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第十一話 ツキムネシュウ

「ねえ君、このあたりで悪魔にまつわる噂って聞いたことない?」
 高校からの帰路、七星英にふいに声を掛けてきたのは、一見普通のサラリーマン然とした、いかにも善人風な男であった。
 ――知らない人に声を掛けられても立ち止まってはいけません。話を聞いてはいけません。走って人通りの多い方角に逃げるか、大声を上げて助けを求めましょう。
 幼い頃から何度となく言い聞かされてきたその教訓を脳裏に浮かべながら、英はくるりと回れ右をする。
「ちょっとっ……!」
 背後で抗議の声を上げる男を放置して、彼女は全速力でその場を後にした。

 七星英は女子高生である。本人は至って普通の、どちらかといえば真面目で地味な生徒のつもりだ。彼女が不運だったのはいつの間にか兄に悪魔の友人ができていて、しかもやむにやまれぬ事情でその悪魔と契約を結ぶに至ってしまったこと。悪魔、というのは何も比喩表現ではない。そのものずばりの、悪魔である。
 妙な男から逃げ去った英は、ある程度走ったところで足を止めた。おそるおそる背後を振り返るが、誰かが着いてきている様子はない。上がった息を整えながら、ふう、と肩から力を抜いた。
「……なんとか撒けた、かな」
「いきなり逃げることないだろう?」
「ひえっ」
 英は飛び上がった。おそるおそる振り向く――
「やあ」
 先程振り向いた時には確かにいなかったのに。男は人畜無害そうな笑みを浮かべ、英を見下ろす。中肉中背、地味なスーツに地味な眼鏡。三日後に見掛けても気付かないかもしれない、没個性的な風貌だった。
「ふ、」
 英は後退りながら言った。
「不審者!!」
「不審者?」
 男は心外そうに片眉を上げる。
「まさか。僕はただ、少し尋ねたいことがあるだけで」
「聞きたいなら屈強なオッサンとかにしなさいよ! 女子高生に声掛けて怪しまれないと思ってんの?!」
 自意識過剰と言われたって構うものか、英は全身から警戒を顕にして男を睨み上げた。
「うーん、まあそれもそうなんだけど」
 男はぽりぽりと頬をかく。
「どうも、噂は女子高生を中心に回っているらしいからなあ」
「噂?」
 ――そういえばまともに聞いていなかったのだが、さっきもこの男は噂がどうとか……。
「そう」
 男は頷き、言った。
「悪魔にまつわる噂――だよ」
「…………」
 英は一瞬言葉に詰まり、そうして呆れたように肩をそびやかす。
「なにそれ? 悪魔? 悪魔みたいなやつってこと?」
「ううん……」
「とにかく、私は良くわかんないし、急いでるから――それじゃ」
 一方的にまくしたて、男に背を向ける。
「おかしいなあ」
 一歩踏み出そうとしたところで、男の声がした。独り言のようでいてそうではない。明らかに、英に聞かせようとして呟かれたものだ。
「僕が声を掛けた子は、みんな何かしら噂を聞いたことあるって言っていたんだよね――」
 早くここから立ち去ったほうがいい。そう思うのに、英の脚はぴたりと止まってしまって動かない。
「何かと引き換えに、ひとの願いを叶えてくれる悪魔の話。この辺りじゃ結構有名らしいのに、何故君だけは知らなかったのかなあ」
「さあね、」
 吐き捨てるように答えると、背後で男がくすくすと笑う気配がした。
「可能性としてはいくつか考えられる。ひとつ、君には友達が少ない」
「…………」
 失礼な、と思ったが英はじっと黙っていた。
「ひとつ、本当は聞いたことはある――けど、嘘をついた」
 たとえば、話をさっさと切り上げるため。君は僕を不審者だと言ったし、警戒されているのは火を見るよりも明らかだからね。
「或いは」
 ひやり、と英の背筋を冷たいものが伝う。
「君は警戒した――その噂に程近い場所にいるからだ」
 まあ、理由はひとつとは限らないが。
「…………」
 英はひとつ、深呼吸をした。その間に気分を落ち着ける。
「……なんでもいいけど」
 振り返り、男を睨み上げる。
「これ以上付き纏うなら、警察呼ぶけど?」
「おやおや、それは困るなあ」
 男は大袈裟に肩をすくめ、そうして彼女に一枚のカードを手渡した。受け取るつもりなどなかったのに、まるで瞬間移動でもしてきたかのようにそれは彼女の手の中に収まる。
「悪魔のことで何か思い出したら、ここに連絡して」
「しないって」
 英は手の中のカードに目を落とす。それは恐らく名刺なのだろう。名前と、電話番号が書かれていた。
 月宗(ツキムネ)(シュウ)
 それは本名なのだろうか。なんだか芸名みたい、大袈裟な名前、と英は思った。
「それじゃ、また」
 男は曖昧に笑い、ひらひらと手を振りつつ彼女に背を向けて――その姿はすうっと群衆のうちに溶け消えたのだった。

 夜。自室のベッドにうつ伏せに横たわり、英は手渡されたカードを見つめた。
 ――悪魔にまつわる噂。
「…………」
 ごろりと寝返りを打ち、見慣れた天井を見上げる。
「……悪魔、か」
 彼女の知るひとりの悪魔、その名は櫟原という。見た目はふつうの――いや、むしろふつう以上の好青年である。英は兄の友人として知り合ったのだが、本人がそうと名乗るまでまさか彼が人間ではないなどと思いもしなかった。今でも悪い夢ではないかと思うくらいだ。
 しかし、夢ではない。確かにあの日、兄の陽は彼女の隣で事故に遭って死に掛けた――それを救ってくれたのは櫟原だ。英という存在そのものを代償に、陽の命を助けた。それは確かな事実だ。そのせいで、彼女は何かとあの悪魔にいいように使われることになってしまったのだけれど。
 月宗祝。
 恐らく、彼が探している悪魔とは櫟原のことなのだろう。近くにそう何匹も悪魔がいてはたまらない。
 以前にも自分の願いを叶えてもらうために悪魔を探していた中年の男性がいたが、月宗はそれとは違う理由であるような気がする。それでは、一体何なのか……そこまでは、英にはわからないけれど。
「……もし今度会ったら」
 と英は呟いた。
「『ロンド』に連れて行こうかしら」
 行きつけの喫茶店の名を口にする。そこにバイトとして巣食うのが、彼女の契約した悪魔こと櫟原なのであった。

 ※

 果たして、数日後。ひとりで帰宅する途中であった英の目の前に、月宗は何の脈略もなくふらりと姿を現した。
「…………」
 英は立ち止まり、じっと月宗を眺める。
「……何か用?」
「これはただの勘なんだけど」
 月宗はにこにこと笑いながら英を見ている。
「君の近くに、悪魔がいる気がする」
「…………」
 英は肩をすくめた。おや、というように月宗は目を見開いた。
「意外な反応だね」
「……そう? 私がここで何を言っても一緒でしょ」
 否定しようが、嫌がろうが、怖がろうが。
「だったら、取り乱すだけ無駄だわ」
「ほう」
 英は月宗の横をすり抜け、歩みを再開した。一路、「ロンド」に向かって歩く。
「どこに行くんだい」
「…………」
 返事はしない。このまま月宗を連れて行ったら、櫟原はどんな反応をするだろうか。怒る――ところは見たことがない。本気で困っているところもない。何でもいい、そもそもこのおっさんに英が付きまとわれる羽目になったのも元はといえば櫟原のせいなのだ。責任取ってどうにかしてもらいたい。
 足早に歩む英の背後から、一定の間隔を開けて気配が追ってくる。彼女は一度も振り返ることなく路地を突き進み、寂れた一軒の喫茶店へ――「ロンド」に入って行ったのだった。

「いらっしゃい」
 いつも通り、櫟原が彼女を出迎える。英はちらとその整った顔を見上げた。その笑顔からは、彼が月宗のことを把握しているかどうかは分からない。英はそそくさと定位置のボックスシートに座った。
 少し遅れて、古めかしいドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 櫟原は澄ました顔で月宗を迎える。月宗は、ああ、と小さく唸るように言った。
「お好きなお席にどうぞ」
 櫟原はあくまで慇懃に接客をしながら、英の目の前に冷たい水の入ったグラスを置いた。彼女はそれで乾いた喉を勢い良く潤す。
「……女子高生の行きつけの店にしては、渋いね」
 独り言のような月宗の台詞を、英はわざと聞かなかったふりをした。彼は気を取り直したように軽く咳払いをし、カウンターの席に座る。
 客は、英と月宗の二人。店員はいつものとおり、櫟原しかいない。
「英ちゃんはラテでいい?」
「うん」
 これもまるきりいつも通りのやり取りだ。月宗は大して数もないメニュー表をつらつらと眺めて、「エスプレッソを」と告げた。
「かしこまりました」
「……つかぬことを尋ねるけど」
 背中を向けて準備を始めた櫟原に、月宗はおもむろに疑問符を投げかけた。
「はい?」
「君は――この街に悪魔が棲む、って噂をきいたことはないかい」
「悪魔、ですか」
 櫟原は振り返る。その表情は平生で、何の動揺も浮かべていない。
「それは……素行の悪い人間の比喩とか、そういうことですか?」
「……いや、いい」
「お客様、何かの取材で?」
 櫟原は小さく笑い、再びエスプレッソマシンに向き直る。月宗はため息をついた。
「……確かに、この辺りにいると思ったんだが」
 あからさまに落胆したようなその口ぶりに、英はふと疑問を抱いた。一体、彼は何のために――。
「何のために探してるの?」
 自分の声に驚き、英は息を呑んだ。しかし、もう遅い。月宗が振り向いた。
「それが、僕の仕事だからだ」
「仕事? 悪魔を探すのが?」
「『エクソシスト』――って聞いたことあるかい」
「映画の名前?」
「うん、まあ……ようは『悪魔祓い師』のことなんだが。うちは、代々その家系なんだよ」
「悪魔祓い師……」
 英は呟く。それが実際どんなことをするのかは想像もつかないが、ようは悪魔を追い払う役目を持つ人、ということなのだろう。
 しかし、そんなことが可能なのだろうか。
「なんてね。信じるかい?」
 冗談めかして、月宗は笑う。折しも英の目の前に運ばれてきたラテの上には、黒猫のラテアートが描かれていた。可愛らしいけど、悪魔の遣いのつもりかしら。
「じゃあ、貴方は今まで悪魔に会ったことがあるっていうの」
「…………」
 月宗は黙って答えない。
「そもそも、悪魔が本当にいると……」
「悪魔はいるさ」
 月宗は彼女の言葉を遮った。今までになく、きっぱりと断言する。

「人が地上にある限り、悪魔はそこに棲むだろう」

「…………」
 英は言葉に詰まる。櫟原は「そいつは怖いですね」などと適当な相槌を打ちながら、月宗の前にエスプレッソの小さなカップを置いた。
「…………」
 英は思う――確かに、櫟原はいつだって無理に契約を迫りはしない。悪魔の力を借りるかどうか、己の魂を売り渡すかどうか、決めるのは人間だ。悪魔はただ、その力を貸すだけ。文字通りの「悪魔の囁き」でひとを誘惑するだけ。
 ――私のときだって、そうだった。

「そんなに悪魔を見つけ出したいのですか?」
 櫟原がぽつりと言った。む、と月宗が顔を上げる。櫟原は微笑んでいる――悪魔の微笑みを浮かべている。
「そんなに見つけ出したいのなら――」
 窓から差し込む夕日が、櫟原の背に影を映している。黒く大きく伸びた、悪魔の翼の影を。
「いつでも、相手になりますよ」
 ぱちん、と櫟原は指を鳴らす。と、月宗の体ががくんと椅子の上に崩れ落ちた。
「ちょ……!」
 英は思わず立ち上がる。
「あんた、何したの?!」
「別に? 少し眠ってもらっただけ」
 櫟原は英の剣幕など意に介することもなくくすくすと笑う。
「あまり付きまとわれるのも鬱陶しいだろう? 君が」
「……私が?」
「そろそろ追い払っておこうかなってね」
 櫟原はうたうように言った。
「僕が悪魔だってことに、彼が自力で気付くことはできないよ――『悪魔祓い師』なんて、僕らのいい暇潰し、遊び相手なのさ」
「じゃあ、なんで」
 英は言い掛けて、はっと気が付く。
「……私の周りに悪魔がいる気がする、ってこの人が言っていたのは」
「そう。僕がわざとそういう気配を出していただけ」
「なんでわざわざそんな、」
「たまには、ちゃんと思い出してもらおうと思ってね?」
 櫟原は英に近寄り、その顎に人差し指を掛けた。英は為されるがままに見上げながらも、きっと彼を睨みつける。
「いいねえ、そのかお」
 櫟原は低く呟くと、ニイッと笑った。
「君たちは――君は、あくまで自分の意思で僕と契約したんだ。そのことを、忘れないように」
「……わかってる」
「そう? それならいいけど」
 ――万が一にでも僕が「悪魔祓い師」に祓われるようなことでもあれば、その時は。
「君も一緒に地獄行きだからね?」
「……陽は?」
「君が望むなら、彼だけは天国に行かせてあげようか?」
「……うん。そうして」
 英はぽつりと呟く。
「悪魔と契約したのは私。地獄に行くのは、わたしだけでいい」
「…………」
 櫟原は少しだけ目を見開いて、そうして含み笑いを漏らした。
「君は可愛いねえ、英」
「うっさい」
 英はふいと顔を背ける。その先には、無人のカウンター……あれ、そこにさっきまで誰かがいたような気がするのに。
 英は鞄の奥から、ごそごそと一枚のカードを取り出した。何かが書かれていたはずの――しかし今はもう何も書かれていない。
 櫟原は笑ってそれを取り上げ、手の中でぼっと燃え上がらせる。

「君にはまだまだ、僕の遊びに付き合ってもらうよ?」

 櫟原はその炎の色を瞳に映し、うっそりと笑うのであった。