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第十二話 エモトヒロカズ

 まずい、と七星英は思った。かなりまずい。一体どうしてこんなことになってしまったのだろう――自問するように思い浮かべて、そんなことは考えるまでもなかった、と思い直した。すべての原因はさびれた喫茶店のカウンターの中にいるその男、いや正確には悪魔なのだが、櫟原である。
「だからさあ、僕は噂を聞いたわけなんだよ。ね?」
 先ほどからカウンター越しにねちっこくその櫟原に喋りかけている男――もしかしたら名乗っていたかもしれないが、英は覚えていなかった。良く思い返すと、彼女が帰宅途中にこの店に立ち寄る前から、既に彼がいたような気もする。そもそも英がこの喫茶店、「ロンド」に足を向けたきっかけはこの櫟原からの呼び出しだから、やはり事態はすべてこの男の手中にあるのだろう。

 ごく普通の女子高生であった彼女、七星英が人間界に潜む悪魔こと櫟原の眷属とされてしまったのは、彼女の兄である陽の命を救うためだった。彼女は大多数の日本人と同じく消極的な無神論者――つまり、年末年始のわずか十日ほどの間にクリスマスを祝い、除夜の鐘をつき、初詣に向かう節操のなさを持ち合わせているという意味で――だが、悪魔と契約してひとの寿命を捻じ曲げるなど、決して許されることではないことくらい理解できる。許さないのが神だか仏だか、そのあたりの概念は曖昧だが。
 そもそも何故この街に悪魔が巣食っているのか、悪魔とは何なのか、何故そんなものが存在しているのか。考え出すときりがないし、いくつかの疑問は思い切って直接櫟原にぶつけたこともあるのだが、いつものらりくらりとかわされるばかりで回答らしい回答を引き出せた試しがないのだった。さすがは悪魔である。
 だが――いずれにせよ、彼の力で陽が生かされているということに代わりはない。そういうわけで、英はこの忌々しい悪魔から逃れられない宿命を背負ってしまったのだった。
 さて、と英は目の前のカフェラテを一口飲んだ。そろそろ櫟原との不本意な付き合いも一年になろうかとしている。多少は櫟原の考えが読めるようになっている――つもりである。
 櫟原が英を呼び出すのは、大抵彼が誰かと契約を結ぶときだ。彼は依頼者の願いを叶える代わり、そのひとの何かを――それは心の一部であったり、あるいは体の機能であったり、さまざまであった――喰らう。その、喰らわれることを選ぶ人物の行く末を英に見せつけるのが、どうも櫟原は楽しいらしい。悪趣味だと毒づいても、悪魔ですから、と全く堪えなかった。悪魔は本当に厄介だ。
 櫟原はさまざまな願いを叶え、そしてさまざまなものを喰らった――英の目には、誰ひとりとして望んだ幸せを手に入れているようには見えなかった。余計なお世話かもしれないけれど、やめておいた方が良かったのに、と彼女は思った。
 しかし、それは彼女も同じことなのかもしれない。
 他人の目から見れば、事故死するはずであった兄の生命を救うために悪魔の眷属に身を落とすなど、馬鹿げているように見えるかも――
 いや、そんなことはない。英は強く思う。誰が何と言ったって、私は後悔していない。あの悪魔の気まぐれに付き合うくらいで済むのなら、いくらでも付き合ってやる。そのくらいの価値は、私の兄には十分存在する。
 私以外のひとたちも、みんなそう思っているのだろうか。誰も後悔していないのだろうか――もしそうだとしたら、私の憐れみや憤りなんて勝手なものだ……。

「君は知ってるんだろう? この店が悪魔への窓口になっているって、僕は確かに聞いたんだから」

「…………」
 英は男の声からできるだけ意識を逸らすようにしていたが、それも限界だった。
 ――ほら、だからまずいのよ。
「一体どなたからそのような噂を」
「誰ってこともないさ。ネットだからねえ」
 わざとらしく苦笑を浮かべる櫟原に、男は懐から携帯端末を取り出して慌ただしく操作し始めた。
「あれ、どこだったかな……ブックマークしておいたんだけど……」
「まあ、それはともかく」
 櫟原がその怜悧な双眸をあやしく眇めた。その奥に点灯する赤い瞬きに、英は頭を抱えたくなる。
 櫟原はこの男を獲物と定めている――間違いない。
「良かったら、僕がお話だけでも聞きましょうか。何かお悩みがあって、そんな噂にすがっておられるのでしょう?」
「悩みっていうか……まあ、そうだな」
 英の座るテーブル席は、ちょうど男の右斜め後ろにある。そもそも、男は英の存在に気付いているのだろうか。
 男は三十を少し過ぎているだろう、中肉中背、特に目立つところのない風貌だった。気にかかるといえば、どうも粘着質な、それでいてせかせかとした落ち着かない口調。この平日の夕刻に、しかもスーツ姿でもなく、ラフな格好である。まあ、いろんな仕事の形態があるから……と英は思った。もしかしたらたまたま今日が休みなのかもしれないし、それとも勤務時間がシフト制なのかもしれない。英の高校はバイトが原則禁止されているからあまりそういったことに詳しくはないが、その程度は想像できる。
「好きな人がいるんだ」
 男はどこか陶然と語り始めた――。

  ※

 男の名は柄本(えもと)尋和(ひろかず)という。
 彼が彼女と出逢ったのは、三か月ほど前のこと。彼の勤めているコンビニエンスストアに、客として来店したのだという。
「スーツ姿だった。本当にきれいな人で、長い黒髪が清楚で、声もおしとやかで……」
 その女性に賛辞を送り続ける柄本の頬は遠目にも明らかに紅潮している。
「ひとめぼれだった、というわけですか」
「そうだよ。彼女はいつも早朝に現れるから、できるだけそこにシフトに入るようにした。内緒だけど、カードから名前も覚えたんだ……もちろん、悪用などしていないし、カタカナしかわからないから、漢字もわからないけど」
 うわ、と英は思った。自分が誰かにひとめぼれされるようなタイプだとは思わないが、蓼食う虫も好き好きという言葉もある、気を付けよう。
「シラカワ ハナ……っていうんだよ。名前まで完璧だよね」
「ハナさん……ですか」
「うん。朝、いつもカフェオレとサンドイッチ……それからちょっとしたチョコレート菓子なんかを買っていくんだよね。たまに公共料金の支払いをすることもあってさ、僕どきどきしちゃったよ」
 なんで、と英は思った。水道料金やガス代に興奮するとでもいうのだろうか……? 柄本の考えはわからない。
「少額だから一人暮らしだと思うし、指輪を付けているのも見たことがないから、彼氏だっていないんじゃないかと思うんだ」
 ――怖い。英はぞっと身を震わせた。よかった。ホットのカフェラテにしておいて、本当によかった。
「お話したことは?」
「ないよ――コンビニ店員と客としてのやりとり、それだけ」
「そうですか」
「だって、変なことをしてくびになったら……困るし」
 急にトーンダウンした柄本は、がくりと肩を落とした。
「彼女、きっと正社員なんだ……毎日きちんと通勤しているし、僕みたいなバイトとは違う」
「そうとは限らないのでは」
「たとえそうじゃなかったとしても!」
 柄本は不意に声を荒げた。
「見てわかるだろ、この顔だよ! 女にモテるわけがない」
「…………」
 前にもこんなことを言っていたひとがいたな、と英は妙に冷めた気持ちで思い出した。確か、陽の友人で――そして櫟原に喰われた男。
「でも、このままじゃどうしたって彼女は手に入らない。いつか、イケメンの、高収入の男が現れてかっさらわれてしまうんだよ。僕の方がそいつよりずっと前から……ずっとずっと好きだったのに!」
 いやいやいや。英は思わず柄本を凝視した。あんた、そのひとの何を知ってるっていうの。あんた、ただのストーカー一歩手前、いや、もう中身は立派なストーカーよ、ストーカー。
 だが、英に彼らの間に割って入ることはできない。それは彼女に許されてはいない。
「それで、悪魔をお探しに?」
 やさしく、それでいて凍てつくようなひややかさで、櫟原が尋ねた。
 英は思う。

 引き返すなら、いまだ。

 だが、英は知っている――ここで引き返したものなど、誰もいないのだということを。
「そうだよ!」
 男は身を乗り出して櫟原に迫った。
「僕は、彼女に好かれたい――好きになって欲しい!」
「その代わり、」
 と櫟原が囁いた。文字通りの、悪魔の囁きだった。
「二度と、他の誰にも好きになってもらえないとしても?」
「構わない!」
 ――彼女に愛してもらえるのなら、他の女なんていらない。
「…………」
 ――ちょっと待ってよ。
 英は立ち上がろうとした、しかし動けなかった。どうせこれも櫟原の仕業だろう、かろうじて動く首をひねってぎりりと櫟原を睨む。櫟原は済ました顔で彼女に片目を瞑ってみせた――その美貌が、限りなく腹立たしい。
 いくら何でもそれってどうなの、と英は憤った。柄本が悪魔と契約してその人生を破綻させるのは、彼の勝手である。しかし、相手のシラ……シラ何とかハナさんは、巻き込まれるだけいい迷惑ではないか。家族でも友人でも、そもそも知人でもない彼女にそんな迷惑を掛けて許されるのか。悪魔に倫理を振りかざすなど笑われるだけかもしれないが、それでもやはり彼女は憤らずにはいられなかった。
 そんなのおかしいでしょ、と声にならない声で叫ぶ。好きになって欲しいなら、その努力をしなさいよ。コンビニ店員と客の恋、絶対に成り立たないってものでもないでしょ。そういうカップルだって世間にはいる、多分、そのはず。
「なるほど、では契約しましょうか」
 英の憤りをよそに、櫟原は淡々と話を進める。柄本の顔がぱっと輝いた。
「じゃあ、あんたやっぱり……!」
「貴方は、彼女に好きになってもらえる」
 櫟原は柄本を遮り、言葉を続けた。
「ただし、貴方がこれから先の人生で他の誰かに愛される可能性――それを、僕は喰わせていただきます。いいですね?」
「わかった!」
 ――何かが引っかかる。英は思った。何か……何かがおかしい。きっと、このひとはこのままじゃ不幸になる。櫟原は、最初から彼らの幸せなど願っていないのだから……。
「契約しよう!」
 だが柄本は高らかに宣言し、英の懸念が実を結ぶ機会は永遠に失われてしまったのだった。

  ※

 柄本が去った後、英は大きくため息をついた。ようやく体が自由に動かせるようになったのである。
「ねえ、ひどくない?」
 英は早速櫟原に尋ねた。
「女の人の方、巻き込まれていい迷惑じゃん……」
「この後どうなるかは、見てのお楽しみでしょ」
 櫟原はうっすらと笑う。英は再度深々とため息をついて、そして別のことを言った。
「じゃあさ――あの、柄本っていうひと。ここを出て、言い触らさないかな」
 ただでさえ噂がどうとか、ネットがとか言っていた男だ。喫茶店「ロンド」に行けば願いが叶うと、そこかしこで吹聴して回るのではないか――しかし、櫟原はあっさり否定した。
「ああ、それなら心配ないよ」
「なんで?」
「ここを出たら、彼は僕とこの店のことは忘れてしまうからね。悪魔と交わした契約のことは、ちゃんと覚えておいてもらうけど」
「そういうものなの……?」
「そう」
「ネットで噂を見たって、本当?」
「さあ、どうだろうね」
 櫟原は煙に撒くように言い、おかわりは、と英に尋ねた。いつの間にか冷え切ってしまっていた残りのカフェラテを飲み干し、英はおそるおそる言ってみる。
「あったかいお茶が飲みたいんだけど……」
「いいよ、入れてあげる」
「…………」
 バイトが悪魔でさえなければ、いい店なんだけど。寂れた店内を見回し、英はもう何度めかわからない溜め息をついた。幸せが逃げたってかまうものか、どうせ悪魔にかどわかされた身だ。
 神様になんて、とっくに見放されているに決まっている。

  ※

 ――それから二週間ほど経ったある日のこと。
 その日は櫟原に呼ばれたわけでもなく、英はふらりとロンドに向かった。いつだってひとけのないその店内は、彼女が宿題を済ませるのにちょうどいい穴場なのだ。共働きの両親の帰宅はいつも遅く、がらんとした家にひとり早々に帰るのもおもしろくない――兄でもいれば、話は別なのだが。
 しかし、その日にもロンドには先客がいた。柄本ではなく、若い女性の三人組である。そのうちの一人を見て、英ははっとした。長い黒髪、清楚な美貌、かっちりとしたスーツ姿のそのひとは、もしかして……。
 三人は英が店に入ってきたことにも気付かず、会話に花を咲かせている。英に盗み聞きの趣味はないのだが、狭い店内でのことである、ほぼ筒抜けだった。
「でも、何とか諦めてもらえてよかったね、ハナ」
「うん、そうね。ありがと」
「ハナが急にコンビニ店員さんとデートすることにしたって言い出したときはどうしたのかと思ったわよ」
 ――やはりそうだ。英は確信する。あのほっそりとした美しい女性が、柄本のひとめぼれした相手……うん、そりゃああれは高嶺の花ってやつよ、普通。
「一生懸命働いている姿は、確かに好きだったんだけどねえ……」
 ハナは眉尻を下げて、ほうっと吐息を漏らした。
「実際よく付き合ってみないとわからないことってあるじゃない?」
「まあねー」
「でも、だいぶひどかったんでしょ?」
「というより……全然合わなかったのよね、私たち」
 ハナは少し言葉を選ぶように視線を宙にさまよわせると、ぽつりと言った。

「好きで居続けることは、できなかったみたい」

 ――あ。
 英は目を見開いた。
 そう、櫟原は柄本に言っていた――「貴方は、彼女に好きになってもらえる」と。
 しかし「ずっと好かれたままでいられる」「一生愛される」などとは決して口にはしなかった。
 彼女は柄本を一度は好きになった。そして、どういったやりとりがあったのかはわからないが、デートするところまではこぎつけた。
 だが、そこまでだった。
 彼女は柄本のどこかしらに幻滅し、好きではなくなってしまった。
 それ自体はよくあることだ――人間誰しも、一度好きになった相手を永遠に好きでいられるわけではない。好きで居続けてもらうには、それなりの努力と相性、そして何より相手への愛情が必要だ。それらのうちのどれか、もしくはすべてが、柄本には足りなかった。そういうことなのだ。
 問題は――櫟原に喰われたもののこと。英はそれを思い出す――「二度と、他の誰にも好きになってもらえないとしても?」
 英は、うっ、と呻いて口に手を当てた。
 何ということだろう。柄本は、二度と他の誰にも愛されない……いくら誰かを愛しても、それが報われることは決してないというのだ。何という寂しい、そして辛い人生が彼を待ち受けているのだろう……。
 確かに、柄本は自分勝手な願いを抱き、それに見知らぬ女性を巻き込もうとした。だが、その代償の重さときたら。彼は過ちを犯したが、けっして償いきれないようなものではなかった、そのはずなのに。
 きっと、彼は悔いているだろう。悔いきれぬほど悔いているに違いない。その絶望、その慟哭、その憔悴。ああ、櫟原はそれらをこそ好み、喰らっているのだ。だからこそ、わざとその代償を彼に選ばせた。
 英は慄然として櫟原を見た。ニイッ、と彼の唇が吊り上がる。いやに鋭い犬歯のようなものが、ちらりと赤い唇の中に覗いた。

 ――そう、僕は君のその顔が見たいんだよ。

 ゆっくりと近付いてきた櫟原が、凍り付いたままの英の前にそっと湯呑みを置く。
「そう簡単に、凍えてもらっては困るからね」
 囁いた櫟原は、女性らのオーダーに応えるべく英を残して立ち去っていった……。