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第二話 スガイリョウジ

 冷たいアイスを載せ、冷えきったスプーン。舌に触れたそれに、七星英は悲鳴を上げた。
「冷た! 寒い!」
「君のお兄さんの差し入れなんだからね。文句言わずに食べる」
 スプーンを持ってにやにやと笑うのは、嫌味なくらいの美青年――ではなく、その正体は人を喰らう悪魔である。英の兄、七星陽を事故から救う代わりに英を自分の手下とした、極悪非道の生物なのだ。傍から見れば、美青年にアイスを食べさせてもらっている女子高生の図、なのだろうけれど、それはとんでもない誤解である。
 英の喉を甘いバニラアイスが下っていった。英はぶるりと震える。
「自分で食べればいいじゃないの」
 確かに美味しい。だが、初冬に口にするものではない。文句を言う英に、悪魔は平然とした顔でこう言った。
「僕は人の食べ物を食べても消化も吸収もしないからね。無駄なんだよ」
「そうなの?」
「食べているふりくらいはできるけれど」
「…………」
 英はまじまじと目の前の青年の顔を眺めた。彼の名は櫟原という。名前は知らない。聞いてもいいのかもしれないが、聞いていない。兄なら知っているのだろうか。しかし、そもそも英はそんなことに興味がない。
 英はため息をついた。
「なに?」
「食事が無駄だなんて、人生損してるよね」
「人生って、僕人じゃないし」
 櫟原はくすりと笑って、スプーンに山盛りのアイスを無遠慮に英の口に突っ込んだ。わざと量を増やしたのだ。
「んぐ!」
「それに」
 櫟原はふと目を伏せる。その瞳が、仄かに赤く煌めいた。
「僕はちゃんと、別のものを食べているからね――」
 喫茶店ロンドにはほとんど客が来ない。寂れた店の中では人間のふりをした美貌の悪魔がひとり、餌をじっと待っている。

  ※

 英の兄、陽がロンドに誰かを連れてくるのは珍しいことだった。先ほどから降り出した夕立から逃れるためだろうか。
 ドアが開き、なだれ込んでくる男たち二人。
「こんなところに喫茶店があったのか」
「まあな。櫟原がバイトしてるんだぜ」
「イチハ……?」
「いらっしゃいませ」
「お兄ちゃん遅い」
 櫟原と英が同時に口を開いた。英は先ほど冷えたお腹をあたためるため、温かな紅茶をすすっている。お腹を下したら絶対に櫟原に文句を言ってやろう、と彼女は心に決めていた。櫟原は彼女の苦情など、気にも留めないだろうけれど。
「何、お前の妹?」
「あ……」
 陽は少しきまり悪そうな表情を浮かべたが、すぐに連れに向かって英を紹介した。
「妹の英だ。高校二年生」
「七星英です。兄がお世話になっています」
 陽の背後にいたその男は、英を見下ろして目を丸くした。
「へえ。その制服、九暁(くぎょう)じゃん」
 九暁高校はこの近辺では進学校として通っている。ブレザー型の制服のデザインは数年前に変更されたものだが、そこそこ人気がある。着る本人たち女子生徒以外の、男子高校生や男子大学生にも、だ。
「俺は菅生(すがい)
 陽とは講義がいくつか共通しているのだという。陽は櫟原に向かって手を挙げた。
「あ、櫟原。ホットふたつな」
「暑がりのお兄ちゃんがホット飲むなんて珍しいね」
「急に降ってきたから、結構濡れたんだよ」
「タオル使っていいよ」
 櫟原はホットコーヒーに先んじて、乾いたタオルを差し出した。陽と、菅生に一枚ずつ。
「ありがとう、助かる」
 櫟原はにこりと微笑む。――この人は、兄の前でどうしてこうもいい人ぶるのだろう。実は兄のことが好きなのではないか。まさか! そんなことを思いながら櫟原を見上げると、ふと目があった。眼鏡の奥の櫟原の目は少しも笑っていない。心を読まれたのかもしれない、と英は慌てて目を伏せた。
 陽はそんな英の心も知らず、のんきに髪をタオルで拭いている。
「菅生は櫟原とは知り合いじゃないんだっけ?」
「あ、ああ、そうだな」
 菅生は少し、顔をしかめた。その気持ちは英には良く分かる。櫟原の顔は、いささか整い過ぎているのだ。異性である英がうんざりするほどなのだから、同性ではなおさらだろう。陽は鈍くできているから、何とも思わないのだろうが。
「はじめまして、櫟原です」
「もしかして、妹さんの彼氏?」
『まさか!!』
 三人の声がぴったりと重なり、菅生は目を瞬かせた。
「仲いいんだな……」
「はい、お待たせしました」
 店を満たすかぐわしい香りの中、櫟原がふたつのカップを持ってくる。
「ホットふたつです。お代わりもどうぞ」
「おお、サンキュー」
 英から少し離れた場所に腰を掛けたふたりは、大学での話で盛り上がっているようだった。櫟原も一応同じ学生なのだから加わればいいと英は思うのだが、彼はカウンターの奥でにこにこと笑っているだけだった。
 ――なんとなく、嫌な感じがする。英はぞくりと震えた。さっきのアイスよりももっと冷たく、冴え冴えとした、それははっきりと悪い予感だった。

 雨はなかなか止まなかった。そのせいでもないだろうが、菅生はどこかいらついている。
「本当にふざけてるんだよ、あいつら」
 数日前の合コンの話のようだった。
「イケメンか金持ちか、そればっかり気にしてさ」
「あー、そうらしいなあ」
 陽は英の目を気にしてか、歯切れが悪い。どうせ兄はそういうところで器用に振る舞えるタイプではない。英は肩をすくめ、宿題を進める。
「俺が同じこと言ってもキモいだの何だのってけなすくせに、イケメンが言ったらきゃー面白ーいだとよ」
「うーん、まあなー」
「イケメンになりてえなあ」
 菅生は不細工というわけではない。少し太り気味なんじゃないかな? と英は思った。痩せたら印象も変わるのではないだろうか。まあ、本人を目の前に言えるわけもないが……。
「お前、最近太ったろ? 痩せたらもう少しモテるんじゃないか?」
 兄はあっさりと口にした。英は思わず内心でため息をつく。陽はそういう男だ。本人は悪気はないし、内容は至って正論なのだが、なかなかに心が痛む言葉を投げ込んでくることがある。菅生は一瞬、ぐっと言葉に詰まったようだった。絞り出すように反論する。
「それとこれとは今、関係ないだろ」
「そうか?」
「とにかく、顔と金しか見てない女はクソだって話だよ。イケメンな金持ちならほいほいついていって軽々しくヤらせちまうような――」
「菅生」
 陽が鋭く遮った。
「そこに妹いるから。あんまりそういうのは――な?」
 菅生は鼻で笑う。
「過保護だなーお兄ちゃんは」
「過保護で結構」
 陽はそう答えると、席を立った。
「櫟原、傘ある? 貸してくんね?」
「いいですよ。良かったら菅生さんも――」
「俺はいい」
 はあ、興醒めだわ、と呟きながら、菅生は雨の中を出て行った。テーブルの上にはコーヒーの代金。
「なんかごめんな」
 謝る陽に、櫟原はいいえ、と首を横に振った。
「むしろ、英さんこそ気分が悪かったのでは?」
「え? 別に」
 英はきょとんとした。櫟原に気遣われたことも意外だったが、そもそも彼女は少しも気分を害してなどいない。
「そりゃあ私だって、付き合うならイケメンなお金持ちの方がいいよ」
「は、はな?!」
 動揺を見せる陽に、英は笑う。
「当たり前じゃん。なんでわざわざ不細工な貧乏と付き合わないといけないの。お兄ちゃんだってその方が心配するでしょ」
「そ、それはそうだが」
 陽は面白いほどに狼狽えた。英は親切にも解説を加えてやる。
「イケメンっていっても、別に芸能人レベルを要求してるわけじゃないんだって。顔立ちそのものの問題っていうよりは、むしろ雰囲気? 言動とかがイケメンな人っているでしょ? そういうのがぐっとくるんだよ」
 陽は不思議そうに首をひねる。
「そういうものなのか?」
「そういうものなの。顔立ちがいくら良くっても、すっごい下品な人とか、あほまるだしとか、そういうのはイケメンって言わない。――少なくとも私はね」
 英は首をすくめる。
「お金だってないよりはある方がいいけど、それも人によるっていうか……金遣いがめちゃくちゃ、とか、ギャンブル狂いとか、そういうのは困るわけで」
「ううん……」
 陽は唸る。英ははあ、とため息をついた。
「お兄ちゃんだって、別にアイドルとかグラドル並の子じゃなきゃ彼女にしない! なんていうつもりないでしょ?」
「そりゃそうだろ。そんなの、俺が付き合ってもうまくいかねえもん」
「それと同じなんだって」
 英はよいしょ、と鞄を持ちあげた。教科書とノートの詰まったそれは、なかなかに重い。櫟原の差し出す傘を受け取り――はっと気が付く。
 櫟原はにんまりと笑っている。その瞳はわずかに赤く染まっていて……。
「……櫟原、さん?」
 あれは、まるで獲物を見つけた肉食獣の目。
「ふたりとも、気を付けて」
 次の瞬間、櫟原はいつものように温和に笑って手を振っていた。

  ※

 それからしばらくの間、英はロンドに立ち寄らなかった。よくあることだ。別に櫟原も彼女に何か要求してくるわけではないので、しばらくの間放置してもなんの問題もない。そもそも、櫟原は彼女の連絡先すら知らないはずなのだ。まあ、悪魔がそんなものを知っている必要があるかどうかは甚だ疑問ではあるが……。
 数日ぶりにいつもの細路地に入り、寂れた喫茶店を目指す。
「あ」
 ドアを開けようとしたところで、中から飛び出してきた誰かとぶつかりそうになった。
「ご、ごめんなさい」
 慌てて謝ると、相手は首を横に振った。若い男である。兄や櫟原と同じくらいの年齢だろう。――芸能人? 英は目をぱちくりと瞬いた。すっと通った鼻筋、ぱっちりとした目。櫟原さん並だわ、と英は思った。違うところといえば、櫟原がいつもへらへら笑っているのとは正反対に、男はひどく顔をしかめていることくらいか。
「どこかぶつけましたか? 大丈夫ですか?」
「あ……う、うん。大丈夫」
 その声には、聞き覚えがある。英が記憶を探っているそのうちに、男は足早にロンドから立ち去った。
「――やあ、いらっしゃい」
 店内から顔を覗かせる、悪魔。英はきっとその男を睨んだ。
「あんた、菅生さんに何したの……?」
「あ、よくわかったね」
 櫟原は眼鏡を外している。紅く染まった瞳を細め、英を見下ろした。
「声でわかった」
「……まあ、君以外の人にとって、彼の顔は最初からああだったと認識されているはずだよ」
 櫟原は英を店内に導き、そうして頼みもしないのにカフェラテを入れてくれた。ハート型のラテアート付きである。こういう時にこういう柄をチョイスするあたり、この悪魔は本当にふざけている、と英は腹立たしく思った。
「どうして私は違うの?」
「そりゃあ、君は僕の眷属だから」
「ケンゾク……?」
 よくわからないが、どうせろくな意味ではないのだろう、と英は思った。
 とにかく、今はそれどころではない。
「で? 菅生さんの何を喰ったの」
「ん?」
 櫟原は今まさに食事を終えたところだったのだろうか――奇妙なまでに赤い舌で、ぺろりとその薄い唇を舐めた。
「たいしたものじゃないよ、多分ね」
「嘘。だって、顔全然違ってた」
「イケメンだったでしょ? あれ、彼が希望した通りの顔なんだよ。我ながら上出来だと思うな。ついでに痩せさせてあげたしね」
「でも……」
 さっきすれ違った時の彼は、少しも満足してなどいないようだった。あんなに顔をしかめて、どうして……。
 櫟原は笑う。
「味覚」
「え?」
「五感のうちの一つを喰わせろ、って言ったら、味覚を選んだんだよね、彼」
「…………」
 確かに、視覚や聴覚、触覚を失う訳にはいかない。味覚なら、と考えたのだろう。しかし……。
「あ、嗅覚はなしね。人間の嗅覚なんて全然大したことないから、喰う価値ない」
「あ、そう」
 英はため息混じりにつぶやいた。
「味覚と引き換えにイケメンにしてもらう、なんて馬鹿みたい」
「いいんじゃない? 本人がそれで満足なら」 
 櫟原はにんまりと笑った。まさに悪魔の笑みだ、と英は思う。
「……ううん」
 すれ違った時の、菅生のあの表情が気になった。望んだ顔になれたというのに、彼は決して喜んでなどいなかった。むしろ何かに耐えるように顔をしかめて、俯いていた。
「味覚がない……か」
 英は呟く。
「どんな感じなんだろう」
「さあね」
 櫟原は肩をすくめる。
 英はラテを飲み干した。なめらかなミルク、ほろ苦いコーヒー。この味を、菅生はもう感じることができないのだ。
 どんなに絶世の美人にしてやると言われても、私は嫌だな。英はそう思った。美味しいものを美味しいと感じられないなんて、そんな人生ごめんだわ。
 だが、菅生が自分で選んでそうなってしまったのなら、仕方がない。彼が自分の望み通りの人生を送れるよう、英は陰ながら祈ることにした。

 ※

 陽の口から菅生の名前が聞かれたのは、それから半月ほど経った頃のことだった。
 いつものとおり、二人でとる夕食の席である。今日のメニューは煮込みハンバーグ。母が予め下拵えしておいたものを、英が仕上げたものだ。陽のものには半熟の目玉焼きが、英の方にはとろけるチーズがかかっている。
 幸せそうにハンバーグを頬張っていた陽が、不意に顔を曇らせた。
「お前、菅生って会ったことあったっけ?」
 もしかして、その辺りの記憶も書き変わってしまっているのかしら。英は訝しみながら、曖昧に首を傾げた。
「どうだったかな……?」
「会ったことあれば覚えてるよ。あいつ、超絶イケメンだからな。多分、顔立ちだけなら櫟原と同じくらいかも」
「……その人が、どうかしたの?」
 英は先を促した。
「うん」
 陽はつぶれるかつぶれないかの絶妙な力加減で、目玉焼きの黄身をつついている。
「なんか、イケメンだし目立つんだけど、いつも独りでぽつん、としててさ。全然笑わないし。雰囲気暗くて、大丈夫かなって思って……」
 お兄ちゃんはお人好しだなあ、と英は思った。まさか、当の本人が望んで悪魔に自分の味覚を売ったのだとは思いもよらないだろう。どういう訳かは知らないが、きっと暗いのは味覚を失ったせいに違いない。
 だが、そういう兄のことが英は大好きである。もちろん、本人の前ではそんなことはおくびにも出さないが。
「それで、話し掛けてみたんだ」
「わざわざ?」
「うん、まあいくつか講義かぶってるしさ」
「それで?」
「いや、無視されたよ。なんか、いつもそんな感じらしい」
「……そう」
 英は短く相槌を打ち、とろりととけたチーズごと、小さく箸で切り分けたハンバーグを口に運んだ。歯で噛みしめた瞬間、じゅわ、と溢れ出す肉汁。むは、と思わず声が出た。
「やっぱりお母さんのハンバーグってめっちゃ美味しい……!」
「だよなー」
 美味しいものを食べるのは、人生における至福の喜びのひとつである。自ら望んだとはいえそれを失った菅生は、今何を思うのだろうか。
「その人、モテる?」
 念のために聞いてみる。兄は苦笑して首を横に振った。
「あの仏頂面じゃあなあ。とにかく暗いしさ。イケメンがもったいないよな」
「……そっか」
 以前会った時の菅生は、少しいけすかないところはあったが、そんなに陰気な人格ではなかったはずだ。やはり、櫟原との取引が彼を変えてしまったのだろう。
 馬鹿だなあ。
 英はハンバーグを頬張り、そして炊き立てのご飯をひとくち。
 ――櫟原は、どこまで見通していたのだろう。英は思う。最初から菅生の望みを叶えてやるつもりなど、櫟原には毛頭なかったに違いない。菅生はイケメンになりたいと願った。それは何も、顔だけのことではなかったはずだ。彼は異性に好かれたかった。人気者になりたかった。ただそれだけだったのだ。顔を変えたいと願ったのは、そのための手段に過ぎなかったはずだ。それなのに――。
「…………」
 近いうちにロンドに行こう。英は心に決め、ハンバーグの最後の一口を頬張ったのだった。

 ※

「あ、気付いた?」
 と悪びれもせずに櫟原は言った。
「僕が喰べたのは彼の味覚じゃない。菅生君――だっけ、彼が今葛藤している、その『負の感情』を喰らってるんだよ」
 後悔、櫟原への怒り、絶望、悲しみ、そういった感情こそが、櫟原にとっての食事なのだという。
 英は顔をしかめた。
「悪趣味だね」
「悪魔ですから」
 櫟原は澄ましたものだ。
「じゃあ、菅生さんが味覚をなくして困るだろうってことは最初から十分わかってたってこと?」
「困らないんじゃ意味ないでしょ。何で僕がボランティアで美容整形してあげないといけないの」
 目の前で描かれるラテアートは、相変わらずかわいらしいテディベア。
「多分、口の中が変な感じなんだ。ずっとずっと、ね。何を食べても、食べなくても、ずっと口の中に違和感がある。自分の舌の存在すら、すごく気持ちが悪いだろう」
「いやだ、そんなの」
「いやだろうねえ」
 櫟原はせせら笑った。相変わらず、顔だけ見れば文句のつけようのない美形である。
 英はふと思いついて尋ねた。
「櫟原さんは――顔だけだったら、モテるんじゃないの」
「そうだね」
 あっさりと悪びれもせずに彼は言う。
「この顔を餌に、女性たちから喰ったこともあるよ? いろんなものと引き換えにしてね」
「うわもう本当嫌この人」
「人じゃないって。悪魔ですよ僕は」
 櫟原は英のしかめっ面を見て、心底楽しそうに笑った。そして、じっと彼女の顔を覗き込む。
「そうそう、君のその、嫌そうな顔もうんざりした感情も、なかなか美味しいよ」
 爪まで美しいその悪魔は、指先でつんと英の鼻をつついた。
「じっくり喰らってあげるから、覚悟しておきなさい」
「誰が覚悟するかばーか!」
 言い捨てて、英はロンドを飛び出す。――背中から響く櫟原の笑い声が、どうしようもなく腹立たしかった。