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佐東さんと須々木くん(1)

『趣味:バンジージャンプ』

 佐東(さとう)侑子(ゆうこ)はまじまじとその文字を見つめた。高校入学式直後のホームルームに配られた自己紹介用紙の、クラスメイト全員分がコピーされ、丁寧にホチキス止めされた冊子。お世辞にも綺麗とは言えないその文字には何の個性もないが、内容の自己主張の激しさといったらない。
「…………」
 佐東はちらりと隣の席の男子を見た。彼こそがこの文字の持ち主、須々木(すずき)(ゆたか)。黒縁眼鏡の、絵にかいたようながり勉タイプの男子。そんな彼の趣味が、バンジージャンプ?
「どうかした? 佐東さん」
 突然黒縁眼鏡が彼女を見て、佐東は狼狽えた。
「べ、べつに」
「そう?」
 須々木はすぐに視線を逸らした。佐東はほ、とため息をついた。佐東の中学からは、この高校に入学した生徒はひとりもいない。知らない名前が並ぶ冊子のページを繰っていると、須々木の声が再び降ってきた。
「佐東さん、音楽が好きなの?」
「え……」
 佐東は顔を上げた。須々木は彼女の持っているものと同じ冊子を見ていて、そこには彼女の書いた自己紹介が載っていた。『趣味:音楽鑑賞』。確かに音楽は聞くけれど、特に思い入れがあって書いたわけではない。当たり障りがないだろうと思って書いた、「趣味」。佐東は思わず顔を赤らめた。
「な、なんでそれ見てるの……」
「佐東さんだって、おれの見てたくせに」
 彼女の理不尽な怒りを須々木は飄々とやり過ごし、さらに問いを重ねた。
「どういうの、聞くの?」
「どうして、そんなこと聞くの?」
 佐東は耳元に手をやりそうになって、あわててやめた。――せっかく高校入学前にコンタクトにして分厚い眼鏡とはお別れしたのに、癖がまだ残っている。他にもまだ残っているかもしれない。俯く癖、髪を耳にかけずに頬に垂らす癖、すぐに目を逸らしてしまう癖――全部全部、直さなきゃ。
「聞いちゃだめなのかい?」
 須々木は小さく笑った。佐東は言葉に詰まる。
「別に、だめじゃないけど……」
「今度、お勧め貸してよ」
 須々木は薄い笑みを浮かべたまま、彼女の顔を覗き込んだ。
「お礼に、お勧めのバンジージャンプスポットを教えてあげるよ?」
「……要らない」
 自分は高所恐怖症なのだ、と言いかけてやめた。なんとなく馬鹿にされそうな気がして、癪だと思ったからだ。人に弱みを見せてはいけない。
「そ」
 須々木はあっさりと引き下がった。佐東は小さくあ、と声に出してしまう。
「なに?」
 聞き返されて、佐東は首を横に振った。――どうしてバンジージャンプなのか、聞きたかった。でもなぜか聞いてはいけないような気がして、聞けなかった。

 その三日後、校内は騒然としていた。三年生の女子生徒が、屋上から飛び降りたというのだった。救急車はとうに走り去ったけれど、警察による現場検証が終わるまで、生徒は校舎の外に出ることを禁じられてしまった。午後から全校集会が開かれるという噂もあったけれど、真偽はわからない。授業は中止になり、生徒たちは思い思いに集まって騒々しく雑談を交わしていた。入学間もない時期、見知らぬ生徒に起きた出来事でもあり、まるで身近には思えないのだろう。
「ああもう、早く帰りたい……」
 佐東の机に突っ伏しているクラスメイト。栗色の髪が、机に広がっている。
「いい迷惑だ、ほんと」
「うん……」
 佐東は同意も否定もせず、ぼんやりと窓を眺めた。カーテンの引かれていない窓の外には、雲の一つもない、間抜けなほど青い空が広がっている。この空に、今日、誰かが身を投げた。それなのに、空はこんなにも素知らぬ顔で晴れ渡っている。一体どういうつもりなのだろう。
「侑子?」
 反応のない彼女に焦れたのか、クラスメイトが彼女の名を呼んだ。
「どうしたの?」
「なんで、飛び降りたのかな」
 佐東の独り言のような言葉に、彼女は律義に応えた。
「さあ? いじめ? 進路? 恋愛?」
 列挙した後、肩をすくめる。
「そんなの、わたしたちにわかるわけないじゃん」
「そうだね」
 携帯をいじりはじめたクラスメイトを横目に、佐東は小さくつぶやいた。
「……バンジージャンプも、紐が切れたら……」
「ん? なんか言った?」
「ううん」
 彼女の問いに首を横に振り、ふと佐東は隣の須々木を見た。
「…………」
 須々木は、眼鏡の奥から彼女を見ていた。少しだけ口元が笑っている。……聞こえていたのだろうか、と佐東は不安になった。ひとの趣味を飛び降り自殺から連想するなんて、どうかしている。気分を害されても仕方がない。
 須々木はクラスメイトの中では少し浮いていて、ありていに言えば根暗な感じのする男子だった。無視されているとか、毛嫌いされているとかいうわけではない。友人もいないわけではない。ただ、一人でいるのが好きなのだろうと思わせる空気をまとっていて、簡単には他人を寄せ付けないのだった。本人も周りにそう思われていることを知っていて、それを許容している。
 不思議だった。一歩間違えばいじめの対象にもなり兼ねない。けれど、須々木は絶妙なバランスでもってそれを避けている。佐東は不躾にならないよう気を付けながらも、気付くとつい彼を観察してしまっているのだった。
「りえ、ちょっとー」
「なに?」
 友人に呼ばれたクラスメイトは跳ね起き、すぐさま声の方に駆けていった。――あ。佐東は思った。彼女を退屈させてしまっただろうか。小さなことが、棘のように心の奥に引っかかる。彼女はまた、自分に話し掛けてくれるだろうか。大丈夫、だろうか。
 佐東はその小さな痛みを打ち消そうとするかのように、さっきまでクラスメイトがしていたのと同じに机の上に両腕を重ね、体を投げ出した。
「ハズレ」
 その声に、佐東はびくっと肩を震わせた。顔を上げ、視線を向ける。
「須々木くん……」
 彼は薄い笑みを浮かべながら、まだ佐東を見ていた。
 ――バンジージャンプも、紐が切れたら飛び降り自殺と同じ。口にしたのは途中までだったが、それでも何の気なしに口にした言葉を聞かれていたことに気付いて、佐東は顔を赤らめた。
「おれは別に、そんなつもりで跳んでるんじゃないんだけど?」
 大人しそうな外見とそぐわない、いささか荒っぽい口調。他の人にはもっと丁寧に応対しているのに、と佐東は不満に思った。
「そりゃあ、そうよね。……ごめんなさい、変なこと考えて」
「別に? そんなの気にしない」
 けど――。
 須々木はふと、彼女から視線を外した。その横顔に、佐東は息を飲む。表情の抜けたそれは、あまりにも……。
「いつか、切れちゃったりしてね?」
「え?」
 放たれたその言葉に、佐東は思わず聞き返す。
 だが、須々木はそれ以上話を続けるつもりはないようで、手にしていた本に視線を落とした。
「…………」
 佐東は彼から視線を逸らし、唇にぎゅっと力を込めた。
「そう思うなら、飛ばなければいいのに。馬鹿みたい」
「それもそうだね」
 須々木はそう言って、あはははと乾いた笑い声を上げた。
「佐東さん」
「何」
「大丈夫だよ」
「え?」
 突然の、優しい声音。佐東は目を見開いた。
 須々木はじっと、彼女を見ていた。
「おれは、あんたに話し掛け続けるから」
「……ど」
 ――どうして。息が、詰まった。
 須々木は知っているのだろうか。小中学校を通じて、佐東がずっといじめられていたこと。独りぼっちで孤独に耐えていたこと。いじめから逃げるために必死で勉強して、この私立の進学校に入学したこと――。
「あ、そうそう」
 須々木はすっと目を逸らし、鞄の中から音楽プレイヤーを取り出した。ほっそりとしたメモリタイプのもので、色はメタリックなスカイブルー。
「これ、新品なんだ。佐東さんの好きな曲入れていいよ」
「は?!」
「入れたら、返して」
「ええ?!」
 須々木は佐東の手に半ば無理やりそれを押し付けると、すぐに手を引っ込めてしまった。
「…………」
 佐東はわずかな逡巡の後、それをぐっと手の中に握りしめる。
「わたし、趣味ばらばらなんだけど?」
「いいよ」
 須々木は笑って眼鏡を外し、軽く袖でレンズを拭った。隠れていた切れ長の瞳が、佐東を映す。
「ばらばらになるの、好きなんだ」
「何それ」
 佐東は笑う。
 笑いながら、青い空を墜ちていく、須々木を思った。