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第十五話 ナナセハル

 数年前――。
 七星(はる)はふらふらと歩いていた。俯き加減の彼の顔を覗き込むものがいたら、ぎょっとしたかもしれない――彼はぼろぼろと涙をこぼしながら歩いているのだった。何度も涙や鼻水を拭ったせいか、その学生服の袖口は既に湿りけを帯びているせいだった。
「う、うう……」
 時に、こらえきれない嗚咽が漏れる。かろうじて人の耳には届かない程度の声である。陽はそのままよろけるように歩いていたが、やがて路地裏の一角で足を止めた。耐えられなくなったように、壁に背をつけてずるずると座り込む。
「……なんで、英が」
 食いしばった歯の間から、ぽつりと呟く。
「なんで……なんで……」
「大丈夫ですか?」
 不意に頭上から声を掛けられて、陽ははっと顔を上げた。夕陽を背にして佇んでいたのは、はっとするほど整った顔の――どこか不気味なくらいに――男だった。年は彼よりも少し上だろうか。見覚えのない顔だった。このような男、一度見たら忘れるはずがない。
「い、いや……」
 陽は曖昧に誤魔化してその場を離れようとした。男は白いシャツに黒いスラックス、カフェエプロンを身に着けている。近所の店のひとなのかもしれない。迷惑を掛けるわけには……。
「何か、お困りのことがあるのでは?」
「…………」
 だが、その言葉に陽の体はぴくりと反応した。
「もしかしたら」
 とろりと垂れる蜜のように、男の言葉が彼の耳朶に入り込む。
「僕が、貴方の力になれるかもしれませんよ――」
「…………」
 陽は引きつった顔で男を見つめた。男は相変わらず非の打ちどころのない笑みを浮かべて彼を眺めている。
「…………」
 声の出ない陽に、男は訳知り顔で頷いた。
「良かったら、お茶でも。そこに僕の店があるんです――『ロンド』っていうんですけどね」
「…………」
 ――それが、七星陽と櫟原の出逢いだった。

  ※

 その寂れた喫茶店「ロンド」に、他の客の姿はなかった。こんなところに喫茶店があったとは知らなかったな、と陽は思う。たとえ知っていたとしても、わざわざ訪れることはなかっただろうが。
 陽の前にホットコーヒーを淹れて、男はカウンター越しに微笑んでみせた。
「それで? 何があったって言うんです?」
「…………」
 陽はコーヒーにも手を付けず、じっと俯いていた。
「……妹が」
 その言葉を口にするだけで、またじわりと涙が滲む。俺はこんなに涙もろかっただろうか、と自分でも不思議になるほど涙が湧き出てきてどうしようもないのだった。
「妹が……難病って診断されて」
 男はただ黙って彼の声に耳を傾けている――少なくとも、彼にはそう見えた。
「それで……このままだと、どう治療しても、……っ」
 言葉に詰まる。それでも、陽は途切れ途切れに続けた。
「二三年くらいしか……、もたないって……」
「……そうでしたか」
 陽は肘をつき、顔を両手で覆った。
「お、俺が……代われるもんなら……っ、代わってやりた……!」
「――なるほど」
 不意に、男の声が大きく、深く響いた。
 陽は思わず息をするのも忘れて、男を見上げる。
 男は微笑んでいる――出逢った時からずっと変わらず、彼は微笑んでいる。その瞳は、奇妙に赤く光っていた。
「その貴方の望み、叶えて差し上げましょうか――?」
「え……?」
 陽は聞き返す。
「それ、どういう……」
「貴方の妹さんの寿命を貴方と入れ替えて差し上げましょうか、と言っているんですよ」
「そんなことができるのか!」
 陽は椅子を蹴立てる勢いで立ち上がった。コーヒーカップが倒れて中身がひどくこぼれたが、今の陽にはそんなことは大した問題ではなかった。
「妹を……英を助けられるのか……!」
「その代わり」
 男はすらりとした人差し指で、陽を指差す。
「貴方は二三年後……つまり、本来の妹さんの寿命と同時期に亡くなってしまいます。それが病気によるものか、事故によるものになるかはわかりません。同じ死に方とは限らないのでね」
「……本当にそれが可能だっていうなら」
 陽はごくりと唾を呑んだ。
「やらない理由はない――」
「よくよく考えて下さいね?」
 男は優しげに言う。
「言っておきますが、これは『悪魔』との取引です。『代償』だって必要だ」
「『代償』?」
 陽は顔を上げた。血の気の引いた蒼白な顔であったが、そこに既に涙はなかった。妙にぎらぎらとした光が陽の両目に宿っている。それを見て、男は密かにほくそ笑んだ。
「そう――『代償』です」
「何を払えばいい?!」
 陽は男に掴みかからんばかりの勢いで尋ねた。
「何をあんたに支払えば、妹は助かるんだ……?!」
「……そうですね」
 男はちろりと舌を覗かせ、唇の端を舐めた。
「君たち兄妹を、僕の依り代にさせてもらおうかな?」
「? ……どういうことだ」
 眉を寄せる陽に、男は説明した。
「お察しでしょうが、僕は普通の人間ではありません――貴方がたの言うところの『悪魔』というやつです。人間の悪しき心、身勝手な欲望、そういった(おり)のようなものが溜まり、堆積して……やがてそれらが力を得て、『悪魔』として具現化する」
「…………」
 正直、男の言うことはよくわからなかった。だが、陽は黙って先を聞く。
「僕らが存在し続ける為には、ひとの『悪』を喰らい続けなければならない。そうして、ひとに認識され続ける必要がある。だから、ひとと関りが持てず、ひとの世に忘れ去られてしまえば、僕ら『悪魔』はいつしか消えてしまうことになるのですよ」
「……よくわからんが」
 陽は髪を掻きながら言った。朧げな記憶を元に呟く。
「あれか? 聖書かなんかで、ずっと無視し続けていたら悪魔は去っていったとか、そういうやつか……?」
「……まあ、そういう理解でもいいでしょう。人間に無視されてしまうと、僕らは弱い。……まあ、僕らの誘惑を無視できる人間はなかなかいないのですけど」
 男は笑った。
「つまり。君たち兄妹は死ぬまで、僕から離れることはできない。二三年後君が先に死んでも、僕は妹さんの側を離れません。妹さんに認識し続けていてもらえれば、それを通じでひとの世と関わることができる。ひとの世と関わってさえいれば、どうせ僕らの喰らうべき『悪』はいくらでも湧いてくるんですから」
「……『悪』、か」
 陽はぽつりと言った。
「そうだよな……俺がここで勝手なことをするのも、『悪』なんだよな……」
 三歳下の妹、英の顔を思い浮かべる。幼い頃のふくふくとした顔……お兄ちゃんお兄ちゃんと慕ってくる顔。最近では時々口の悪いこともあるが、それでもいつだって彼らは世界でたったふたりの兄妹だった。いわゆる反抗期という時期だって、英はさほど陽につらくあたったりはしなかった。両親が多忙だったこともあってか、彼らはいつだって仲の良い兄妹だった……。
「まあ、本来生命の寿命を勝手に弄ることは良しとはされていませんからね」
 男はあっけらかんと言う。
「だからこそ、ひとは僕らのようなものに縋るわけですけれど」
「…………」
 ――この話を聞いてしまった以上、やらないという選択肢は陽にはなかった。妹はこんな取引のことを聞いたらきっと怒るだろう。自分の代わりに兄が早く死ぬなんて……でも。
 陽は思わず笑みを零した。
「もし、あいつと俺が反対の立場だったら」
 妹は――英は。
「同じことをすると思うんだよ、きっと」
「……では」
 男は手を広げる。
「契約は成立ということでよろしいですか?」
「…………」
 一生悪魔に付きまとわれる羽目になる英には悪いけれど、それでも。二三年のうちに死んでしまうよりはずっとましだと思うから。
 ――勝手なことをしてごめん。
 陽は拳を握り締める。
 ――父さん。母さん。英。ごめん。
「それでも……それでも、俺は」
 陽は呟く。
「英を、助けたい」
「承知しました」
 男の声が高らかに響く。
「七星陽。貴方の残りの寿命と、妹さんの寿命とを入れ替えて差し上げましょう。その代わり、貴方たち兄妹は生涯僕の依り代となることからは逃れられない。……貴方の死後も、ずっと」
「……わかった」
「妹さんの病気はなかったことになります。世界中の誰にとっても、最初からそんなものはなかったという認識になる」
「うん」
「それから――ひとつ選んで頂きたいことが」
「なんだ?」
 陽は尋ねた。男は人差し指を軽く左右に振った。
「この契約のことを、貴方自身が忘れてしまうこともできます。覚えておくこともできる。どうしたいですか?」
 まあ、おすすめは忘れてしまう方ですけれど、と男は付け加えた。
「もし忘れることを選んだなら、僕と貴方との出会いはもっと自然なものに演出され、書き換えられます。覚えておきたければ覚えておくこともできますが……二三年後の死を意識しながら生きるのは、なかなかにしんどいかもしれませんね? それに」
「……英に勘付かれる可能性もある」
 陽はぼそりと言った。時々あいつ、妙に勘がいいから。
「さあ、どうしますか?」
「……忘れさせてくれ」
 陽は言った。
「後悔したくないんだ。この決断のことを。後悔する自分に、呆れたくない。絶望したくない」
 死が近づくにつれて、後悔がよぎるかもしれない。妹を助けるために自分を犠牲にすることを、後悔してしまうかもしれない。そんな自分を、見たくない。
「そうですか? その絶望もなかなか美味しそうではありますが……」
「もういいだろ。代償はちゃんとやるんだ」
 妹の生命を助けて、その妹を悪魔に差し出す。それが本当に正しい選択なのか、陽にはわからない。だが二三年後に彼が死んで、その何十年か後に英が亡くなって――そして死後の世界で彼女と再会することができたなら、その時はいくらでも抗議を聞いてやろう。そのくらいの覚悟はしておく。
「では契約成立ですね、七星陽」
 男はほっそりと指の長い手を陽に差し出してきた。
「短い間にはなりますが――どうぞよろしく」
 その手を握り返したところで、陽の意識は暗転したのだった……。

  ※

「ねえ、櫟原さん」
「なんだい?」
 英は日頃の定位置とは違い、カウンターに突っ伏している。クーラーの効いた「ロンド」の中は涼しいが、それでもまだ外を歩いてきた英の汗は引いていないようだった。その彼女の顔の横に、櫟原はアイスカフェラテを置く。
「お兄ちゃんの寿命って、どうなってるの」
「……え?」
 櫟原は意外そうに聞き返す。その反応が珍しくて、英は思わず笑みを浮かべた。
「ほら。あの時、例の事故をなかったことにしたじゃない」
「ああ……」
 櫟原は得心したように頷く。
「さあね、あの時死ぬはずだった陽は死ななかった――そういうことになった。じゃあ、その後はどうなるのか……彼の寿命がどれくらい伸びたのか。それは僕にもわからないな」
「ひとの寿命とか、勝手に見えるもんじゃないんだ」
「別に見えたって僕に何の得もないしね。見て欲しいのかい?」
「いいよ。どうせまた『代償』がいるんでしょ」
「ご明察」
 櫟原は俯せた英の髪をくしゃくしゃと撫でた。英は鬱陶しそうにそれを避ける。
「汗かいてんのに、べたべたしないで」
「汗かいてなければいいの?」
「そういうわけじゃなくて……ああもう」
 英は体を起こし、カフェラテをひとくち啜った。氷がからからと音を立てる。
「お兄ちゃんは、残りの人生普通に生きて、普通に死ぬのよね?」
 そもそもなぜ兄が悪魔と友人だったのか、そこはどうにも不思議なところではあるのだが……陽に向かって問いただすわけにもいかないし、櫟原に尋ねたところでまともな回答が得られるとも思えない。
「まあ、その残りの人生がどれくらいあるかは僕にもわからないけど、そういうことになるね」
 櫟原は肩をすくめた。
「じゃあ、私の寿命は……」
 言いかけて、英は口を噤んだ。
「いいや。聞いても仕方ないもの」
「何にせよ、僕のものであることに違いはないからねえ」
 にやにやと笑う櫟原の顔が、英には気に食わない。
「もし私が先に死んだら、お兄ちゃんはどうにかなっちゃったりするの?」
「別に君が死んだからといって契約がなかったことになるわけじゃないからね。陽は普通に人生を歩むんだと思うよ」
 ――あの時彼の人生はリセットされているから、と櫟原はよくわからないことを付け加える。だが、英はその部分を聞いていなかった。
「そう……」
 良かった、と英は呟いた。

 私は私のわがままで悪魔と契約した――そうして、あの時事故で命を落とすはずだった兄の寿命を書き換えてしまった。
 そのせいで私はこの性悪の悪魔と離れられなくなってしまったわけだけど、まあそれはいい。仕方がない。

「後悔なんてしてやらないんだから」
 英は呟いて、またカフェラテを呑む。櫟原の作るドリンクは、いつだって腹立たしいほどに美味しい。
「ふふ」
 櫟原はその形の良い唇に、ひとの悪い笑みを浮かべた。

「ひとはその『欲望』から逃れることはできない」
 何かを「代償」にしてでも、それを手に入れる術が目の前にあったなら、つい手を伸ばしてしまう――それがひとの(さが)だ。
「だからこそ、『悪魔(ぼくら)』が存在し続けられる……」
 櫟原はストローを咥えた英の唇を、そうっと指先でなぞった。英は驚いたように目を見開き、凍り付いている。
「そんなひとの悪しき性が、僕らはたまらなく好きなのさ」
「何言って……!」
 気を取り直したように声を上げ、英は櫟原の手を押しのける。だが、櫟原は構わず身を乗り出した。耳元に唇を寄せて、囁く。
「君たち兄妹が、僕はとても好きだよ」
「……悪魔にそんなこと言われて、うれしいわけないでしょ」
 呻くように英が呟く。櫟原はそれを聞いて笑い声を立てた。
「そう?」
「そうよ!」
 言い切る英に、櫟原は言う。
「だとしても、君は僕から離れられない」
「…………」
「これからも、ずっと――君は僕の側でひとを見続けるんだ。欲に侵され、その身に余ると知りながらも代償を差し出さずにはおられない、そんなひとの姿をね」
「……わかってる」
 英は言った。今までも何人も見てきた――様々な願いを口にして、代償を奪われたひとびとの姿。そうやって悪魔に喰われたひとびとが不幸なのか、それとも幸せなのか。そのうちのひとりである英自身にも、よくわからない。よくわからないが……そうやって見届けることが、悪魔に丸ごと喰われてしまった彼女の生きる意味なのだとしたら。彼女は、それを全うするより他にない。その怒りを、悲しみを、焦りを、絶望を。ただ見続けるより他にない……。

「結局のところ、あんたって……」
「うん?」
 続きを口にしない英に、櫟原は先を促した。
「なんだい?」
「……何でもない」

 ――きっと、(ひと)があんたから離れられないように、悪魔(あんた)は私から離れられないのよね。

「まあいいや……」
 言葉を濁した英から先を聞き出すのを早々に諦めた櫟原は、身を屈めて英の前髪をかき上げ、あらわな額にキスをひとつ落とした。
「これからもよろしくね、英ちゃん」
 ――最初から、君は僕のものになるはずだったんだから。
 その言葉は、英には決して届くことのないもの。
 櫟原はその赤い光の宿った目をすうっと細める。
「……輪舞曲(ロンド)はひとりじゃ踊れない」
 英の存在は、彼の食事にとっては極上のスパイス。
 悪魔(かれ)悪魔(かれ)なりに、目の前に座る己の獲物に満足しているのであった――。