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第六話 サキタシオリ

 七星英は女子高生である。もうすぐ二年になる。ごく普通の、派手過ぎもせず地味過ぎもしない、どちらかといえば真面目寄りの、特に目立つところのない一生徒だ。
 仲の良い友人も、数人。中学からの知り合いもいるし、高校進学後に知り合ったものもいる。
 そんな彼女の唯一にして最大の秘密は――悪魔に飼われている、ということだった。

 英はいつもの友人と共に帰路につき、最寄り駅を同じくする友人とともに電車を降りた。三井清香(さやか)というその友人は、二人になったあと思いついたように言った。
「英のお兄さん、一回会ってみたいんだけど」
「普通だよ」
 英は苦笑した。七星陽。彼は彼女の三つ年上である。
「うち、ひとりっこだからさ」
 と、清香。彼女とは中学からの友人である。
「お兄ちゃん欲しかったんだよねー」
「いや……現実はそんないいもんじゃないよ?」
 英はやや大袈裟に手を振る。
「まあ、今度機会があったら、ね」
 照れくさくなって話を終わらせようとした英だったが、清香は意外に食い下がった。
「前写真見せてくれたじゃん、結構タイプだったんだよね。今度紹介してくれない?」
「……まじで?」
 英は清香を見つめた。――意外にも清香は真顔である。
「英のお兄ちゃんなら、きっといい人だと思うのよね」
「そりゃあ、悪い人じゃあないけどは思うけど……」
 英はうん、とうなずいた。
「いいよ、本気で気に入ってくれるなら、応援する」
「ありがと、英!」
 清香はほっとしたように笑って手を振る。
「じゃあね」
「また明日!」
 踵を返して帰っていく背中に揺れる、長い髪。英は、ほ、とため息をついた。まあ、清香ならいいだろう。彼女のことはよく知っているし、陽とそれほど気が合わないとも思えないし。もちろん、うまくいかないかもしれない。それならそれで仕方ない。兄も清香も、気の合う相手が見つかるのが一番だ。無理をしても仕方ない。
 問題は――陽がかつて、悪魔によって蘇らせてもらった存在だということなのだけど。でも、その代償は私が払ってるわけだし……。
 あの悪魔に目をつけられないようにしなきゃ。清香を悪魔の巣窟に――「ロンド」に近付けちゃ駄目だ。英は決意も新たに、しかし今は仕方なく、その悪魔の元へと足を運ぶのだった。

  ※

 ロンドは寂れた喫茶店である。きっと悪魔がバイトしているからだわ、と英は思っている。元々はかなり年配のマスターがほそぼそと営んでいたらしいが、いつの間にかバイトが幅を利かせるようになっていた。マスターはどうしてるの、と以前聞いたら、元気にしているよ、と言われた。少なくとも英は彼を見たことがない。
 からんからん、とどこか懐かしい音を響かせるドアベル。英は店内に入り、少し驚いた。客がいる。それは、ごく稀にしかないことだ。
 カウンターの奥にいたバイト――櫟原が微笑む。顔だけは一級品の悪魔だ。
「おかえり、英ちゃん」
「どうも」
 ここ私の家じゃないし、という悪態は飲み込んだ。客の前だからである。私はなんて優しいお客なんだろう。
「あの子、常連さん?」
 英はちら、とその客を見遣った。見も知らない自分を、「あの子」呼ばわりってどうなの。内心そう思いながらも、勿論言動には出さない。
 客は若い女だった。勤めているのだろう、スーツ姿である。綺麗な人だな、と思った。雑誌から抜け出てきたみたいにおしゃれで、垢抜けている。ゆるく巻かれた髪は、モカの色に染まっていた。
「ご近所さんなので、贔屓にしていただいているんですよ」
 営業用の笑顔を向け、櫟原が言う。その手はいつものように英のためのラテを作っているようだ。
「ふうん……?」
 彼女は目を細めて櫟原を熱心に見つめている。――お姉さん、それ悪魔よ。心の中で念じてみるが、伝わるはずもない。
 彼の手元を見た彼女は華やかな嬌声をあげた。
「へー、櫟原さん、ラテアートできるんだ!」
「見様見真似ですけど、ね」
 櫟原がカウンターを回り込み、英の席にラテを置いた。
「ねえねえ、立体のラテアート知ってる?」
 彼女はバッグからスマートフォンを取り出し、操作を始めた。
「ほら」
 差し出したそれに、櫟原が顔を近付ける。自然彼女との距離も近くなり、彼女の顔がうっすらと赤く染まった。
 ――馬鹿馬鹿しい。英はなんとなく白けた心地でバッグを開け、英語の宿題を取り出した。兄には勉強中の音楽は禁止されているけれど、今日は例外、と勝手に決めて耳にはイヤフォン。二人の会話を意識の中から締め出すことに成功した。
 とにかく、自分には関係ない。彼女が悪魔の餌食になろうがなんだろうが、私の知ったことではない……そう割り切れたら、いいんだけど。英はもやもやとした感情を抱えたまま、宿題に向かったのだった。

 櫟原は悪魔だ。
 人の願いを叶える代わりに、その人の一部を――体の機能であるとか、心の一部であるとか、記憶であるとか――そういったものを喰らうのである。実際、喰われた人物も何度か見た。というか、わざと英に見せつけたのだろう、あの悪魔は。
 彼が何を考えて英を自分の眷属という扱いにしたのかはわからない。とにかく兄を救いたい一心だった英は、よくわからないままに櫟原と契約してしまった。後悔はしていない。あのまま――あの事故で兄を失ってしまうくらいだったら、櫟原に多少虐められるくらいなんでもない。櫟原も、今のところ英に無茶な要求をしてくるわけではないし……。
 ふと目を上げると、先程までふたりだったカウンターにもう一人増えていた。兄だ。なんだか顔に締まりがないのは、あの美人の客がいるからだろう。――何へらへらしてんの、馬鹿じゃないの。英は眉を寄せる。妹を放って、何してんのよ。
 英はため息をつきながらイヤフォンを外した。兄の背中に近寄り、一言。
「お兄ちゃん」
 彼女の圧し殺したような声に、陽ははっと振り向いた。ばつの悪そうな顔で英を見つめる。
「……宿題済んだか?」
「帰ろう。お腹空いた」
「そうだな! じゃあ櫟原、また」
「うん。……あ、英ちゃん?」
 櫟原が急に彼女の名を読んだ。帰り支度をしていた英は振り返った。
「髪に埃ついてる」
 櫟原は手を伸ばし、彼女の髪に触れた――だけでなく、指先をするりと髪に絡ませる。ひんやりとした彼の指が耳に触れ、英の背中はぞわりと粟立った。
「ど、どうも」
 英は慌てて彼から離れる。うっかり赤面しているであろう自分が腹立たしい。――そんなに近寄る必要ある? という気持ちを込めて睨むが、櫟原は黒縁眼鏡の奥から微笑んでいるだけだった。
 陽はそんな妹の様子に気付くこともなく、へらへらと客の女と話している。――だが彼女の視線は陽ではなく、櫟原に釘付けだ。
 ふと、英と彼女の視線が合う。彼女は英を値踏みするように眺め、やがてふい、と視線を逸らした。
 ――あの悪魔、わざとだな。英は内心の苛立ちを押し隠し、兄を引きずるようにしてロンドを出たのだった。

 彼女から名刺を貰った、と兄は言った。崎田(さきた)汐里(しおり)と書いてあるその名刺には、有名なアパレルブランド会社の名が書いてある。
「お兄ちゃん、言っとくけど」
 英はため息混じりに言う。
「あの人、櫟原さんを狙ってるんだと思うから。勘違いしちゃ駄目だからね」
「わかってるって」
 陽は笑った。
「見てりゃわかるだろ、そんなの」
 あれ、ちゃんと気付いてたんだ。意外そうに目を見開く英に、陽は胸を張る。
「さすがにおれもそこまで馬鹿じゃねえっての」
「本当かなあ」
 つぶやくと、兄に頭をはたかれた。もちろん痛くはない。
「店についた時、櫟原と目が合ってさ。助けて欲しそうだったから」
「櫟原さんが?」
 英は胡散臭そうに眉を寄せる。陽はそう、と頷いた。
「ちょうど、連絡先をすごい勢いで聞かれててさ、困った顔してたんだ」
「櫟原さんてスマホとか持ってるの?」
「そりゃ持ってるだろ、今時」
 一応俺も連絡先知ってるし、と陽は言う。――悪魔なのに、本当にそんなもの持っているのかしら。英に用事がある時の櫟原は、唐突に姿を現したり、影を通して話し掛けてきたりするので、そんな普通の方法をとる彼が想像できなかった。カモフラージュのためだろうか。それにしても。
「まあそういうわけで、俺が割って入ってやってたわけ」
「恩着せがましく言うほどのこともないじゃん。なんかにやにやしてたし」
 辛辣な英に、陽は苦笑する。
 英は、陽に清香を紹介するのはまた今度にしよう、と思った。

  ※

 その後も崎田汐里はちょくちょくロンドに現れた。英はできるだけ鉢合わせしたくなかったのだが、櫟原に呼ばれて仕方なく出向いている。やはり、彼の呼ぶ時の方法は何かと普通ではなかった。
 汐里は英を露骨に無視していたし、英も特に彼女には関わらなかった。その必要がない。汐里が悪魔に誑かされようがどうしようが、彼女の知ったことではない――本当は、少し心配しているのだけど。何しろ相手は悪魔だから。
 一度、スマホを見た汐里が慌てて帰って行ったことがあった。櫟原がその後ろ姿を見送り、くすりと笑う。
「彼氏かな」
「彼氏?!」
 英は思わず声を上げた。汐里がここに通いつめているものだから、てっきり彼氏募集中なのだと思っていた。櫟原は肩をすくめる。
「僕にずっと彼氏の相談してたよ? 聞いてなかった?」
「盗み聞きの趣味はないわよ……興味もないし」
 はあ、と溜息をつく。
「相談を持ち掛けて親密になって、乗り換えるって方法もあるらしいよ? 相談女って言うんだって」
 だから何なんだ、と英は思った。
「で? あの人に何するつもり?」
「…………」
 櫟原は微笑んで答えない。英は苛立ったように言葉を続けた。
「とりあえず、私使って彼女を煽るのはやめてよね。いちいち睨まれるの鬱陶しいし」
「あ、ばれてた」
「当たり前でしょ」
 汐里がいる時に限って、櫟原はさりげなく英に構うのである。本当に嫌なやつだわ、と英は思う。
 折を見て忠告できれば、と思っていた――さすがに、ここのバイト実は悪魔なんですよ、とは言えないが、何とかうまく言い包めて櫟原を狙うのはやめてもらえたら、と――だが汐里は英の言葉になど耳を貸さないだろう。櫟原はそれを見越して敢えて汐里の英に対する反感を煽ったのではないか。
「彼女、僕に何を願うだろうね? 賭けてみない?」
「賭け?」
 英は顔を上げる。櫟原は微笑んでいた。
「そう。もし彼女の願いが君の言ったものに近ければ、君の勝ち。今回は代償をもらわずに済ませてあげる」
「……櫟原さんのに近かったら?」
「僕の勝ち。いつも通りに代償をもらうよ」
「……だったら」
 英はため息混じりにつぶやく。
「賭けたほうが得、ってこと? 少なくとも、損はしない」
 どうせ断る権利はないんでしょ、とは言わなかった。
「じゃあ、賭けよう。君から決めていいよ」
 英は少し考え、口を開いた。
「櫟原さんと付き合いたい――とか、もしくは彼氏と別れたい、とか」
「なるほど。新しい出逢いを、というわけだね?」
 次は僕の番。
「彼氏と別れない方向の願いだと思う。むしろ、彼氏を助けて欲しいってね」
「え、」
 意外だった。目を見開く英に、櫟原は笑う。そして、眼鏡を外してシャツの胸ポケットに仕舞い込んだ。
「君はまだ子供だね、英ちゃん」
「…………」
「さあ、賭けの始まりだよ」
 ――その時、汐里が店に戻ってきた。泣き腫らしたような、真っ赤な目で。

 夕陽で染まった店の中。櫟原はぱちん、と指を鳴らした。汐里が顔を上げ、櫟原を見つめる。やはり泣いたんだ、と英は思う。彼氏と揉めたんだろうか。しかし、彼女は英に反応しない――櫟原がそういう風にしたのだろうか。
「どうしたの、汐里さん」
 甘い声。
「泣いているの?」
「……あの馬鹿」
 汐里は泣き笑いのように顔を歪める。
「今度こそ別れるわ。絶対に別れるの……!」
 英は内心で歓声をあげた。しかし、櫟原は静かに微笑んでいる。
「ねえ、汐里さん。僕が何かひとつ、何でも願いを叶えてあげるとしたら……何を願いますか?」
 ――ただしお代はいただくけれど、と櫟原は言う。その瞳はうっすらと赤い。この目だ。悪魔が獲物を捉える、この瞳。
「……何でも?」
 汐里は顔を上げる。どこか茫洋とした眼差しで、櫟原の異様さに気付いている様子はない。
「ええ、何でも。――ああ、無限のものはあげられないけれど」
 不老不死だとか、際限のない財産とか、そういったものは無理ですよ。
「代償は、願いの大きさだけ大きくなるから気を付けて?」
「…………」
 汐里はぼんやりと櫟原の顔を見つめている。やがて、その唇がのろのろと動いた。泣いたせいだろうか、ルージュも既に剥げてしまって、痛々しかった。
 英は祈る。いっそ、ここで彼の申し出を断って、何なら一発殴って、ここから帰ってくれれば……。
 汐里は言った。

「コウキの借金……、チャラにしてあげて」

 英の背筋が凍った。
 櫟原がちらりと英を見下ろして笑う。その笑顔は、まさに悪魔そのもの。
「ええ、いいですよ。では、その代償は何にしましょうか?」
 なんで? 英は混乱する。なんで、その願いなの? 櫟原が言わせた? そこまで狡いことをするだろうか? 櫟原は性悪だが今まで嘘をついたことはない――多分。それなら何故、別れたいと訴えていたはずの彼女が、あんなに熱心に櫟原を見つめていた彼女が、どうやら駄目男らしい彼を借金から救おうとするのだ。わざわざ代償まで支払って――理解できない。
「代償は――そうですね」
 櫟原はするりと手を伸ばし、汐里の顎を掬い上げた。至近距離で見つめられた汐里は、目元を染めている――それなのに、どうして。
 櫟原はにい、と笑った。
「涙、にしましょうか。女の武器は涙というから」
 生理的な涙は出るけど、感情に伴う涙は流せなくなる。
「それで、本当にいい?」
 ――契約前の、最終確認だ。
「……わかった」
 汐里は頷く。櫟原は頷き、そして英を見た。
 ――僕の勝ち。
 唇は動かさなくとも、その声は彼女の中に直接響いた。

 ※

 汐里が去った後、櫟原はくつくつと笑いながら英に歩み寄ってきた。英はじっと俯いて、顔を上げない。
「残念だったね」
 でもまあ、願いも大したことなかったから、代償もさほど貰わなかったよ、と櫟原は言う。
 英はぐっと唇を噛み締めた。
「こら」
 櫟原の手が伸び、英の唇に躊躇いもなく触れる。
「傷がつくよ」
「…………」
 桜色の爪が、ゆるゆると彼女の唇の上を滑っていく。――噛みついてやりたい、と思った。もちろん、それを実行することはなかったが。
「いつか」
 英は低く唸った。
「あんたには絶対勝ってみせるわ」
 櫟原は少しだけ目を見開いて、そしてにんまりと笑った。
「へえ、それは面白いな」
 楽しみにしてるよ、と彼は甘く囁く。
「もし本当に僕に勝てたら――君と陽を解放してあげてもいい、かな」
「…………」
 本気だろうか。英はじっと彼を見つめる。でも、今はまだ、問い詰める時じゃない――勝てる見込みなんて全くないのだから。
「気の強い子は嫌いじゃないよ」
 櫟原は彼女の顔から手を離し、触れていた自分の指先に唇を落とした。ちらりと覗く赤い舌。
「そういう魂ほど、美味しいからね」
 英はふい、と顔を背ける。
 ――いつか、絶対にこの男を負かしてやる。兄のことも、どうにかする。してみせる。

 それまで泣かない。
 涙を奪われたあのひとの分まで――私は、泣かない。
 英はそう心にかたく誓ったのだった。