ていようが気にしなさそうだな、と佐東は思った。
 休日に会うようになってからもほとんどがこうして図書館で勉強するだけだから、あまり浮かれた空気もなかった。須々木がそもそも浮かれていない。佐東は佐東で、須々木と過ごす時間に慣れはしたが、そこまでだった。
 今までと何が変わったかというと、SNSアプリでたまにやりとりをするようになったこと――大抵待ち合わせる時間の打ち合わせだが。それくらいだ。
 校内では、多分ほとんど誰も彼らが、その、付き合っている、ということを知らないだろう。元々、それなりに仲の良いふたりだとは認識されていたようだから、時々ふたりで話していてもあまり見咎められることがない。正直なところ、二人の関係の変化について、佐東は他人に知られたくないと思っている。人の噂に自分の名が出るのはゾッとするほど嫌なことだからだ。佐東は前と同じように友人たちと登下校しているし、須々木もそれについて異論は唱えなかった。ただ、お昼休みは二人ともほぼ屋上で過ごすようになったが、それはそもそも誰も知らないことだ。
 休日に訪れている図書館も小さなところで、駅前でもないから、今までのところ知人には会っていない。気付かないうちに見られていた可能性がないとはいえないが、特にそんな気配もなかった。
 いつものように、須々木の半歩ほど後を歩く。と、彼は急に立ち止まった。
「後ろを歩くのはだめ。おれ、一人で歩いてるみたいな気分になるんだよね」
 佐東はきょとんとした。須々木は自分の横を指差した。
「真横歩いてくれる? 狭い道は仕方ないけど」
「……え、」
「でないと腕引っ張るよ?」
「わ、わかった」
 佐東は戸惑いながらも、素直に頷いて少し前に足を出した。須々木と肩のラインを並べてみる。佐東よりも少し高い位置にあるそれが不意に彼女の方に近寄った。とん、と肩同士が触れ合う。
 なんだろう、と佐東は須々木の顔を見上げた。須々木は前を見ていて、彼女を見てはいない。だがその口元は、柔らかく微笑んでいた。

 ファーストフードの窓際のカウンターに並び、それぞれハンバーガーを食べる。――なんだか不思議な感じがした。元々、佐東は友人ともあまり休日に遊びに行く方ではない。長期休暇ともなれば尚更だった。それがこの春休み、須々木とは最近ほぼ毎日のように顔をあわせている。とはいえ、二三時間ほど図書館で勉強しているだけなのだが。
 ストローをくわえた須々木の横顔をぼんやりと眺めていると、やがて彼は口を離し、困ったように眉を寄せた。
「何?」
「え?」
「さっきからすごくおれの顔見てるけど、何かついてる?」
「あ……いや」
 佐東は首を横に振った。
「そんなことない、うん、大丈夫」
「ほんと、君って困るよね」
 須々木は片肘をついてそう呟いた。
「ごめ」
「すぐに謝らない」
 須々木は彼女を遮り、そしてにやりと笑った。
「あんまり謝ると、付け込まれるよ?」
「……何が?」
「謝るってことは何か悪いことしたと思ってるってことだろ? じゃあ償ってもらわなきゃ」
「…………」
 これはきっと、何かしら良くないことを企んでいる。佐東は首を横に振った。
「謝らないようにする」
 もちろん、明らかに自分に非があるときはその限りではないけれど。
「うん」
 それでいい、と須々木は満足げに言った。
 須々木がコーラを飲み干し、佐東もまたオレンジジュースを飲み終えた頃。
「あれっ」
 彼らの傍らで、声がした。振り向いた佐東は、硬直する。
「侑子じゃん。あれ、なんで須々木くん……?」
 そこに立っていたのは、クラスメイトの孝橋と、名前は分からないが別のクラスの女子二人だった。その二人は佐東のことは知らないようだが、須々木のことは知っているらしい。須々木はどうも、と軽く会釈していた。その顔に、特に動揺はない。
 孝橋は興味津々といった様子で歩み寄ってくる。
「え、なになに、二人ってもしかして」
「こっちの子は?」
「うん、同級生」
「まじで?」
 詮索の眼差しが遠慮なく注がれ、佐東は真っ赤になった。いつかこんなことになるとは思っていた。でも、ならなければいいとずっと思っていたのも事実だった。誰にも知られたくない、誰にも何も言われたくない。誰にも傷つけられたくない――。
 須々木がさらりと口をはさんだ。
「この間から付き合ってるんだ。おれが告って」
「へー! 須々木くんから!」
 知らない女子にじろじろと眺められ、佐東は体をすくめる。――そりゃそうだよね、と佐東は思う。こんなわたしなんかに、って、思うに決まってるよね。
「そうそう。ほんの最近だよ」
 須々木はにこにこと朗らかに話を進める。こんなに機嫌の良さそうな彼は見たことがない、と佐東は思った。わたしといるときは、もっと――。
「今から受験生なのに余裕じゃん?」
「うん、だから一緒に勉強してる」
「やだ、さすが!」
「万年トップは違うよねー」
 ひとしきり盛り上がった後、孝橋ははっと腕時計に目をやった。
「やばい、映画始まる」
「行こ行こ!」
「じゃあ、また」
 須々木はにこやかに手を振る。
「仲良くね、侑子!」
 孝橋は軽く佐東の背中を叩き、そして友人とともに騒々しく去っていった。
「…………」
 彼女らの姿が見えなくなった後、佐東は深々と息をつく。須々木は肩をすくめ、彼女に視線をやった。
「そんな顔しなくてもいいと思うけどな」
「え?」
「別に悪いことしてる訳じゃないんだからね?」
「……うん」
 はあ、と須々木は大きなため息をついた。
「おれが矢面に立って話をしてあげたんだからさ、せめてもっと堂々としていて」
「……あ」
 佐東は声を上げる。そうだ、確かにさっき須々木は彼女らの相手を全て引き受けていた。あれは、彼女らの好奇心の矛先が、佐東に向かないようにするためだったのか。――ふ、と体から力が抜ける。
 佐東は素直な気持ちでぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい……ありがとう」
「あ。今謝罪したよね」
 須々木が笑った――ああ、こっちが本当の彼の笑みだ。人の悪い、意地悪そうな、でも生き生きとした、そんな彼の表情。さっきのは違う、本当の彼じゃない。
「悪かったと思ってるんだろ? 償ってくれるんだよね?」
「……何したらいいの」
 佐東はおそるおそる須々木の表情を伺う。須々木は眼鏡の奥の目を細めた。
「そうだな、まあひとまずは――」

 図書館まで、手を繋いで戻ろうか。
 
 道中青くなったり赤くなったりを繰り返す佐東の顔色を、須々木は面白そうにずっと、飽くこともなく眺めていた。