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佐東さんと須々木くん(11)

 二年になった。
 この高校では、二年から文理が別れる。佐東侑子は、何となく理系を選んだ。彼女は特にどちらかが得意というわけではない。一年を通しての成績は、いずれの教科も万遍なく平均より少し上、という程度だった。彼女自身が狙った通りの成績である。では何故、彼女は理系を選んだのか。正直なところ良くわからない。まさに何となく、なのであった。
「理系を選んだばっかりに、今年も授業が一緒だね?」
 とは彼女の天敵、須々木裕の弁である。学年トップの、真面目で穏やかな優等生。それが彼の表向きの顔でしかないことを、佐東は前の一年でいやというほど思い知らされていた。
 いつしか恒例となりつつある、屋上でのお昼休み。須々木は相変わらずコンビニのパンをかじり、佐東の持参するお弁当からひとつふたつ、おかずを失敬していく。佐東の方も慣れたもので、はじめから須々木の好みそうなおかずは少し多めに詰めてもらうようにしていた。
 佐東はもくもくとお弁当を食べている。人見知りの彼女にとって、進級は一大イベントであって、その衝撃から彼女はまだ立ち直ることができていないのだった。特進クラスにはクラス替えがないとはいえ、一年生の時に彼女と仲が良かった友人たちは、皆文系に進んだ。そうなると自然、授業カリキュラムも異なり、以前のように一緒に行動する機会は減る。――理系に進むって決めた時から、こうなることはわかっていたはずなのに。
 早くちゃんとグループを作らなくちゃ。理系の女子は少ない。あぶれてしまったら、やり直せる機会はないかもしれない。こんなところでお弁当を食べている場合じゃなくて、私は教室で、仲良くなれそうな人を探さないといけない……。
「難しい顔してるな」
 須々木はくすくすと笑った。
「どうせまた、くだらないことで悩んでいるんだろ?」
「く、くだらないことって」
 ひどい、と睨みつけるが、須々木はいつもの通り意にも介していない様子だった。
「そういえば、なんで佐東さんって理系にしたの? 文系なんだと思っていた」
「…………」
 佐東は押し黙った。実のところ、彼女は特に文理どちらかが得意だとか、不得意だとか、そういった意識はなかった。彼女は意図的に全科目の成績を中の上程度にキープしている。数学も、国語も、英語も、物理も、世界史も。彼女にとっては特にどちらがどう、ということはないのだった。
 佐東はぼそぼそと口を開く。
「なんとなく……その、文転はできるけど、理転は難しいって聞いたし、……決めきれなくて」
「選択を先延ばしにする方法ってことか」
 須々木は鼻を鳴らした。
「なるほどね」
「須々木くんは、どうなの」
 佐東は思い切って顔を上げた。――時にひどく大人びた、醒めた表情を見せるこの優等生。彼の中で、彼自身の未来はどのように描かれているのだろう。少し、興味を惹かれた。
「おれ?」
 彼はふ、と笑った。
「おれはね――うん、最近ちょっと五月病かも」
「は?」
 佐東はぽかんと口を開ける。須々木はその隙をついて、彼女の弁当箱から焼売をさらっていった。佐東は今更咎めだてもしないが、彼の答えを理解することはできなかった。
「五月病?」
「うん」
 須々木はあっさりと頷くが、彼とその単語は、あまりにも似合わない。そういえば、今日の彼の表情はいつもより浮かないもののような気もする。クラスの中では全くいつも通りだったから、気が付かなかった。彼は全く、猫をかぶるのが上手いのだ。
「そう……なの」
 佐東はそれ以上追求しなかった。何かあったの? などと、さりげなく聞けるような、そんな器用さは彼女にはない。
 ある一定以上踏み込むのを躊躇わせるような空気を、須々木は纏っていた。佐東も、わざわざ自分から地雷を踏みに行くような真似はしたくない。自分と須々木とはあくまで他人で、多分友人ですらなく、顔見知りの、時に言葉を交わすクラスメイトに過ぎない。少しばかり須々木は佐東の前でその本性らしきものを現すが、それがどういう意味を持つのか、佐東には未だ良くわからない。
 そういえば、以前彼と綺麗な女性が一緒にいるところを見かけたが――あのひとは、自分の家族ではないと言っていた。彼の家に、雇われている人なのだと。須々木の家には、少しばかり複雑な事情があるのかもしれない。とはいえ、佐東には何の関係もないことだ。あれこれ詮索するつもりはない。ない、のだが……。
「あの……」
 この時の佐東は、きっとどうかしていたのだ。いつもなら、何か誰かに言う時には十分に吟味してからにしているのに。相手を不快にしないように、傷つけないように、呆れられないように、笑われないように、気をつけているのに――佐東はふと、口に出していた。
「五月病なら、六月には治ると思うの」
 言ってしまった後、驚いたような須々木の視線を感じ、慌てて俯く。我ながら呆れるほど馬鹿馬鹿しくて、無意味な台詞だった。言わなければ良かった。何故、口に出してしまったのか。
「…………」
 いやになる。わたしなんかが、須々木くんにえらそうなことを言うなんて。
 わたしなんて、二年前まではいじめられていて、そこから逃げ出すために進学校に来ただけで、勉強もほどほどで、いつも須々木くんに笑われたり、からかわれたり、……。
 早く昼休みが終わって欲しい。もしくは須々木がここから去ってくれればいい。お願いだから、わたしをそんな目で――。
「耳、真っ赤」
 不意に、彼女の耳に何かがするりと触れた。彼女は悲鳴を上げ、思わず顔を上げる。須々木は何故か、妙に穏やかに微笑していた。どうやら彼の指が彼女の耳に触れたらしい。彼女は慌てて自分の耳を手で覆い隠した。
「あ、顔も真っ赤っかだね」
 くすくすと笑われたが、今に限って言えばあまり嫌な気分にはならなかった。多分、須々木の声も眼差しも、ひどく優しいものだったからだろう。
「いいこと言うじゃん」
「…………」
 自分の顔は、余計に真っ赤になったような気がする。佐東は再び顔を伏せた。そのまま、ぼそぼそと言う。
「あのね……、わたし、ずっとそうやって考えながら、やってきたの」
 いじめられていた小中学生の頃。高校生になれば、離れた学校に行けば、きっと状況は変わるのだと信じていた。そう信じて、受験勉強に励んだ。
「今もそう。嫌なことがあっても、いつかは過ぎ去るものだって、わたしは知ってる。そこから抜け出す努力さえしていれば、きっと抜け出せる」
 明けない夜はない。終わらない悪夢もない。時間は常に流れている。流れは一方通行で、遡ることはない。そしてその流れ着く先は、きっと変えられる。
「五年前のわたしの辛かったことなんて、今はただの過去の記憶に過ぎない。もちろん、なかったことにはできないけど……でも」
 過去は、過去。それはわたしの歩んできた道、今のわたしの背後にあるものであって、再びわたしの眼前に突きつけられることはない。
「嫌なことがあった時とか、辛い時には、そう、自分に言い聞かせることにしているの」
 ――わたしは、よわいから。
「…………」
 じっと黙っていた須々木が、やがて口を開いた。
「よわくないよ、きみは」
「…………え?」
「ふっきれた。ありがと」
 珍しく礼を言われた佐東は、目を白黒させた。普段、あれほど弁当を荒らされても、ほとんどお礼など言われたことがないというのに。
 須々木はいつの間にか、いつも通りの人の悪い、食えない笑みを浮かべていた。
「きみのおかげで、六月を待つまでもなかった」
「え? う、うん……わたし、の?」
 ああ、また顔が赤くなってしまう。須々木の視線から、逃げ出したくなる――。
 その時、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。助かった、と佐東は思った。
「戻らなきゃ」
 須々木から目を逸らし、そそくさと弁当箱を鞄に戻す。足早に階段に向かったところで、背後から須々木の声が聞こえた。それは小さな声で、もしかすると独り言だったのかもしれないが、佐東には妙にはっきりと聞きとれたのだった。
「やっぱり、欲しいなあ」
 まるで、佐東のお弁当の中のあのおかずが欲しい、とでもいうような様子で、須々木はぽつりとそう言った。
 ――なにが? 佐東は立ち止まらなかった。振り向きもしない。だが、彼女は声を上げた。
「早くしないと授業始まっちゃうよ、猫かぶり優等生!」
 最後の一言は、ずいぶんと思い切ったつもりだった。だが、背後の須々木は同じた様子もない。
「ふん、」
 小さく笑って追いついたらしい彼に、とん、と肩を叩かれた。びくり、と大げさに体が跳ねる。
「きみの前では猫なんかかぶらない」
 ――その方が面白いから、と笑う須々木はきっともう、いつも通りだ。佐東はどこかほっとして、そんな彼を横目で見遣った。
 何があったのかは知らない。何が彼を五月病にしていたのかも、聞かない。だが――。
 そう簡単にはあげないんだから、と佐東はこっそり思った。