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第十四話 オガタリョウ

 そもそも悪魔って何なんだっけ。七星英はスマートフォンを手に取り、wikipediaで検索してみた。――「悪魔とは、特定の宗教文化に根ざした悪しき超自然的存在や、悪を象徴する超越的存在をあらわす言葉である。」……まあ、ようは悪いやつってことね。机の上にスマートフォンを置き、ううん、と唸りながら伸びをする。
 ここは彼女の自室。開いた窓からは初夏のやや冷たい夜風が吹き込んでいた。揺れるカーテンが壁にランダムな影を作る。
 悪魔。
 英は、ほう、と小さなため息をつく。その超自然的、超自然的な存在が宗教や神話の中に留まるものではないことを、彼女は既に知っている。事故で命を失いかけた彼女の兄を救い、その代償として彼女を手に入れた「悪魔」。……そういえば彼はあの事故の前から兄の友人を装っていたが、もしかして元よりあの事故が起きることを知っていたのだろうか。それでいて知らないふりをしていたのか……しかし、何のために?
 日頃はできるだけあの悪魔のことなど考えずに過ごそうとしているのに、時々どうしようもなく思考を巡らせてしまう。自分はこれからどうなるのだろう。兄は無事に過ごせるのだろうか。あの悪魔はいつまで私達の近くにいるつもりなのだろう。考えるだけ無駄なのはわかっているのに、それでも考えずにはいられない。それがまた、彼の掌で踊らされているようで腹立たしい。
 あの悪魔は、ひとの願望を叶えるのと引き換えにそのひとの一部を「食べる」。それは時にひとの五感の一部であったり、或いはひとの記憶であったり、ひとの感情であったりする。彼が「食べる」ものは様々ではあるが、彼がその願望と釣り合うと認めたものでなくてはならない。彼が「食べる」ものを提示して、そうしてそれを相手が認めれば契約は成立。彼は平らげ、ひとは望みを叶える――英から見れば、決して幸せにはなれそうにもない望みを。
 でも、私も同じなのかもしれない。英は軽く頭を抱えた。兄を生かすためなら何でもしようと思った……今でも思っている。そのせいであの性悪の悪魔に囚われてしまったとしても、そんなことは大したことではないと思った。結局は、私も他の人たちと同じ。自分の欲の為にあの悪魔を利用しているだけ――。
 はあ、と英は今宵何度めかのため息をついた。結局は考えても無駄なのだ。今更どうすることもできない――悪魔との契約は、守るより他ないのだから。

  ※

「七星」
 帰路につこうとしていた彼女に声を掛けてきたのは、緒方涼だった。……中学の頃に塾で知り合った、英が密かに好意を寄せていた――今でも多少は寄せているのかもしれない――男子生徒である。英は驚いて足を止めた。緒方君は違うクラスなのにどうしたのだろう、と思う。
「なに?」
「ちょっと話があるんだけど」
 友人たちが、廊下で立ち止まっている彼らふたりを意味深長な目つきで見ながら帰っていく。英は顔が赤くなっていないようにと祈りながら、緒方に尋ねた。
「話って? 学校のこととか?」
「いや、違う」
 ますます何の話だかわからない。英は眉を寄せた。
「……時間かかりそう?」
「多少」
「じゃあ、」
 と英は駅前のファーストフード店の名前を挙げた。
「そこで話す?」
「うん」
 緒方はあっさりと頷くと、彼女の隣を歩き始める。――何の話なんだろう。英はこっそりと緒方の横顔を盗み見るが、彼のクールな表情は何も語らない。
 そういえば緒方君と話すのも久しぶりだな、と英は思った。確か、前に喋ったのは……去年、へんな「おまじない」が流行った時だ。思い出して、英は顔を顰める。そう、確かあれも悪魔が関わっていたのだった。意中の人に好かれることができる分、誰かに嫌われる代償を払わされるという……あれは悪魔が「飽きた」と言い出して鎮静化したのだったか。あの時、緒方は「クラス委員だから、揉め事は面倒くさい」と言っていた。今回もまた何かそういったことがあったのだろうか。あの時と違って、英は悪魔から何も聞かされてはいないのだけど。
 他愛もない世間話をぽつりぽつりとしながら彼らは目的のファーストフード店に入った。緒方はハンバーガーのセットを、英はSサイズのポテトとドリンクだけを頼んだ。食べ過ぎると夕飯に差し支えてしまうし、何より太る。
「それで、話って何?」
 英はストローをカップの蓋に刺しながら尋ねた。冷たい炭酸ジュースを一口啜る。
「うん……」
 ハンバーガーの包み紙をごそごそと剥いていた緒方は、少し躊躇うように視線を揺らした。珍しい、と英は思う。割と緒方は何でもはきはきと口にする方だと思っていたのだが。
「七星、さあ」
「うん?」
「なんていうか……、その」
 緒方は意を決したように顔を上げた。くっきりとした大きな眼差しが、英を真正面から捕える。
「変なやつと、関わってない?」
「へ、へんなやつ?」
 それって悪魔のこと――とは聞けない。英は内心びくつきながら、鸚鵡返しに聞き返した。
「変なやつって、どういうこと? 不良さんとか?」
「いや、そういうんじゃなくて」
 緒方は彼女から目を逸らすことなく言葉を継いだ。
「呼び方は何でもいいんだけどさ――悪霊でも鬼でも悪魔でも、何でもいいんだ」
「…………」
「とにかく、そういうやつ。なんていうか、ちょっと常識では考えられないような、異常なことに巻き込まれてるんじゃないかって」
「…………」
 干上がった喉を潤すように、英は再度ストローを咥える。
 ――なんで。なんで緒方君がそのことを……? そもそも緒方君は何者なの? なんで私の近くに悪魔がいるってことを知ってるの? それを知って、どうするつもりなの? 無数のクエスチョンマークが脳裏に浮かび、そしてそれらに対して何ひとつ回答が出ないまま彼女の脳内を埋め尽くしていく。
「七星?」
 黙り込んだ彼女に、緒方が声を掛ける。英は渾身の自制心でもって、かろうじて笑みを浮かべてみせた。
「何言ってるの? いきなり、どうしたのよ」
「…………」
 緒方は、はあ、とため息をついた。
「うん、まあ……そうなるよね」
 何から話すべきかを迷うように少し時間を置いた後、彼はとつとつと語り始めた。
「うちの実家、かなり古い神社でね。まあ小さい神社ではあるんだけど、歴史だけは長くて……地域に密着しているっていうか」
「そ、そうなんだ」
 それは初耳だった。神社と悪魔……相性は良くなさそうだが、何か関係はあるのだろうか。英は曖昧な笑みを浮かべながら相槌を打つ。
「今の神職――神主は俺の父でね。その親父が、『最近気になることがある』って言い始めたのが、俺たちが高一の……秋くらいかな」
「…………」
 ――ちょうどその頃だ。英が悪魔と契約をしたのは。彼女は思わず沈黙して、緒方をじっと見返す。
「俺も正直、『そーいうこと』を信じる方じゃあなかったんだけど……」
 緒方は困ったように髪を掻いた。
「あんまり親父が気にするものだから、多少は協力しようと思っていろいろと調べてみたんだ」
「……調べたって、何を?」
「この辺、時々変な噂が流れてるって知ってる? 『何かと引き換えにして、悪魔が願いを叶えてくれる』っていうの」
「……聞いたことくらいは、あるかも」
 何も知らないというのも不自然かもしれない。実際、英はそれを何人かの口から聞いたこともある……英は考えを巡らせながら、注意深くそう答えた。
「SNSでもちらほらそういう話が出ていたんだよね」
 緒方は言いながら、ハンバーガーにかぶりついた。彼がそれを咀嚼して飲み込むまでの間、英はただ黙っていた。
「それらを手掛かりにしてか、少し前『悪魔祓い師』――エクソシストを名乗る男がこの街に来た」
「…………」
「名前は――まあいいや。その男は親父に会いに来て、『悪魔の存在を突き止め、それを祓う』と言って出掛けて行った。……戻って来なかったんだけどね」
「行方不明になっちゃったっていうの?」
 英は目を丸くする。「悪魔祓い師」――何となくその語感に聞き覚えがあるような気もするが、判然としない。どこか頭の中に靄が掛かったようで、思い出せなかった。「人が地上にある限り、悪魔はそこに棲むだろう」そう言っていたのは、あれはいったい誰だっただろうか……確か、ちょっと変わった名前の……駄目だ、思い出せない。
「そう。親父は、返り討ちにあったんじゃないかって言ってた」
「…………」
 だったら、と英は呟く。
「緒方君も関わらない方がいいんじゃないの。そんな、危ない相手なんだったらさ」
「……まあ、それももっともなんだけどね」
 緒方はハンバーガーを食べ終えると、セットのポテトへと手を伸ばした。
「でも……なんか、七星が巻き込まれてるっぽい気がするから」
「…………」
 ――それってどういう意味。英はその言葉を呑み込んだ。私のこと、心配してくれてるの。それってどうして。何か、理由があるの。……特別な、理由が。
 飄々とした緒方の顔からは、何も読み取ることができない。だが、彼女を見つめる緒方の顔は真剣そのものだった。
「七星。急にこんなこと言い出して、俺の頭がおかしくなったんじゃないかと疑う気持ちもわかる。でも、そうじゃない。……そうじゃないってことは、多分七星が一番よくわかってるだろ」
「…………」
 英は言葉に詰まった。
「俺……」
 緒方は言葉を切り、やがて意を決したように続けた。
「力になりたいんだよ。七星の」
「…………」
 英はただ黙って、緒方を見つめ返すことしかできない。
「だから、さ。もしその『悪魔』にまつわることに巻き込まれて困っているなら――」
「気に掛けてくれてありがと」
 英は緒方の言葉を遮った。
「でも、何にもないから」
「七星、」
「その、悪魔? とかいうのとも私、関わりないし」
 自然に笑えていますように、と祈りながら英は表情を作る。
「緒方君も、ほんと関わらない方がいいよ。ね? 私たちもう受験生なんだしさ」
「…………」
 緒方は黙って英を見ていたが、やがて深い深いため息をついた。
「七星……」
「何?」
「『そっち』につくつもりなのか?」
「……え?」
 英は思わず聞き返した。緒方は繰り返す。
「お前は、『悪魔』に味方するつもりなのか?」
「……何言ってんのよ」
 英は少し引きつった声で、それでも笑い飛ばして見せた。
「この変な話は聞かなかったことにするから。それじゃ」
 自分のぶんのトレイと鞄を持ち上げ、英は席を立った。
「…………」
 緒方が自分の後姿を見ている。その視線を痛いほどに感じながらも、英は一度も振り返らなかった。――振り返ることなど、できるはずがなかった。

  ※

 ファーストフード店を飛び出し、家に向かって早足で歩く。緒方が追ってくる様子を見せなかったことに、英は安堵していた。初夏の日差しのせいだけではない、いやな汗が背中を伝っていくのを感じる。
『困ったねえ、英ちゃん』
 耳元で聴こえるあざ笑うような声――「悪魔」の声だ。英はぎりと奥歯を噛み締める。
『彼、あれで諦めてくれるかな? 食い下がられると、ちょっと面倒だよね』
「彼に手を出したら神主とかいうお父さんも出てきて、余計に厄介なことになるんじゃないの」
 英はぼそぼそと呟いた。どうせ「彼」は見ていると思っていた。今更覗き見されたことに怒っても仕方がない。
『君としては、彼の好意を無駄にするのもなかなか心苦しいんじゃないかい? どう?』
 ――だって、どう考えても彼は君に惚れているんだよ。多少のリスクを冒すことも厭わないくらいにね……そうだろう?
「…………」
 声だけでなく姿がここにあったなら、とりあえず一発ぶん殴るのに――と英は苛立つ。彼女の一発など何の効果もないだろうが、彼女の気は少し晴れるだろう。それで十分だ。
「それは……仕方ない」
 英は呟いた。
「私は確かにとんでもないことをしたんだわ」
 兄を助けたい。その一心で、彼女は悪魔と契約した。だが、彼女のやったことはひとの寿命を捻じ曲げるということ……運命を変えるということ。本来神ならぬ身にはどうすることもできないはずの、ひとの生死を書き換えるということ。毎日、毎時、毎秒ひとは死ぬ。それをすべてなかったことにすれば、一体どれほどの混乱が世界に起きるだろうか。それならたったひとりなら、きっとそういう問題ではない。彼女が兄を「死ななかったこと」にしたこと、それ世界にどんな影響をもたらすのか、もしくは既にもたらしているのか、英は考えないようにしていた。考えたくもなかった。だが、彼女のどこか冷静な部分が常に囁いている――私は取り返しのつかないことをしてしまったんだ、と。この悪魔に振り回されているのは、その代償だ。……きっと、本来軽すぎるくらいの。
 ――私には、誰かに好かれたり、誰かを好きになったりする権利なんて、もうないんだ。
 そう思った瞬間、鼻の奥がつんとした……いけない、このままだと涙が出てしまう。ぐっと歯を食いしばって耐えようとする。だが、一度緩んだ涙腺はそうそう元には戻らなかった。瞼の縁に盛り上がった涙が、ぽろりと頬に零れ落ちそうになる――
「英ちゃん」
 とん、と彼女の体が何かにぶつかった。慌てて顔を上げると、そこには見慣れた顔――悪魔の顔。
 櫟原が、彼女を優しく抱き留めていた。
「な……!」
 慌てて飛び退こうとする彼女を捕まえて、櫟原は微笑む。
「大丈夫だよ、英ちゃん」
「な、なにが」
 櫟原の指が、彼女の涙をそっと拭い取った。

「君の罪ごと、僕が君を食べてあげるから――」

 その甘美な響きに、英はぞくりと身を震わせた。
「…………」
 目を見開いて、櫟原を見上げる。櫟原の細めた瞳に、彼女の姿は映っていなかった。だから――彼女にはわからなかった。その時、自分がどんな表情をしていたのか。知る由もなかった。
 ――そして。
「さて……、しばらく食事は控えておくかな」
 ぽつりと呟かれたその言葉も、英の耳には届かなかった。