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第十話 タカオカサツキ

「あたし、『視える人』なんだよね――」
 七星英のクラスメイト、高岳(たかおか)咲月(さつき)がそう言い出したのは、昼休みの喧騒に教室が包まれている中でのことだった。
 英と咲月を含む数人の女子らは、いつものように教室の一角で昼食を食べている。英もまた、母親が仕事に出る前に詰めてくれた弁当を口にしていたところだった。
「あー、咲月は昔からそうだよね」
 その話には慣れている、というように別の女子があっさりと言った。彼女は咲月と同じ中学の出身だった。そうなの、と英は目を瞬く。
「視える……って、何、幽霊とか?」
「えー、凄い!」
「そう。あと、何となく嫌な予感がしたり、とか……よく当たるの、そういうの」
「へえ」
 何しろ自分は悪魔と知り合いなのだ、幽霊くらいで驚くことはない。つい気のない返事をしてしまった英に、咲月は少し暗い眼差しを向けた。
「ん?」
 卵焼きを頬張りながら首を傾げる英を見つめながら、咲月は低い声で言った。
「英さ」
「え、わたし?」
「そう」
 咲月は真顔で、こう続けた――
「なんか、よくないものに憑かれてる……」

「霊感?」
 万年閑古鳥の鳴いている喫茶「ロンド」。そこのアルバイトにして、その実体はひとを喰らう悪魔――櫟原は、英の言葉を一笑に付した。
「そんなもので僕を見破れるなんて、あり得ないな」
「でも……」
 カウンター席に座った英はアイスカフェモカをストローで啜りながら、胡乱な目つきで櫟原を見上げた。
「そもそも」
 しかし、櫟原は聞く耳を持たない。
「僕は君にとって『よくないもの』なんかじゃないだろう?」
「はあ? 何言って」
 それは聞き捨てならないと顔を上げた英に、櫟原は笑いながらその額を指先で小突いた。
「君のお兄さんの命の恩人は誰?」
「う……それは」
 それを言われると、英は弱い――彼女は事故で命を落としかけた兄の陽を救ってもらった代わりに、この性悪悪魔に(性悪でない悪魔がいるかどうかは別にして)魂を売り渡すこととなったのだから。
 それでも、英は後悔していない。もし再び同じ決断を迫られたなら、きっと彼女は迷うことなく同じ道を選ぶだろう。
「霊感、ね――」
 櫟原は手元のグラスに大きめの氷を一粒入れ、それをからからと音を立てながら回した。
「私はそういうの、全然なんだけど」
 英は言いつつ上目で彼を見上げる。
「本当にあるの? 霊感とか、幽霊とか」
「それ、悪魔にする質問とは思えないね」
 櫟原は小さく噴き出した。英はむっと口を尖らせる。
「悪かったわね……」
「まあ、人の知らないものはまだこの世界にいくらでもあるし、知らず知らずその秘密に触れている人もいることだろうね」
 櫟原は呟く。
「だから、死者の魂をそのつもりなく目にしてしまう――或いは感じ取ることのできる人間がいたって、なんら不思議ではないさ」
「なんか、意外と常識的な言葉の遣い方をするのね」
「どうせ言葉を遣うのならちゃんと効果的に、伝わるように遣ったほうがいいだろう?」
 櫟原はそんなことを言いながら、すうっとその両の目を細めた。
「言っておくけれど、お祓いに行ったって無駄だからね?」
「行かないよ」
 英は即答した。
「だって、櫟原さんがいなくなったらお兄ちゃんはどうなるの」
 あくまで兄は一度死んだ――それは変えようのない事実で、櫟原がその力でもって兄を生かしている。彼の運命を、悪魔の力によって捻じ曲げているのだ。
 ――英の、そのすべてと引き換えに。
「君は賢い子だねえ」
 櫟原の手がぐりぐりと英の頭を撫でる。彼女は払いのけようとしたが、彼の手はびくともしなかった。英はあきらめてなされるがままになりながら、ため息をつく。
「でもまあ……いい気分ではないよね」
 悪いものに憑かれてる、だなんて。
「気にする必要ないよ。そんなものがいたら僕が絶対に気付くし、君は何にも憑かれてなんていないよ」
 ――僕以外の何にも、ね。
「それも妙な気分だわ」
 飄々と言ってのける悪魔を見上げ、英はため息をついた。

  ※

 数日後。それはやはり昼休みの出来事だった。
「ねえ、英」
 咲月がおずおずと口を開く。その表情はどこかかたく、暗い。
「何?」
 英は何の気なしに尋ねる。咲月は躊躇いがちに、言った。
「英って、兄弟いる? もしいたら、気を付けたほうがいいと思うよ」
「何のこと?」
 英は眉を寄せた。
「あ、この子時々予知夢見るんだよね!」
「えーっ、すっごい!!」
「気を付けるって、具体的にどうしたらいいの?」
 弾むような声で先を促す友人の声が、ひどく耳障りに聞こえた。
「ねえ、咲月! 教えてよ!」
「気を付けるって、何に? 事故? 病気?」
 口々に咲月に迫る友人たち。英はじっと黙っている。咲月は何故そんなことを言うんだろう、英は不思議に思った。彼女の言うのが本当に予知なのか、それとも彼女がただ思わせぶりなことを言っているだけなのかどうか、彼女にはわからない。わかりはしないのだけれど……。
「ううん、そんなにはっきりとは……でも」
 咲月は心配そうにその目を細め、俯いた。
「良くないことが起こる予感がするの……、だから気を付けてほしいなって思って」
「英のところってお兄ちゃんがいるんじゃなかったっけ?」
「やだー、怖い……!」
「咲月ってやっぱり凄いわー」
 きゃあきゃあとはしゃぐ級友を、英はひどく冷静に冴え切った目で眺めていた。――所詮は他人事、本気で咲月の言うことを信じているというわけでもないのだろう。だから無責任に騒げる。それが悪いことだとは英は思わない。もし自分が彼女らの立場であったなら――実際に兄の陽を失いそうになる前であったなら。彼女らと似たような反応をしてしまっていたかもしれない。
 ――けれど。
「私の兄が、どうなるっていうの?」
 英の低い声に、ぴたりと友人らの声がやんだ。
「英……?」
「やだ、そんな本気で」
「英、怒ったの?」
 咲月が首を傾げ、困ったように英を見つめる。
「でも私、ただ英のことが心配で……」
「そう。それはどうも」
 英はぱたんとお弁当箱の蓋を閉じた。
「あれ、もう食べないの?」
「ちょっと、英」
 取りなすように声を掛けてくる友人たちに、英は淡々と告げた。
「兄が心配だから、帰る」
「ええ?!」
「そんな、どうしちゃったのよ英!」
 引き留める彼女らを置いて、英はてきぱきと帰り支度をする。
「先生には体調不良って言って来るから」
 ――あながち嘘でもない、と英は思った。
 頭はずきずきするし、吐き気もする。全身は悪寒に襲われ、くらくらと眩暈もしていた。
 ――思い出させないで。
 咲月の知るはずもないこと。
 陽が、一度死んだということ――英を庇って。
 何も知らないくせに。
「適当なこと言って、何なの」
 英は怒りに身を震わせながら――それでも兄の顔がどうしてもひとめ見たくなって。スマートフォンのアプリを使い、陽に連絡を入れたのだった。

 英が「体調が悪くて早退する」と伝えると、陽は驚いた様子で途中まで迎えに来てくれた。その隣には、何故か櫟原がいる。――そうか、ふたりは一応同じ大学に通っているんだっけ。本当のところがどうなのかは、彼女にはわからないけれど。
「ごめんね、お兄ちゃん」
 英は何とか笑顔を浮かべて陽を見上げた。彼は心配そうに英の額に手を当てる。
「熱はなさそうだけどな……」
「英ちゃん、大丈夫?」
 櫟原は陽の前ではいい友人を装っているが、これも英が彼に望んでいることだからなのだろうか。いや、そもそも彼は陽の友人だったのだ。英は陽の後から櫟原と知り合った、そのはずである。
「荷物持ってやろうか?」
「大丈夫」
 英は兄の申し出に、首を横に振った。
「遠慮するな」
 だが、陽はひょいと英の手から通学鞄を取り上げてしまう。
「うわ、結構重いなー。お前こんなの毎日持ち歩いてるわけ?」
「まあ……」
「英ちゃんは真面目なんだね」
 ――馬鹿にしてるのかしら、と思いながら英は櫟原を見上げる。その悪魔はというと、澄ました顔で陽の隣を歩いていた。
「悪いなあ櫟原。お前まで付き合わせちまって」
「別に、僕はたまたま今からバイトの時間だったから」
「あ、そうなのか?」
「うん」
 頷いた櫟原が、ちらと英を見た。――その眼鏡の奥の瞳が一瞬、鮮やかな赤を映す。
『面白くないね』
 その声は、鼓膜を通すことなく英の中に響いた。
『何が、よ』
 英もまた、兄に気取られぬよう返答する。
『君が、僕の知らないところでそんな風に動揺させられているなんて』
『動揺なんてしてない』
『嘘だね』
 と、櫟原は決めつけた。
『でも、一番の嘘つきはその子だな』
 英はぎくりと肩を竦め、そして櫟原を睨む。
『覗いていたの?』
『覗きじゃないよ、別に君の頭から記憶を盗み読みすることなんてそう難しいことじゃない』
 英は思わず顔をひきつらせた。
「サイッテー」
 ぽろりと言葉が零れ落ちる。ん? と陽が怪訝そうな顔をした。
「どうした、英。気分悪くなったのか」
「ううん、大丈夫」
「よほどひどいならおぶってやるぞ」
「い、いいよそんなの」
 英は慌てて首を横に振る――だが、兄は真剣に英を心配していた。それが、彼女にも伝わってくる。兄は、兄の陽はそういう男なのだ。少しお調子者だったりお人好しだったりもするけれど、本当に優しくて、いい人で――私の大事な、ひとりきりの兄なのだ。
 ほろり、とひとつぶ涙が零れた。
「なんだよ、泣くほどつらいのか」
 足を止め、焦ったように陽が彼女の頭を撫でる。
「早く帰ろう。な?」
「……うん」
 咲月、どうしてあんなこと言ったの。
 私を驚かせたかったの――驚かせて、いやな気分にさせて、それでどうだっていうの。
『安心しなよ、英ちゃん』
 櫟原の声が頭の中に響く。。
『陽に悪いことなんて起きるはずがない』
 ――だって、
『彼は悪魔によって、その契約の名のもとに守られているんだからね――』
 ――だから、その予知だか予感だかも偽物さ。
『ねえ、英ちゃん?』
 まるで耳元で囁くように呼びかけられて、英の背筋がぞわりと粟立った。

『くだらない見栄で嘘をつく子は、悪魔に食べられても仕方がないよね――』

 ぎくりとして、英ははっと目を見開く。
『何をするつもり?』
 ちょうどその時、彼らは分岐路に差し掛かった。ここを曲がれば「ロンド」へと向かう道。櫟原は、それじゃあ英ちゃん、お大事にね、と爽やかに手を振り立ち去っていく。
 ――聞けなかった。
 立ち尽くして櫟原の背を見送る英に、陽は呑気に声を掛けた。
「おいおい、見惚れてないで帰るぜ?」
「誰が見惚れてるって?!」
「お、元気出たな」
 良かった良かった、と朗らかに笑う陽。その笑顔を見て、英はほっと安堵するのだった。

  ※

 その翌日から数日間、咲月は学校を休んだ。連絡もつかない、と友人らはという。
「どうかしたのかな……」
「英はもういいの?」
 様子を窺うように尋ねられ、英は曖昧に笑って頷いた。
「ありがとう。あのまま帰って寝たらすぐ良くなった」
「風邪でも流行ってるのかな……」
「…………」
 ――櫟原さんが何かしたのかしら。
 気が気でなくなった英は、放課後に「ロンド」へと向かった。
 ひとけのない路地に面した重い木の扉を押し開くと、ふわりと香しいコーヒーの匂いが漂ってくる。
「いらっしゃい」
 柔らかく微笑む美貌の悪魔、櫟原。黒いカフェエプロンを身につけ、英が来ることを見越してであろう、何か冷たいドリンクを作っているところのようであった。
 英は鞄を置き、じっと櫟原を睨む。
「ねえ、咲月に何か……」
「ん?」
 櫟原はわざとらしく聞き返してきた。
「サツキちゃんって、誰だっけ」
「……その、『霊感』があるって言っていた子よ」
 英は手短に説明を加え、きっぱりと言った。
「わかっているでしょ?」
「手厳しいね」
 肩を竦めて櫟原は言う。
「それで? 彼女、学校には来ていないのかい」
「あれからずっとよ。今日でもう五日目――」
「多分、もうすぐ効果はきれるよ」
「……効果?」
「そう」
 からん、からん、とグラスに氷を入れて。櫟原は手早くアイスカフェオレを作る。その口元が、にやりと歪んだ。

「僕はただ、彼女に本当の『霊感』を与えただけさ」

「本当の……?」
 英が訝し気に聞き返す。
「それ、どういうこと」
「君たちの思う幽霊がどういうものなのか、僕は知らないけれど、ようはその場所や物に残った死者の思念を見聞きできれば『霊感』があるってことにはなるだろう?」
 英は眉を寄せた。
「……えっと、それってつまり」
「人はそこら中で死んでいるからねえ――しかも彼らの残す思念の大半は負の感情だ」
 櫟原は人の悪い笑みを浮かべたままそう言った。
「そんなものが見聞きできてしまうんじゃ、外に出ることなんてできないんじゃないかな?」
「…………」
 英は唖然とした。
「そ、そんなこと、したの……?」
「彼女の望んだことだろう?」
 櫟原は言う。
「彼女は嘘をついてまで『霊感』とやらがあるように振る舞いたかった。だから、それを叶えてあげたのさ」
「さ、咲月が望んだのはそういうことじゃないと思うけど」
「わかっているよ」
 櫟原は器用に片目をつぶってみせた。
「『霊感』があるというとちやほやされる。すごい、と言われる。それが気持ちよかっただけのことだろう? 自分の言動がひとに影響するのが心地よかったのさ」
 ――君が、兄のことを言われて動揺したのと同じようにね。
「…………」
 英は唇を噛み締める。櫟原が、あれ、と顔を覗き込んだ。
「いい気味だ、って思わないのかい?」
「思わないよ」
 英は言う。
「そりゃ、あの時腹は立ったけど……別に、そこまでひどい目に遭ってほしいなんて思ってない」
「ひどい目、ねえ」
「やり過ぎよ」
 顔を上げて櫟原を睨む英に、彼は気にする様子もなく笑い返した。
「僕は彼女に『霊感』を与える代わりに、彼女がこれまでついた『嘘』を食べた――彼女は自分のついた『嘘』と等価になる分だけ、本当の死霊と相対するというわけさ」
「……その力がなくなるまで、あとどれくらいかかるの」
「さあ、二三日じゃないかな?」
 結構たくさん「嘘」をついていたんだよね、彼女。
 それを聞いて、英は顔を俯けた。その目の前に、差し出されるカフェラテ。
「仕方ないだろう? 悪魔のものに手を出したんだ」
 怒らせて――泣かせて。
「それくらいの報いは受けてもらわないと、悪魔の名がすたるってものだよ」
「……何それ」
 英はストローをくわえてラテを啜った。冷たくて、美味しい。
「ばっかみたい……」
 そんな馬鹿みたいな理由で、咲月にひどいことをした。本当にひどいこと、なのに。
 それなのに。

 本当は私、あの時ものすごく腹が立っていた。悲しかった。悔しかった。

「――ありがと」

 小さくつぶやいた英の言葉を聞こえぬふりするだけの優しさは、悪魔も持ち合わせているようだった。