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佐東さんと須々木くん(14)

 今年のバレンタインデー当日には、二年生を対象とした実力テストが行われた。やはりここは進学校なんだなあ、などと佐東侑子は他人事のように感心したものである。もう間もなく、彼らは受験生になる。
 理系を選んだ佐東は数学にやや苦戦していたものの、英語や化学、生物では安定した成績を維持していた。高校入学当初はとにかく目立たない、平均的な成績を目指していた彼女であったが、今は一生懸命に勉強して、中の上か、上の下といったところだろう。手加減して平凡を目指すほどの余裕は、既に彼女にはない。それに――以前ほど中庸にこだわる気持ちは、彼女の中にはない。それが何故なのか、何が彼女に変化をもたらしたのか――佐東はそれを考えないことにしていた。
 それはともかく、バレンタインデーである。当然ながら、盛り上がらないことこの上なかった。一部の女子がちょっとしたお菓子を配ったり、交換したりしていたようだが、大多数の生徒はそれどころではなかった。朝から夕方まで試験を受け続けた彼らは疲労困憊である。手応えがあったもの、なかったもの。皆疲れた表情で、教室を後にする。
 佐東もそのうちの一人であった。帰り支度をしながら、凝り固まった首をぐりぐりと回す。そもそも彼女はバレンタインデーに合わせてチョコレートを配って回るような、そんな社交性は持ち合わせていない。去年も、確か――ああそうだ、去年はホワイトデーに……。
 ちらり、と佐東は背後を伺った。「さ」で始まる彼女の二つ後ろ、そこに、彼がいる――「須々木裕」。表向きは温厚で優しく真面目な、絵に描いたような優等生。だが彼女にとってはまさに天敵。ずけずけと彼女の心の壁を蹴散らし、デリケートなところに土足で踏み込み、ひた隠しにしていた本心を引き摺り出し――もう、めちゃくちゃである。何だって彼女がそんな目に合わされるのか、さっぱりだ。お弁当のおかずは取られるし、かと思えば去年のホワイトデーにはお菓子をくれたし――そもそもバレンタインデーには何もあげなかったのに、である。訳が分からない。
 須々木からは、自分に対する奇妙な執着めいたものを感じる。だが、その理由はよくわからない。何故自分なのか。彼は私をどうしたいのか。何を求めているのか。自分はそれを知りたいのか。知りたくないのか。――自分にとって、須々木はどういった存在なのか……。
「侑子、帰ろ?」
 声を掛けてくる友人に、佐東は曖昧な笑みを向けた。
「ごめん、今日ちょっと本屋寄るから」
「そうなの?」
「うん。参考書、見たくて」
「テストの終わった日に参考書! エラいねえ侑子は」
「いやー、今回ちょっとヤバくて」
「ヤバいのはむしろ私だよ……」
 言いながら、友人たちは彼女を残し帰っていく。
 ――須々木くんは、まだいる。
 佐東は気配を伺う。彼女は彼の連絡先を知らない。どうやら彼は彼女のアドレスなどを知っているらしいのだが、彼が彼女に直接連絡を寄越したことはない。やはり不可解な男ではある。
 どうやって声をかけたらいいのだろう? 佐東は焦った。まだ教室にはクラスメイトがいる。ここで彼女が須々木に話し掛けたら、きっと目立つだろう。目立つのは怖い。注目を浴びるのは、嫌だ。
 けれど、彼女は去年言ったのだ――気が向いたら、お弁当に甘いものを入れてきてあげる、と。今日は試験だから屋上でお昼を食べるわけにはいかなかったけれど、彼女はチョコレートを持参していた。ありふれた、安いチョコレート菓子。昨日コンビニで買ったそれを、彼女はずっとカーディガンのポケットに忍ばせている。せっかく買ったのだ、渡して驚かせたい。きっと須々木くんは去年のあのやり取りのことなんて、忘れてしまっているだろうから。
 驚くかな。喜ぶかな。それとも、迷惑がられるかしら。嫌がるようなら、取り返して自分で食べよう。佐東はこの前から何度も繰り返している自問自答をまたもや繰り返しながら、くるりと後ろを振り向いた。
「須々木くん」
 名前を呼ぶと、彼は驚いたように顔を上げた。佐東はできるだけ注目を引かないように声のトーンを抑え、言葉を続ける。
「少し、問題集のことで相談に乗って欲しいんだけど」
「いいよ」
 須々木はすぐにそう言った。二人でいる時には見せたこともない、しかし普段の彼には似つかわしい、人好きのする穏やかな笑みを浮かべている。
「おれも今日は本屋に寄ろうと思っていたんだ」
「お、デートかよ」
 その野次は佐東が一番恐れていたものだった。だが、須々木は動じた様子もない。
「これから受験生なのに、それどころじゃないだろう」
 さらりとかわし、鞄を手に取る。
「単語帳をもう一冊くらい買いたいんだよね。佐東さんのお勧め教えてよ」
「えっ、あ、うん」
「確かに、佐東英語得意だもんなー」
「おれらにもまた教えろよ」
「う、うん」
 須々木の言葉には不思議な説得力があるようで、彼らは納得したように散り散りになっていった。眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、彼は佐東を見つめる。面白がるような光を踊らせた、そしてどことなく熱っぽくもある、そんな彼の眼差しが佐東は怖い。怖いのに、目が離せない――。
「行こうか」
 須々木は、ふ、と笑った。その表情に、佐東は苦くも甘い、ビターチョコレートを思った。

 駅前の本屋まで、彼らはほとんど会話らしい会話をしなかった。
 赤い表紙の大学別過去問題集のコーナーを通った時、須々木は唐突に言った。
「佐東さんも、東京の大学を受けてね。せめて首都圏」
「……は?」
 佐東はぽかんと口を開けた。
「なんのこと?」
「おれは東京に行くから」
 須々木の視線の先にある大学名は――ああ、やっぱり須々木くんはそこを受けるんだ、と佐東は思う。しかし、それは彼女には関係ない、そのはずだ。
「そ、それで?」
「佐東さんも同じところ、とは言わないからさ。近いところにしておいてよ。でないと」
 須々木はあの、教室の中では決してしない笑い方をした。彼女の前でしか見せない、人の悪い笑み。意地悪そうな、それでいて妙に目を惹きつける、どうしようもなく心を乱される表情。
「遊べないでしょ?」
「…………」
 佐東は絶句した。――この人はいったい何を考えているのだ。
 須々木は硬直する彼女を無視するように、あっさりと話を変えた。
「問題集って、どの教科のこと? 数学?」
「あ――あ、うん」
 彼は問題集の並ぶ棚の前に立ち、数冊をぽんぽんと彼女に手渡した。
「おれのお勧めはこの辺かな。各単元ごとの問題数もちょうどいいし、解答解説もわかりやすいよ」
「あ、ありがと」
 佐東は少し躊躇った。持ち合わせを考えると全部は買えない。この中からさらに選ばなくては――しかし、須々木を待たせるのも――。
「さっきの話」
 須々木は彼女の腕からひょいと本を奪い取ってしまった。
「ちゃんと約束してくれるなら、これはおれが買うよ」
「え……?」
 佐東はぽかんと口を開ける。彼はじっと彼女を見つめている。眼鏡の奥の瞳は、意外なくらいに真摯だった。
「だめ?」
「あ――いや、その……」
 佐東は口ごもる。言いたいことはたくさんあるのに、言葉が出てこない。何言ってるの、何故なの、馬鹿なことを、何を考えてるの――。
「言ったでしょ」
 須々木は目を細める。
「逃がすつもりはないよ、って」
「…………」
 そういえば、そんなような台詞は何度か聞いた気がする。だがその意図を確認したことは一度もない。できるだけ考えないようにしていたからだ。それが、こんな形で仇となるなんて。
「仕方ないだろう。欲しくなっちゃったんだからさ」
 須々木は珍しく少し拗ねたような口調で言った。
「君だって、無責任に餌付けするからいけない」
「え、餌付け?」
「お弁当」
「だって、あれは須々木くんが勝手に……!」
 思わず大声を上げかけた彼女を制止し、須々木はすたすたとレジに向かって歩いた。先程彼女に選んだものを全部購入し、金色のクレジットカードで支払う。唖然としている彼女の腕を引き、彼は書店から出てしまった。単語帳は良いのだろうか、とふと疑問に思った佐東だったが、そんな考えはすぐに霧散した。
 須々木が彼女を連れてきたのは、人気の少ない階段の踊り場だ。喧騒が、遠い。
「それで? おれにわざわざ声を掛けたのは、参考書だけのためじゃないだろう?」
 振り向いた須々木は彼女の腕から手を離し、本屋の袋と鞄をそれぞれの腕に抱えてじっと彼女の顔を覗き込んだ。距離が近い。近過ぎる。彼の瞳に映る自分の顔がはっきりと見える――馬鹿みたいに真っ赤な顔をしていた。
「あ、……あの、」
 佐東は目を逸らし、ポケットを探った。
「去年、ホワイトデーもらったから、その」
「御託はいいから、さ」
 偉そうに急かされ、佐東はややむっとしながらも約二センチ角の正方形のチョコレートを取り出した。ぬるくなったそれは、手の中でくにゃりと歪む。
「……ごめんなさい、溶けてるかも」
「そうみたいだね」
 須々木はくす、と笑った。
「悪いけど今両手塞がってるからさ、君が剥いて、おれの口に入れてくれない?」
「な、なんで!」
 佐東は声を上げる。
「じゃあ、わたしが本持つから……」
「いいから、早く」
「…………」
 佐東はぐ、と詰まる。――この二年弱の間に、自分はどうやらこの男に逆らえなくなってしまっているらしい。腹立たしいやら悔しいやら情けないやら、……恥ずかしいやら。
 かすかに震える指先で、包み紙を剥がす。やはり、チョコレートは溶けていた。ポケットなんかに入れるんじゃなかった。後悔しながら、彼女はそれをそっと右手の人差し指と親指で摘んだ。溶けたチョコレートが指先にまとわりつく。
「ん」
 固まる彼女の手に顔を寄せ、須々木はぱくりとチョコレートをくわえた――冷えた指先に、熱い感触が掠める。
「どうも、ありがと」
 にやりと笑う須々木。唇についたチョコレートを指先で拭う。佐東ははっと自分の手を見下ろした。チョコレートは、ついていない。
「…………」
 訳もなく、佐東の目に涙が浮かんだ。悲しいのか、悔しいのか、怖いのか、腹立たしいのか、それら全部なのか、それとも他の感情のせいなのか、何だかよくわからなかった。
「須々木くんの、馬鹿」
「だよね」
 須々木は軽く肩をすくめた。
「おれもそう思う」
「なんで、そんな意地悪……ばっかり、……私ばっかり」
 唇を噛み締める。泣きたくはない。この人の前では、絶対に泣かない。負けない。
「なんでこんなこと他の人にしなきゃいけないの」
 須々木は意外そうに目を瞬く。
「どういうこと……?」
「え、さすがにわかるでしょ? 気付いているんだよね?」
「……何が?」
 はあ、嘘だろ、と呟いて須々木は肩を落とす。佐東は眉を寄せた。ため息をつきたいのはこちらの方だ。
「仕方ないな」
 須々木は顔を上げ、微笑んだ。わざとらしくもなく、意地悪でもない、時々――本当に時々、佐東の前で彼が見せる優しい表情。
「何が何でも、君はおれの近くに進学してもらうからね」
「だから、なんで」
「そりゃあ」
 須々木はとん、と問題集の袋を彼女に押し付けた。佐東は思わず両手でそれを受け取り……。
「高校卒業くらいで、逃がす訳にはいかないでしょ」
 ――おれの周りからいなくなるなんて、許さないよ。
 須々木は彼女の耳元で囁く。

「好きなものは絶対に手に入れるし、絶対に手放さないって、決めているんだ」

「…………」
 は、と唇が息を吐く。音は出なかった。
 ――好きなもの?
「じゃあね、佐東さん。また」
 須々木はすぐに身を翻し、階段を駆け下りて行ってしまった。佐東は両腕で本を抱えたまま、呆然と立ちすくむ。
 ――ただチョコレートをあげるだけのつもりが、自分はとんでもないことを引き起こしてしまったらしい。
「……うそ、でしょ」
 右手の指先を見つめる。そこにわずかに残った甘い香りを彼女は口元に寄せて――そこに触れた彼の薄い唇を思い出し、彼女はその頬を真っ赤に染めたのだった。