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佐東さんと須々木くん(10)

 三月のある日――それはちょうど、校舎内のあちらこちらにカカオの甘い匂いが零れていた日から、一ヶ月後であった。空気は未だ冷たいが、日差しには春の気配が色濃い。
 校内は、一ヶ月前よりずっと落ち着いていた。三年生は、既に卒業していまっていない。期末試験も、もう終わった。今年度に残った行事はといえば終業式だけで、まるでおまけのような日々なのだった。
「…………」
 佐東侑子は、朝からどこか落ち着かない様子であった。隣の席の、「彼」――そういえば一年の間に何回か席替えがあったが、だいたいいつも「彼」と席が近かったような気がする。くじ引きなのに、自分のくじ運は本当にどうかしていた。四月になれば、また席替えがあるだろう。ここは特進クラスだから、三年間クラス替えはない。だから、「彼」とクラスが離れることもない。そう思うと、佐東はうんざりするような、それでいて少し安心するような、妙な心地になるのだった。
 一ヶ月前に成立したカップルたちが華やいでいるのを横目に見ながら、佐東はため息をついた。そう、あれはちょうど一ヶ月前――。

「佐東さんは、誰かにチョコレートあげないの?」
 「彼」はにこりともせずにそう言い、佐東は思わずお茶でむせかえった。吸い込んだ空気が冷たい。――やっぱり、真冬に屋上でお弁当を食べるのは間違っているわ。佐東はそう思った。なのに、何故か彼女はここに来てしまう。ほぼ毎回のように「彼」におかずをとられてしまうことも、わかっているのに……。
「何なの? いきなり」
「え? だって今日はバレンタインでしょ」
 真顔で聞き返す「彼」に、佐東は胡乱な眼差しを投げた。
「須々木くんは――貰ったの?」
「…………」
 「彼」――須々木裕は右手の親指と人差し指で小さな包みを掲げてみせた。
「いちおう、いくつか?」
「い、いちおうって……」
 佐東はくちごもった。そのいくつかのうち、本命のチョコは一体いくつあるのだろう。彼の持つ可愛らしいラッピングは、きっと手作りだ。もしあれが本命なら、須々木は一体どうするのだろう。――それを知ったところで、自分はどうするのだろう?
「佐東さんは、あげないの?」
 先ほどと同じ質問に、佐東は目を瞬いた。
「え……うん」
「あ、そう。志水くんは何人かにもらってたよ」
 志水――須々木が口にしたのは、クラスでも人気のある男子の名前だった。顔立ちが整っていて、話が面白くて、サッカー部で。人気のないわけがない、と佐東は思った。佐東もたまたま何回か話したことがあるが、ひとなつこくて愛想のいい彼と話すのは楽しかった。少し、どきどきもした。しかし……。
「なんで、そこで志水くんが出てくるの」
「…………」
 聞き返しても、須々木は何も答えなかった。ただ、コーラをごくりと一口飲んだだけである。コンビニの総菜パンと、コーラ。成長期の男子にしては、何とも貧相な昼食だった。彼はいつもそうだった。炭酸系飲料と、パンをふたつほど。――そんなのだから、細くて背もそんなに大きくならないんじゃないかしら。もちろん、口には出さない。そんなことを言おうものなら、何と言い返されるかわかったものではない。おまけに何かひどい目に遭わされる――ような気がする。
「食べないの?」
 不意に、須々木が身を屈めた。彼女のお弁当から海老フライがひとつ、うすい唇の間に消えていった。
「あっ……」
 好物なのに。肩を落とす佐東に、須々木はくつくつと笑った。――教室では決して見せることのない、人の悪い笑い方。
「ぼんやりしてるから」
「だからって……」
 須々木は彼女の声を遮るように、ぽん、と手を鳴らした。
「じゃあ、これはチョコの代わりってことにしよう?」
「……は?」
「ちゃんと、お返しをあげるよ。一カ月後ね」
「どういうこと……?」
 怪訝そうな顔をする佐東に、須々木は言った。
「今までもいろいろお弁当のおかずをもらっているし。ホワイトデーを機会に、お礼をしようと思って」
「お礼……?」
 怪しい。佐東は警戒した。須々木はこれまで、一度だって彼女にそんなことを言ったことはなかった。確かにいろいろなおかずを奪われはしたけれど、彼は全くもって悪びれてはいなかった。それなのに突然お礼、だって? ホワイトデーに?
「うん」
 須々木は薄く笑っている。
「堂々と教室で渡したら、みんなどう思うだろうね。バレンタインに君がおれにチョコレートをくれたって、そう見えるかも」
「…………!!」
 佐東はさっと顔を青ざめさせた。そんなの……そんなことしたら――きっと、目立ってしまう。須々木はクラスで一目置かれている優等生だし、一見親切で優しくて、同級生に比べるとどこか大人びているから、ひそかに彼を想う女子生徒がいるのは佐東も知っている。自分は集団に埋没しているが、須々木はそうではない。その彼が、自分に――きっと、注目される。
 目立つこと。人に注目されること。それが彼女の一番嫌がることだと知っていて、須々木はそんなことを言うのだ。佐東は俯いた。
「やめて……お返しなんて、いらない」
「そう? でも、いつももらってばかりじゃ悪いだろ」
「思ってもいないくせに」
 佐東は吐き捨てるように言った。――嫌いだ。須々木くんなんて、大嫌い。
「何でそんな意地悪なことばっかり言うの? わたし、須々木くんに何かした? 嫌われるようなこと、した?」
 早口に言う。黙り込むと、泣いてしまうような気がした。そんなのはごめんだ。この男の前でだけは、泣きたくない。
「お弁当のおかずくらい、好きに取ればいい。でも、そういう嫌がらせはやめて……」
「嫌がらせ?」
 須々木は不意に口をはさんだ。佐東は言葉を止める。――涙は、出なかった。そのことに、彼女は安堵する。
「それって」
 須々木はひょい、と彼女の顔を覗き込んだ。すっと切れ長の彼の目が、眼鏡の奥から彼女を見つめている。
「佐東さんはおれが嫌いってこと?」
「…………」
 ――そうよ。そんなの、あたりまえじゃない。そう言おうとした彼女の唇は、しかし動かなかった。須々木の視線に縫い止められてしまったようだった。
「もしそうなら――もうおれ、屋上でご飯食べるのやめるけど」
「…………!」
 続けられた言葉に、佐東はぴくりと体を震わせた。
「佐東さんに、ここは譲る」
「……な」
「だって、嫌いな相手と顔を合わせたくないだろ?」
 傷ついたように、目を伏せる。――男性にしては長い睫毛が、彼の瞳を隠す。
 佐東は慌てる。人を傷つけたくはない。傷つけてしまったら、人は自分の敵になる――少なくとも味方にはなってくれなくなる。それは、嫌だ。
「べ、別に嫌いってわけじゃ……」
「ほんとうに?」
 須々木は目を上げる。――須々木くんは薄い目の色をしているんだ、と佐東はぼんやり思った。
「……本当、よ」
 須々木は身を引き、佐東から視線を外した。彼女はほっと息をつく。
「バレンタインなんて、義理チョコがほとんどなんだからさ。別におれがクラスで佐東さんにお返しを渡したって、誰もそこまで気にしやしないよ」
 須々木はそう言った。
「そう、かな……」
「うん」
 ――どうして敢えて教室で渡そうとするのか。今みたいに、屋上でふたりでいる時だっていいのではないか。佐東はそう思ったが、口に出すことはできなかった。
 須々木が何を考えているのか、わからない。わかった試しなど、一度もない。
「少しくらいは牽制しておかないとね?」
 須々木はフェンスにもたれて、空を仰いでいた。細いシルエット。なびく短い黒髪。冬の陽光を反射するレンズ。表情は、見えない。
「けんせい?」
 何のことだろう。佐東は首をひねる。――その手元の弁当箱から、
「あ……」
 須々木は素早く身をかがめ、イチゴをひとつ、つまみあげた。
「バレンタインなんだから、甘いものをもらっておかないと」
「じゃあ、最初からそれとってよ……」
 佐東はため息交じりにつぶやいた。――もう、どうでもいい。そう思った。

  × × ×

「佐東さん」
 須々木の声に、佐東はびくりとした。振り向き、できるだけ自然に――不自然にならないように気をつけて、返事をする。
「何?」
「いつもお世話になっているから」
 ふたりの時には決して見せない柔らかな表情で、須々木は言う。
「これ」
 財布ほどの大きさの白い箱を、彼女の机にとん、と置いた。薄ピンクのリボンが掛かっていて、そこには見覚えのある有名な洋菓子店の名前が金色で刺繍されていた。
「あ……」
 ありがとう、という前に、クラスメイトの男子が目ざとくそれを見つけて声を上げた。
「須々木、なんだあ? それ、ホワイトデーか?」
「ってことは佐東、お前いつの間に」
 佐東はかっと顔に血が集まるのを感じた。
「え、あの」
「ううん、別にチョコを貰ったわけじゃないんだ」
 佐東が何か言うよりも先に、須々木が穏やかに彼らを制する。
「ぼくら、たまたまずっと席が近かったんだよね。だから、他に貰った義理チョコのお礼を買いに行くがてら――忘れ物をした時にはいろいろ借りたし。本当、それだけなんだ」
 すらすらと言った須々木は、最後に佐東を見つめて笑った。
「だから、ごめんね。びっくりさせて」
「何だ、そういうことか」
「てっきりさー」
 須々木の説明に納得したのか、口々に散っていくクラスメイトたち。――佐東が注目されることは、なかった。ほっと、安堵する。だが、ちらりと須々木の顔を見た佐東は、体を強張らせた。須々木は、笑っている。いつものあの、笑い方で。
「――なんてね?」
 須々木は右手で頬杖をついて、じっと彼女を見た。
「いつまでも逃げられると思ったら、大間違いだよ」
「…………」
 逃げる――いったい、何から?
 机の上に無造作に置かれた須々木の左手が、まるで彼女を絡め捕る網のように見える。
「嫌いなものは、ちゃんと嫌いって言わないと」
 須々木は言う。
「離れていってくれないよ?」
「…………」
 佐東は曖昧にうなずく。須々木のことは、嫌い。――ではないと思う。たぶん。
 少なくとも、彼が二度と屋上に来なくなってしまったら残念だと――そう思う程度には、嫌いではない。
 須々木はくすりと笑った。嫌な笑い方では、なかった。
「来年はお弁当にチョコレート入れてきて」
「……考えておくわ」
 彼女の返事に須々木は少し、驚いたようだった。――その表情に、彼女は満足する。
「あと――」
 佐東は白い小箱を両手で包み、鞄の中に入れた。
「これ。ありがとう」
「……どういたしまして」
 こうして小声で交わされる会話にも、慣れた。ただ、須々木という存在には慣れることができない。――指先に刺さった、小さな棘のような。それとも、もっと他の……何か。何だろう?
「……考えておく」
 佐東はもう一度、小さくつぶやいた。