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佐東さんと須々木くん(13)

 今度生まれ変わったらああなれたらいいのにな、と思う存在が佐東侑子にはある。もちろん本気で夢見ているわけではないし、本当にそうなりたいのかと問いつめられればきっとたじろいで首を横に振るだろう。ただ、時々ぼんやりと夢想するのである。
 それはたとえばテレビの中で可愛らしく微笑むアイドルたちであったり、同じ学校でもふわふわとした甘い声できらきらとした言葉を散りばめながら廊下を闊歩する同級生の女子であったりするのだった。佐東にとって、両者は同じだった。何しろ彼女たちは眩しい。器用に描かれたアイラインやラメの入ったシャドウに飾られた華やかな眼差し。瞬きするたびに大きな円弧を描く睫毛。グロスでつやめく美味しそうな色の唇。念入りに手入れされた手足は細くて長くて白い。身動きするたびに揺れる髪のカーブから香る、甘い匂い。とにかく、かわいいのだ。勿論生まれ持った顔立ちもあるだろうが、それだけではない。彼女らは常にかわいくあることを目指し、努力している。そのひたむきさがまたかわいいのだろう、と佐東は思っていた。自分は平凡なのだから、とにかく地味に生きたい――そう願う自分に、彼女らを羨む資格などないのかもしれない。
(それでも、こっそり考えるくらいは自由だわ)
 佐東は思った。
(あんなふうに生きられたら、人生もっと楽しいのかもしれない……って)
 深くため息をつく。古文の授業がちっとも頭に入らない。
 ちらりと視線を動かし、盗み見る――この一年半ほどの間にすっかり見慣れてしまった、とある男子生徒の横顔。
 決してイケメン、と称されるような顔立ちではない。地味である。ただ、すっと通った鼻筋と、切れ長の瞳、それらと輪郭とのバランスは良い。細いフレームの眼鏡が彼の印象を余計に地味なものにしているのは間違いないだろう。
 須々木裕。学年一位の優等生。穏やかで人当たりも良くて、でしゃばることなく控えめで――きっと、皆に慕われている。
(本当は全然そんなんじゃないのに)
 佐東は思った。彼が本当はどんなふうに笑うのか、どんなふうに彼女をからかうか、辛辣な台詞を吐くのか、意味深な眼差しを見せるのか。多分、わたしだけが知っている。わたし、だけが……。
(わたし、だけ?)
 本当に?
 須々木は確かに彼女の前では別人のような振る舞いを見せてきた。彼女の臆病さを嘲笑うような彼の言動が、時に彼女を奮い立たせてきたのも事実だ。でも、そのことにどういう意味があるのか、佐東にはわからない。
 須々木が何を考えているのか、何を感じているのか、わかった試しなど一度もない。
 不意に、須々木がちらりと佐東を見た。彼女は慌てて目を伏せる――その直前の一瞬、須々木の薄い口元が人の悪い笑みを浮かべたことに、佐東は運悪く気付いてしまったのだった。
(多分、五嶋(ごとう)さんは須々木くんがこんなひどい人だって知らないのよ)
 五嶋愛花(あいか)――いわゆる、佐東が「ああなってみたいけど、なれない」「だから、もし生まれ変わったら――生まれ変わりなんてないけど、もし万が一そんなことがあったら、あんなふうに生きてみたい」と思っていた同学年の少女だった。本当に、お世辞抜きにかわいい。しかも性格も明るくて成績も割と良くて、男子からの人気が高いのも当たり前だった。昨年は彼女と須々木、佐東が同級だったのだが、五嶋は文系に進んだので二年次には違うクラスになった。
(クラス替えからもう半年経ったのに、なんで今更――)
 そう思ってから、佐東ははっとした。自分は何を考えているのだろう? 五嶋がいつ何をしようが、彼女の自由である。つい昨日彼女が須々木に告白をしたことも、もちろん自由だ。須々木が何か言う前に五嶋は恥ずかしそうに逃げてしまった、という噂でもちきりである。そんなところまでかわいいなんて、と佐東はやや憮然たる思いだった。ずるい。神様は、不公平だ。
 そもそも誰が須々木と付き合おうが、自分には関係ない。須々木も彼女ができたら、今までのように何かと佐東を構うこともなくなるだろう。昼休みに屋上でばったり会って、お弁当のおかずを盗まれるなんてこともなくなる。
 それこそが、彼女の願ってやまなかった平穏だ。数少ないが友人にも恵まれているし、クラスの中でも目立たないなりに居心地が良い。須々木のちょっかいさえなければ、彼女の高校生活は彼女の望んだ通りの、平々凡々なものに――。
 はあ、と佐東はため息をついた。と同時に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。目の前のノートは真っ白。体調が悪かったとか何とか誤魔化して、後で友達に写させてもらおう。
 昼休みに入ったクラスはわっと騒がしくなる。女子は理系クラスの中ではやや少数派だ。その中でも佐東と親しくて、昼休みに部活も行かずに教室でお弁当を食べる友人となるとさらに数は減る。
「ごめーん侑子、今日お昼時間ないの。せんせから呼び出し」
「今日弁当なくてさ、さっき我慢できなくて菓子パン食べちゃったよ」
「なにそれ」
 ごめんねーと屈託なく謝る友人たちに、佐東はくすくすと笑いながら席を立ち上がった。まあ、こういうことはよくある。
 佐東が時々教室ではない場所で昼休みを過ごしていることは友人も知っているが、彼女がどこに行っているのかを正確に知るものはいない。さり気なく振る舞うことには、長けている。今日も彼女はするりと教室を抜け出し、弁当を持って「いつもの場所」へ向かった――立入禁止のはずの、屋上へと。

 秋風が心地良い。佐東はフェンスにもたれ、お弁当箱を開けた。ここで食べる時は、いつも最初に彼の好物を探してしまう――そして、できることなら少しはわけてあげよう、と思ってしまうのだ。我ながらお人好しにも程がある。
 今日は須々木は来ないだろう。五嶋さんに返事をして、そうして一緒にお昼を食べるのだ。須々木くんはいつもコンビニのパンだった。これからは五嶋さんにお弁当もらったりするのかもしれない。
 五嶋さんは、須々木くんのどこが好きになったのだろう。佐東はお弁当に手を付けることなく、ぼんやりと空を見上げる。確かに頭は良いけど裏表があって意地悪だし、強引だし、なんだかいろいろ訳ありっぽいし……。
 でも、きっとお似合いだ。佐東は思う。五嶋さんはかわいいし、いい子だし、男子から人気があるけど、相手がなんとなく周りから一目置かれている須々木なら、みんな諦めるだろう。あのひねくれ者もきっと彼女を好きになる。めでたしめでたし、だ。
(それにしても、……なんで)
 佐東は今日何度目かのため息をついた。
(今日は食欲がない……)
 胃のあたりが重たくて、もやもやする。手足もひどくだるい。風邪だろうか。確かに、彼女は夏の終わりによく風邪を引く体質ではあるのだけど……。
「食べないの?」
「はあ?!」
 突然の声に、佐東はもたれかかっていたフェンスから背中を離した。膝から落ちそうになった弁当箱を、目の前にしゃがんでいた人影が支える。
「要らないなら、もらうけど」
「す、す……」
 佐東はぱくぱくと口を開閉させた。
「なんで……?」
「いちゃ悪い?」
 すました顔で佐東を見遣るのは、呆れるほどにいつもどおりの須々木だった。
「だ、だって」
 佐東は口ごもる。
「五嶋、さん……」
「何でそんなに噂になってるんだかねえ」
 須々木はため息をついた。
「俺は誰にも話してないのに」
「さ、さあ?」
 佐東は首を傾げる。それもそうだ。
「五嶋さんが相談した、友達とか?」
「かな」
 須々木は肩をすくめる。
「面倒だよね。本当、面倒」
「へ?」
「そういうデリカシーのない集団、嫌いなんだ」
 須々木は弁当箱の中から唐揚げをひとつつまみ上げ、ぱくりと食べた。
「ん、美味しい」
「そ、それはどうも」
 須々木は箸を手に持ち、もうひとつの唐揚げを掴むと佐東の口に押し付けた。彼女はおとなしく口を開け、ぎくしゃくとそれを咀嚼する。
「ああいうのって、当人同士の問題でしょ。友達との話のネタにするのは勝手だけど、それが広まって周りが騒ぎ立てるのは下品だし、誠意に欠ける話だ」
 須々木はいつもにまして辛辣だった。
「おれはそういうの嫌いだから。なんとか角を立てずに終わらせたいんだよね」
 ああいう女子って敵に回しても面倒だしね。須々木は弁当箱からさらに玉子焼きを掴み、彼女の口に押し込んだ。佐東はなされるがままにもぐもぐと咀嚼する。
「なんて言えば良いと思う?」
 ごくりと飲み込み、お茶を一口含んだ後、佐東は口を開いた。
「……断る、の?」
「だっておれ、五嶋さんに興味ないもん」
 佐東は驚いて目を見開いた。
「かわいいのに……?」
「関係ない。ていうか」
 ひたりと須々木が佐東を見据える。
「そんなのおれの勝手だよね?」
「……はい、その通りです」
 佐東は首をすくめて俯く。頭上で須々木がふ、と笑う気配がした。
「佐東さんって顔に出るよね。自分ではポーカーフェイスのつもりかもしれないけど、ばればれだよ」
「な、何のこと……?」
 思わず顔を上げると、すぐ近くに須々木の顔があった。のけぞった彼女の後頭部が、フェンスに激突する。須々木が人の悪い笑みを浮かべていた。
「ほっとしたくせに」
「は?」
 須々木はフェンスに右手を掛け、じっと佐東を覗き込む。蛇に睨まれた蛙ってこういうことを言うんだわ、と佐東はおののいた。
「佐東さんてさ、ここでおれと会うとちょっと笑うんだよ。嬉しそうな顔するの」
 かっ、と佐東の頬に血が上った。
「そんなこと、ない……!」
「あるよ。一瞬、あって顔して、口元が緩んで、それからわざとらしくしかめつらしい表情を作ってるんだろ」
 佐東は照れ隠しのように声を荒げた。
「気のせいよ。変なこと言わないで」
「そう?」
 少し近過ぎる――離れて欲しい。付き出した手が意図せずに須々木の胸元に触れた。思いの外早い彼の鼓動に驚いて、彼女は慌てて手を離す。
「でもさっき、少し安心したでしょ? おれが断るって聞いて」
「な、なんで」
 佐東はぎくりと体をすくめる。そんなつもりはない――なかった。そのはずだ。
「だから、顔に出てるんだって」
 須々木は手に持ったままだった箸を、佐東の手に渡した。
「ほら、食べなよ」
「……う、うん」
 佐東はもそもそと続きを食べ始めた。彼女の好物のふりかけのかかったご飯も、今は味がわからない。
「…………」
 須々木は満足したように佐東から離れ、いつものようにコンビニのパンを取り出して食べ始めた。胡座の上に肘をついて、首を傾げる。
「さて、何て言おうかな」
 佐東はちらりと視線を投げる。
「五嶋さん?」
「そう。イメージ壊したくないしさ」
 しゃあしゃあという須々木に佐東は胡乱な眼差しを向けた。なけなしの勇気で、毒づいてみせる。
「本当、五嶋さんもあなたのどこが良かったのかな……」
「全くだよね」
 須々木は真面目くさって頷いてみせる。佐東はぼそりと続けた。
「悪趣味」
「ま、蓼食う虫も好き好きってね」
 唐突に諺を口にした須々木は、にやりと笑って佐東を見つめる。
「安心しなよ。佐東さんの顔色を正確に読めるの、おれくらいだと思う」
「う……」
「見逃すつもりは、ないから」
 佐東は思わず須々木を見つめ返した。――それは一体、どういう意味? 質問は、声にならなかった。
 須々木は目を細める。
「そうだな……彼女がいる、ってことにすれば断りやすいかもね」
 そのままのトーンで、須々木はとんでもないことを言い出した。
「佐東さん、頼める?」
「……は?」
「佐東さんと付き合ってるってことにしようよ」
 なんということを言い出すのだ、この男は。佐東はかっとして、須々木を睨む。
「何よそれ、馬鹿にしてるの……?!」
「勘違いしないで」
 須々木は彼女の怒りなど軽く受け流したようだった。
「順番の問題だから」
「順番?」
「五嶋さんには、実は前から付き合ってたんだって言う。恥ずかしいから内緒にしてたんだ、って。実際は、今から付き合う。それだけのことだ」
「…………」
 理解が追いつかない。佐東は口の開いた間抜けな顔を晒したまま、須々木を凝視した。
「いい考えだと思うな。おれ、佐東さん手放す気ないし」
 ――これでも結構気に入っているんだよ、と彼はまるで玩具かペットのことのように言う。
 佐東は浅い呼吸を虚しく繰り返す。真っ白な頭には、何の言葉も浮かんで来なかった。
「いいタイミングだし、そろそろ覚悟決めなよ。ね?」
 ――何となく、気付いてたでしょ?
 何に、と尋ねる間もなく須々木は立ち上がる。気が付くと、昼休みの終了五分前を知らせる予鈴が鳴っていた。
「じゃ、そういうことで。今度バンジージャンプにも付き合ってね」
 ひらひらと手を振り、須々木は佐東を屋上にひとり残して去って行った。
「…………」
 ――嘘、でしょ。
 絶えいりそうな声でつぶやかれたその言葉を拾うものは、誰もいなかった。

 数日後。須々木が五嶋との交際を断ったらしい、という噂はあっという間に学年中に広まった。
「そろそろ受験勉強に専念したいから、ですって」
 佐東は友人の一人からそれを聞いた。「付き合ったらきっと勉強どころじゃなくなる気がして、怖いんだ……ごめんね」と頭を下げた彼に、五嶋はそれじゃあ仕方ないよね、と答え、そしてこの話は終わった。さすが優等生、とは友人の言葉である。
 ――やっぱりあれは冗談だったんだ。いつも通り、わたしをからかっただけ。わたしなんかと付き合うつもりなんて、そもそもあるはずがない。事実、あれから須々木と顔をあわせる機会があっても、彼はあの時のことを何も言わないし、今までと何も変わらない態度である。佐東はほっとしたような、腹立たしいような、拍子抜けしたような、奇妙な心地を味わっていた。
 それでも――屋上へ行くのを、彼女はやめない。
『佐東さんてさ、ここでおれと会うとちょっと笑うんだよ。嬉しそうな顔するの』
 その言葉が、頭から離れなかった。
『見逃すつもりは、ないから』
 屋上に続くドアが開く。
 佐東はお弁当を手にしたまま、振り向く。その時の自分の表情は――考えない。考えるまでもないのだ。
 本当は、わかっていた。

 もし須々木にバンジージャンプに誘われたなら、佐東は跳ぶだろう――目を固く瞑ってでも、きっと。その先にある自由な空を、彼女は既に知ってしまっているのだから。