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佐東さんと須々木くん(15)

 放課後の職員室は喧騒に満ちていた。佐東侑子はその隅で、担任のもとに届けに来た何種類かのプリントを出席番号順に並べ直している。担任のところには入れ代わり立ち代わり生徒が訪れていて、その会話のほとんどは来週の三者面談に関わる話だった。佐東の母親は働いていないこともあって特に曜日や時間の希望もなかったが、共働きや介護、兄弟のことなどがあるとなかなか時間が制約される、らしい。あまり聞き耳を立てるのも良くないと思って意識的に気を逸らす佐東だが、ふと耳に届いた声に一瞬、手が止まった。
「おれ一人ではだめですか。これまではそうしてきました」
 良く知る声――そして、この学校の中で一番佐東の心を乱す声。学年一の優等生、須々木裕のものである。
「ううーん」
 担任が唸っている。四十手前のその男性教師は数学の教師で、佐東は割と彼が好きだった。教え方もうまいし、何より生徒ひとりひとりに優しい。甘い、というのではない。時には声を荒げて怒ることもある。ただ、彼の根底には生徒たちへの真っ直ぐな好意があって、生徒という生き物は教師のその心根を見抜くことに大人が想うよりずっと長けているのだ。こんな先生が「あの頃」にいたら、私の過去はもう少し違っていたのではないか――と、佐東が夢想してしまう程に。
「ご親族どなたも来られないのか?」
「はい。すみません」
 須々木はあっさりとそう答える。――面談のこと、だよね。佐東は思わず顔を上げそうになり、慌てて俯いた。さっさと終わらせてここを去らないと。そう思うのに、彼女の手の動きは重い。
「しかし、なあ。二年の今だぞ? 受験生になる直前の大事な時期なんだから……」
 担任は渋る。こっそり横目で見ると、須々木は特にふだんと変わらない様子で担任の横に立っていた。
「俺から一度ご連絡してみようか? なんとか都合つけてくれるかも」
「……海外出張中なので」
 須々木はゆるく首を左右に振った。
「今月は帰ってこないそうです」
「ううん、そうか……まあ、お忙しいんだろうなあ」
 その時、佐東の作業がようやく終わった。佐東はプリントの束を担任の机に置く。
「おう、ありがとうな」
「いえ」
 小さく答え、須々木の方は見ないように――と思っていたのだが、意識し過ぎたせいか、ちらと目をやってしまった。
 須々木は、彼女を見ていなかった。ただ、白けたような顔で宙を眺めている。その空虚な表情に、佐東は驚いた。――なんだか、すごく寂しい表情。そう思った。この世の中には何にも期待してはいないのだというような、どうせ今この瞬間も無駄なのだとでもいうような、そんな諦めの。
「じゃあ失礼します」
 佐東は軽く頭を下げ、職員室を後にする。扉を閉めるために振り返った時――今度は、須々木と目があった。
 その時の須々木の眼差しを表現するすべを佐東は持たない。ぼっかりとあいた二つの穴が、じっと彼女を見つめている。乾いている、それでいて泣いているようにも見える。熱く、同時にひどく冷えている。
 佐東は扉を半開きにしたまま、身を翻した。あの視線を断ち切ることは、彼女にはできなかった。

 まださほど遅い時間ではないのに、教室にひとけはなかった。期末試験も終わったことだし、皆それぞれの放課後を過ごしているのだろう――部活だとか、ひとによっては塾や予備校だとか。
 佐東はふう、と息をつき、自席に向かう。机から教科書とノートを取り出し、鞄の中へ。機械的に作業をしながらぼんやりと思うのは、やはり「彼」のことだった。
 須々木のことはよく知らない。勉強ができるということと、バンジージャンプが趣味だということ、音楽の好みが佐東と似通っていること、あとは好きなお弁当のおかず――それは知っている。昼食はいつもコンビニだとか、そういったことも。あとは何より、彼が普段教室で見せている優等生然とした顔は表向きのものにしか過ぎなくて、実際はもっと強烈な個性を秘めているということ……。
 でも、やっぱり、よく知らないんだ。
 佐東は思った。
 休日にばったりと会った時、彼は若い――とはいえ二十歳はゆうに超えているだろうけど――綺麗な女性と一緒だった。彼女は須々木の家に雇われていると言っていたか。車に詳しくない佐東にもわかるほどの高級車に乗っていた。なんだかいろいろ訳がありそうだな、とは思ったけれど、それ以上追求はしなかった。できるはずがなかった。
 わたしはただのクラスメイト。決してそれ以上ではないのだから。
 佐東は目を伏せる。――そう、ただのクラスメイト……そのはず……。少しばかり距離が近かっただけ。須々木が面白がって彼女に何かと関わってきただけで、それは全部彼の気まぐれで、遊びで、意地悪で、だから。
 それでも――佐東は彼の言葉に何度も叱咤され、時に挑発され、慰められ、動揺して、そして今の彼女があるのだ。そのことは否定できないし、するつもりもない。だけど、やっぱりそれはそれだけのことだ。彼にとって、わたしは……。
 がら、と教室のドアが勢い良く開いたかと思うとぴしゃりと閉まった。佐東はその物音に驚き、小さく飛び上がる。
「……はあ、」
 扉にもたれ掛かり、肩で息をついているのは須々木だった。走ってきたのだろうか、うっすら汗ばんですらいるようだ。
「……間に合った」
「須々木、くん……」
 佐東はかっと顔に熱が集まるのを感じた。どうして、彼のことなんて見慣れているはずなのに。
 立ち尽くす佐東を見て、須々木はくすりと笑った。いつもどおりのその笑みに、彼女は少し安堵する。
「おれのこと、待っていてくれたの?」
「ち、違う」
 佐東は首を横に振る。
「そう? まあどっちでもいいけど」
 須々木はドアから離れ、足早に佐東に近寄った。佐東は鞄の紐を握りしめたまま、彼の顔を見つめている。
 須々木は一瞬足を止め、少し困ったように微笑んだ。
「そんな顔されてもね」
「かお?」
 佐東は思わず両手で自分の頬を包んだ。熱い。
「気にしなくていい。変だっていうんじゃないから」
 須々木は再び歩き出した。彼女の机を挟んで、向かい合う。
「…………」
 佐東は俯く。理由はよくわからないが、顔を上げられなかった。須々木の顔を見るのが、怖い……。
 須々木が手を伸ばした。肩で跳ねる彼女の髪の一房を、指先で遊ぶように摘む。
「な、なに……?」
 佐東は振り払うこともなく、ただ身を竦めた。
「…………」
 須々木は黙っている。だがそれは敢えて彼女の言葉を無視したのではなさそうだった。むしろ何か、迷っている……?
「すずき、くん?」
 佐東はおそるおそる顔を上げた。須々木はじっと彼女を見つめていた――彼女の見たこともない顔で。
 泣きたいの、と佐東は心の中で問いかける。何か、辛いの。悲しいの。悔しいの。それとも、それ全部なの――。
 胸が痛い。須々木のこんな顔は、苦しい。
 佐東は彼女の髪に触れている彼の手におずおずと指を伸ばした。避けられないかどうかを気にしながらも、やがてそれは彼の手に触れる。
「――ああ、もう!」
 不意に須々木が呻く。途端、佐東の手は強い力で握りしめられていた。
「?!」
 佐東は前のめりになり、腹を机にぶつけた。頭が前後にあたたかな何かで挟まれている――目の前には見覚えのある黒い布地。学生服……?
 須々木に頭を抱きしめられている。その事態を把握した瞬間、佐東はかすれた悲鳴を上げた。
「……ちょ、」
 彼女は慌てふためく。頭はもう、真っ白だった。
「す、すすす須々木く、」
「しっ」
 彼女の頭を抱え込んだ彼は、佐東を黙らせる。そんな無茶な、と彼女は憤慨した。いきなりひとにこんなことしておいて……!
「…………」
 それでも、佐東は言われるがままに沈黙した。前傾した体はバランスが悪くて、彼女は仕方なく須々木の学生服を掴む。
 須々木が頭上で小さく笑った、ようだった。
「よかった」
「……は?」
 佐東はおずおずと目を上げる。須々木は彼女を見下ろして微笑んでいた。からかうでもなく、馬鹿にするでもなく、ただ落ち着いて笑っている。
「何が?」
「殴られるかと思っていた」
「……え?」
「急にこんなことしちゃったから、さ」
 佐東は、ぐ、と息を呑んだ。須々木の腕の力はいつの間にか少し緩んでいて、彼女はそこから抜け出して目を逸らす。
 ――からかっただけだったのだろうか。ただの遊び? 嫌がらせ? 佐東の唇が小さく震える。だとしたら、ひどい。ひどすぎる。
「佐東さん」
 彼が名を呼ぶ。その響きは、優しかった。
「ごめん、驚いた?」
「あ……当たり前、」
「でもね」
 須々木は少し急いだように言葉を続けた。
「さすがに、もうそろそろはっきりさせておかなきゃと思って」
「何を……?」
 佐東は自分が涙目になっていることを自覚した。驚いたせいなのか何なのか、もう良くわからない。
 須々木は肩をすくめた。
「致命的に鈍いのか、それとも自分に自信がないせいなのかな」
「だから、何が」
「……何がって、さあ」
 珍しく須々木が口ごもる。佐東は目の前の男の顔をまじまじと眺めた。須々木は彼女の視線を逸らすように目を逸らす。――少し、顔が赤い? 須々木はその顔色を隠そうとするかのように、手で口元を覆った。
「勘弁して欲しいな……」
「…………」
 眼鏡の奥の目元は、赤い。
 佐東はぽかんとその顔を眺めていたが――不意に、先月のバレンタインデーを思い出した。
 
 ――好きなものは絶対に手に入れるし、絶対に手放さないって、決めているんだ。

 須々木はそう言った。――好きなもの。彼の言うそれが結局何を表していたのか……。
 佐東は考えないようにしていた。須々木の言葉の真意を、自分に向けられる感情を、折に触れ須々木が彼女に何かを求める、その理由を。
 本当にわからなかったのか? 気付いていなかったのか? 何となく勘付いていながらも必死に否定していたのではないのか?
 でも、なぜ?
 佐東は立ち尽くす。
 ――答えは単純で、明快だった。
 怖かったからだ。
 時に鋭い言葉を投げ掛ける須々木が怖かった、それだけではない。自分の中に誰かが入り込むのが怖かった。友人、クラスメイト、それ以上に近しい距離の存在が現れるのが怖かった。
 だって、人は変わってしまうもの。裏切るもの。いなくなってしまうもの。その時にどんなに傷つくか、彼女はよく知っている。それならつかず離れずがいい。その人がいつか離れていってしまっても、自分の一部を持っていかれてしまうような想いをしなくてもいいように。心は、預けてしまわないほうがいい。
 ――それなのに、須々木くんは強引に入り込んできて、それでいて触れる感情はあたたかで、時に優しくて。
 須々木は目元を染めたまま、それでも顔から手を離した。切れ長の目が真っ直ぐに佐東を捕らえる。こんなの、ずるい。
 須々木はしれ、と言った。
「付き合って、なんていうつもりはないんだ」
「え?」
 一向に戸惑いの中から抜け出せない彼女には構わず、須々木は言葉を続ける。
「おれが連れて行くから」
「は……?」
 佐東は目を瞬く。須々木はいつものように人を食ったような笑みを浮かべた。
「言ったでしょ? 大学も首都圏にして、って」
「い、言われたけど」
「だから、連れて行く」
「意味わかんない……何それ」
 声がかすれる。
「何なのよ、一体……どういう……」
「断るなら、今だよ」
 須々木は佐東の言葉を聞いているのかどうか、一方的に話を続けた。
「おれといたくないなら、おれから離れたいなら、言って。今」
「……それは、」
 佐東は口ごもる。――とっさに浮かんだのは、そんなの嫌だ、という感情だった。そのことに我ながら驚く。
 須々木くんが周りからいなくなるなんて嫌。話せなくなるなんて嫌。それが、彼女の正直な想いだった。
 須々木くんなんか大嫌いだ。でも、だからって、いなくなって欲しいわけじゃない。
「佐東さん?」
 黙り込んだ彼女の名を呼ぶ須々木を、彼女は涙目のまま睨む。
「……ずるい」
「うん?」
「今更、そんなの」
 佐東の声は震えていた。
「そんなのって……」
「じゃあ、いいんだ?」
「…………」
 佐東は躊躇いがちに、曖昧に、それでも首を縦に振った。正直、頭の中が混乱して何がなんだかわからない。ただ、須々木が近くにいてくれるというのなら、それがいい。
 そんな彼女を見て須々木が、ふ、と笑う。
「少しずつ、距離を縮めた甲斐があったな」
「…………?」
「ううん、こっちの話」
 須々木は彼女の疑問符をあっさりといなし、そしていつものような――彼が佐東の前だけで見せる、あの笑みを浮かべた。
「じゃあ、まずは君の志望校を決めないとね。あんまりおれから遠いのも困るし」
「え?」
「ああ、成績のことなら心配しなくていいよ。おれが面倒見てあげるから。休みの日も勉強会だ」
「え……ええっと……?」
「お金掛からない分塾よりも得だよ? ああ、受けたほうがいい予備校の講習はおれが選んであげるから、それは申し込んで。あと模試と」
「は、はあ……?」
「何か文句ある?」
「……いっぱい」
 正直に答えた佐東に、須々木は噴き出した。
「そう、じゃあおいおい聞いてあげる」
 思いの外優しい顔でいう彼に、佐東はさらに戸惑う。
「…………」
「さ、帰ろうか?」
「えっ」
 当たり前のようにそう言う彼に、佐東は面食らった。
「い、一緒に……?」
「いや?」
「別に、嫌、ではない。けど……」
 人目が気になる。人の噂が、怖い。俯く佐東に、須々木は畳み掛けた。
「人に見られても困らない。別に隠す必要はない。わかった?」
「……で、でも」
「これに関しては文句は聞かない。あんまり言うなら手を繋いで校内を歩くよ?」
 そんなの、無理。佐東は真っ赤になって首をブルブルと横にふる。
「じゃあ、行こう」
 鞄を手にして須々木は歩き出す。その後を追いながらも、彼女の顔の熱は一向に引きそうになかった。

 ――結局、須々木は彼女の何なのか。今までと何が変わったのか。
 三日ほど悩んだ佐東は結局おそるおそる本人に問い掛け、「彼氏でしょ? むしろ何だと思ってたの?」と何故か怒られる破目になったのだった。
 やはり、彼は横暴で理不尽だ。佐東は心からそう思う。