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第九話 ムラセミユキ

 冷たい風の吹く日だった。
 七星英は首に巻いたマフラーに鼻先まで埋めるようにしながら足早に歩む。時刻はまだ夕方といって良い頃合いなのに、空は雲に覆われて薄暗い。せっかく定期試験も終わったのだし、こういう日は早く家に帰り、熱めのお風呂に浸かってさっさと寝てしまうに限る。
 ――しかしながら、英には家に帰る前に寄らねばならないところがあるのだった。
 喫茶店ロンド。そこは断じてカフェ、ではない。いわゆる純喫茶と言っていいのかもしれないが、いずれにしても客は少なく、控えめに言っても寂れている。珈琲は旨いし、いくつかある軽食メニューも、値段の割によくできていると英は思う。だが、場所が良くない。大通りから二本ほど隔てた、裏路地といっていいような場所にそれはひっそりとある。まあ、場所以上に良くないのはそこにいるバイトの青年だが……。
 「試験も終わりだろう、今日は寄るよね?」――と、今朝彼女の目の前に舞い降りてきた鴉が口をきいたのだが、そのことに驚かなくなった自分に気付いて英は心底嫌気が差した。行けばいいんでしょ、行けば。口に出しては答えなかったが、そう思い浮かべた直後、鴉は嘲るようにひとつ鳴き声を立てたから、きっと「彼」には伝わったに違いない。あの性悪悪魔め。
 「彼」――マスターの姿のついぞ見えぬ喫茶店ロンドのアルバイト、櫟原は悪魔である。悪魔のような男、というのではない。正真正銘の悪魔だ。ひとの望みを叶えるのと引き換えに、ひとの何かを――五感であるとか、記憶であるとか、体や心の一部を――喰らう。文字通り、「人の不幸は蜜の味」なのだろう、悪魔にとっては。
 それでも彼が、兄の命の恩人であるということも、また事実なのだから困る。
 英はロンドに向かう道の角を曲がり、そこでぴたりと足を止めた。
 ひどく薄着の、英と同じくらいの歳の少女が壁にもたれ、かたかたと震えている。深く俯いていて、自分の知り合いかどうかまでは判別できなかった。
 ――大丈夫、には見えない。
「あ、……あの」
 英はおそるおそる、少女に声を掛けた。
「大丈夫……ですか……?」
 先ほど自分で思ったとおり、大丈夫には到底見えない。だが、それより他に掛ける言葉も見当たらなかった。
「…………」
 少女は僅かに首を動かし、英を見た。その乱れて傷んだ、色の抜けた長い前髪――伸ばしているというのではない、ただ勝手に伸びただけといった様子の――の下から覗いた、蒼白な顔。英ははっと息を呑む。
「あれ……、あの」
 見覚えがある。英は急いで記憶を辿った。えっと、確か……小学校の時、一度同じクラスになった……。
「ななせ……さん?」
 少女の声を聞くと同時、英はその名を思い出していた。
「もしかして、村瀬(むらせ)さん……?」
 村瀬観雪(みゆき)。彼女は英と目が合うと、声を圧し殺し激しく泣き始めたのだった。

  ※

 途方に暮れつつ、とりあえず英は観雪を伴ってロンドにやってきた。半袖のTシャツに古びたジャージ、足元は素肌にサンダル。この季節にふさわしい格好とは到底思えない。英と観雪の姿をちらと見た櫟原は、無言でどこからともなく膝掛けを持ってきて観雪の席の横に置いた。彼女らの前に置かれたものも、いつもの氷入りの水ではなく陶器のマグに入った白湯である。悪魔のくせにそういうところには気が利く、と英は思った。
 観雪をここに連れてくることに葛藤がなかったといえば嘘になる――どう見ても彼女は訳ありだ、何らかのトラブルに巻き込まれているのは間違いない。そういったトラブル、それに思い悩むひとびとを文字通り喰いものにするのが、櫟原と名乗るこの悪魔なのだ。
 観雪は腫れた目をおしぼりで抑えながら、白湯を口にした。
「……少し、落ち着いた?」
 英はおそるおそる声を掛ける。観雪はこくりと頷いた。
「ごめんね、急に引っ張ってきちゃって」
「……ううん、助かった」
 観雪は小さく呟く。
「財布もスマホも置いてきちゃって……正直、かなり困ってたから」
「もし誰かに連絡するなら」
 私のスマホ、貸すけど。言う英と、その向かいで俯いている観雪の前に、櫟原がそれぞれ別のカップとソーサーを置いた。英の前にはいつものカフェラテ――今日はラテアートはない。観雪の前には、甘い香りのミルクティー。
 観雪は戸惑ったように顔を上げる。
「あ、私……今財布なくって」
「大丈夫。一杯分くらい奢るよ――兄が」
 英はしれっとそう言うと、早々にカフェラテを口にした。口の中に広がるミルクの甘みがたまらない。
「……そう?」
 観雪は躊躇いがちにカップに手を伸ばした。両手で包み込むように持って、こくこくと喉を鳴らす。英はそんな彼女を、カップからほんのり立ち上る湯気越しに見遣った。不躾にならぬよう、時折目を伏せながら。
 村瀬観雪とは、そうたいして親密な時期があったわけではない。小学校の六年間で同じクラスになったのも一度だけだし、その時に仲良くなったというのでもない。ごく普通にクラスメイトとしての付き合いがあった、それだけだ。だからといって、明らかに困り果てた様子の彼女を無視することはできないし、できれば力になりたいと思う。たとえ彼女が初対面の相手であっても同じことではあるのだが、かつての知己とあれば尚更だった。
「……うん……」
 温かなミルクティで気がほぐれたものか、観雪は小さく頷いた。
「そうね……帰らないと」
 しかし、その口ぶりは決して乗り気ではなさそうだった。彼女の格好を見るに、とるものもとりあえず飛び出してきたことは想像に難くない。彼女の家で、何かあったのだろうか。
「…………」
 英は黙ってカフェラテを飲む。観雪の抱える事情が気にならないと言ったら嘘にはなるけれど――いきなり今ここで出会ったばかりの私が、あれこれ聞くことはできない。
「何か、上着をお貸ししましょうか」
 櫟原が控えめな声で問い掛けた。観雪はびくっと肩を震わせ、おそるおそるといった様子で櫟原を見遣る。英は焦ったように口を挟んだ。
「あ、だったら私のコートを……」
 櫟原と関わらせるのは危険だ。観雪の様子を見るに訳ありのようだから、ひとの不幸を貪る悪魔の格好の餌になってしまう。だが、櫟原は笑顔のままやんわりと英を制止した。
「それ貸してしまったら英ちゃんが困るでしょう? うちなら開店時間いつでもオーケーだから」
「で、でも」
「あの!」
 観雪は声を上げた。
「ありがとうございます……でも、大丈夫ですから」
「…………」
 櫟原がその眼鏡の奥の眼差しを、ちらりと観雪のむき出しの腕に向けた。英もつられてそこに目を遣って――はっと息を呑んだ。
「あ……!」
 観雪がその視線に気付き、肩をすくめて腕を隠した。――赤紫色の斑な痣が、くっきりとその白い肌に張り付いている。誰かの手形、のように見えた。一体、誰の……? 家に帰りたがらない様子を見せていたのは、それが原因だろうか。
 ふと、英は思い出す――確か、村瀬観雪は以前、姓が違っていたのではなかったか。ちょうど英と観雪が同じクラスだった時、彼女は「村瀬」になったのだ。その前の苗字は、今はもう覚えていない。そのことと今彼女の腕にある痣とが関係あるのかどうか、英にはわからないが。
「とにかく、今日は上着をお貸ししますよ」
 櫟原はきっぱりと言い、そして優しげに微笑んでみせた。――これが悪魔の笑みってやつだな、と英は思う。彼の正体を知っていて、しかもこういう表情を見慣れている英にとってはさほど感動に値するようなものではないが、そうでなければ大抵の女性はころっと騙されてしまうだろう。間違いなく。男であっても、一瞬目は奪われてしまうに違いない。人間の目なんて当てにならないものなんだなあ、と英はしみじみ思うのだ。
 観雪もまた例外ではなく、櫟原の笑顔に絆されてしまったようだった。表情をやわらげ、ぺこりと頭を下げる。
「じゃ……じゃあ、お借りします」
「ええ、どうぞ」
 ――これをご縁に、これからもどうぞご贔屓に。
 英が睨むように櫟原を見つめる。勿論、櫟原は完全に彼女を無視した。

 以来、観雪は時折ロンドに現れるようになった――ようだった。英が直接彼女と顔を合わせたことはない。彼らが会ったのはあの時一回きりで、連絡先すら交換しなかった。ただ、櫟原が時折そのようなことをにおわせるのだ。
「僕にはわからないなあ」
 櫟原は英のカップにラテアートを施しながら、にやにやと人の悪い――いや、実際櫟原は人ではないのだが――笑みを浮かべた。
「明らかに自分よりも非力な相手に暴力を振るう男のこと、どうやったら好きでいられるの? しかも、その相手が自分の子供だったらなおさらだと思わない?」
「……それって」
「うん?」
 櫟原は軽く首を傾げて英を見た。なんとまあ、わざとらしい。
「気になる? 観雪さんのこと」
「なれなれしく呼んでるんじゃないわよ」
 と英は眉をしかめる。その言いようが、まるで自分が徐々に観雪の心を開かせることに成功しているのだとを英に見せつけているようで、非常に不快だ。
「彼女、大変そうだよ」
 と櫟原はカウンターの奥から英のカップとソーサ―をもって現れた。
「ご両親が離婚してから、『ママ』がいろいろな彼氏と付き合ってはうまくいかなくなって別れて、を繰り返しているらしくてね」
「……いいの、そんなこと勝手にぺらぺら話して」
「いいんだよ」
 と櫟原は笑う。
「君は、僕の一部なんだから」
「はあ?」
 英は不機嫌な声を上げる。
「誰が誰の一部って?」
「まあ、それはともかく」
 と櫟原は軽く英の苛立ちをいなす。
「今の彼女の『ママ』の彼氏は、観雪さんに暴力を振るうんだって」
「最悪じゃない!」
 なんでそんな男を彼氏にしておくのだ、と英は憤る。櫟原は軽く肩をすくめてみせた。
「『ママ』には言えない、って言っていたけど。気付かないものなのかな? 同じ家に住んでいるのにね」
「…………」
 英は口をつぐんで目を伏せる。その脳裏には、観雪の腕にあった赤紫色の斑模様が浮かんでいた。あれに気付かない母親なんて、存在し得るのだろうか……私だったら、と思うと、多分誰よりも先に兄の陽が気付くのではないか、という気がした。もし陽が気付いたなら、私を問い詰めずにはおかないだろう。誰にやられたんだ、と、必死の形相で私に尋ねるだろう。私がその相手を庇うことなんて、陽はきっと許しはしない。その理由は、いたってシンプルだ――陽が、私の兄で、私を大事に思っていてくれるから。陽がそうするであろうことなら、英は何の疑いもなく信じられる。
 だからこそ、私は「あの時」――この悪魔に全てを差し出した。
「……観雪さんを喰うつもり?」
 低く尋ねると、櫟原はその長い睫毛に縁どられた目を瞬き、笑みを深めた。
「だとしたら――どうする?」
「…………」
 英は俯く。
「……私はね」
 ぽつり、と彼女は言った。
「櫟原さんと取引したこと、後悔したことはないの」
 ――そりゃあ、櫟原さんに腹の立つことは数えきれないほどあるけれど。隙あらばその整った顔を引っ叩いてやりたいとは思っているのだけれど。それでも、兄の命を救うために自分の全てを悪魔の手に委ねたこと、心底悔いたことは今まで一度たりともない。
「だから」
 どうせなら、観雪さんにも悔いの残らない取引をしてほしいと思う――無論、悪魔の手など借りないことが一番に決まっているのだが。
 そう続けた英に、櫟原は少し驚いたような表情を向けた。――へえ、そんなことを君は思っていたの、とでもいうような。
「――なるほど」
 櫟原はその美しい形の両の目を僅かに細めた。
「君を僕の眷属にしたことは、間違いじゃなかったようだ」
「…………」
 私のほうは、間違いであってくれと心から祈っているけどね。英は内心でそう毒づきながらも、観雪の境遇を思い胸を痛めるのであった。

  ※

 それから二週間も経たぬうちに――英はロンドの前で観雪にばったりと会った。その日もまだ寒くはあったが、観雪は私服の上にダウンコートを羽織っており寒そうではなかった。彼女の表情も以前とは全く違って、晴れ晴れとしていた。
 ――悪魔と契約をしたのかしら。
 英は思わず足を止め、探るような眼差しを観雪に向ける。観雪は気を悪くする様子もなく英に笑い掛けた。
「この間はありがとう――本当、助かった」
「ううん……私は、何も」
 口ごもる英に、観雪は目を細める。
「七星さん、九暁高校か。……確かに、昔から頭良かったもんね」
 どこか、彼女を羨んでいるかのような声音。英はあえてそれに気付かないふりをして問い返した。
「村瀬さんは……?」
「私? 私は――あ」
 観雪は言いかけた言葉を途切れさせて、ポケットからスマホを取り出した。
「ママだわ。ごめん、またね」
 画面を一瞥して破顔し、長い髪を揺らして駆け出した観雪の後姿を見送って――英はふう、とため息をついた。
 肝心なことは尋ねられなかった。
 悪魔のこと――櫟原のこと。
「…………」
 英は顔を上げ、ロンドの、控えめで古ぼけた看板を眺める。
 重いドアを押してのろのろと店内に足を踏み入れると、いつもどおりそこは閑散としていて、しかしいつにない甘い香りで満ちていた。英は思わず鼻をひくつかせる。
「……何の匂い?」
「チーズケーキを焼いたんだけど。ひときれいる?」
 英は少し考え、そして答えた。
「……ちょっとだけ」
「食欲に正直な子は嫌いじゃないよ?」
 くすくすと笑いながら、櫟原はベイクドチーズケーキを切り分けた。英はいつもの席に座り、真顔になって櫟原を見つめる。
「どうかした?」
「……村瀬さんのこと」
「ああ」
 しらばっくれようとする様子もなく、堂々と櫟原は頷いた。
「彼女の願いなら、もう叶えてあげたよ」
「……そう」
 やっぱり。俯く英の前に皿とカップを置いて、櫟原は苦笑する。
「でもねえ、あんまりたいした願いじゃなかったから……あまり対価も貰えなかった」
「どういうこと?」
 英は顔を上げる。
「たいした願いじゃなかったって……」
「観雪さんはね」
 櫟原は空いたテーブルの上に片手をついた。
「――『ママと今の彼氏が別れてくれるように、もうママが暴力を振るうような人と付き合ったりしないように』って願ったんだよ」
 当然の願いだ、と英は思った。自分が彼女の立場だったとしても、そう願うに決まっている。英が怪訝そうな顔をしているのに気付いたか、櫟原は言い足した。
「僕は聞いたんだけどな――『母親と離れたい』って願わなくていいのかって」
「お母さんと……?」
 英は、何故、と思った。確かに、見て見ぬふりをする母親も問題かもしれない。けれど、そもそもはその暴力を振るう彼氏とやらが悪いのだ。母親も同じように暴力を受けていたとするならば、母親も被害者ではないのか。
「観雪さんがひどい目に合う元凶は、本当にその『ママの彼氏』とやらの存在のせいなのかな?」
「……どういうこと」
「もしその母親が心の底からその男と別れよう、別れたいと思ったなら、そうすることはできるんじゃないのかな。警察や行政を頼ってもいいわけだしね……。でも、それをしないでずるずると付き合い続けたのは誰の判断? 誰の責任?」
「…………」
 英は口ごもった。
「……でも、きっとそう簡単なことじゃないのよ……」
「きっと彼女の『ママ』もそう言うのだろうね」
 櫟原はあっさりとそう言った。
「観雪さんはまた遅かれ早かれトラブルに巻き込まれるだろう――彼女の『ママ』と一緒にいる限り」
「…………」
 英は視線を落とした。そういうものなのだろうか。暴力を振るうような性悪な彼氏さえいなければ、彼女らは幸せに暮らしていけるのではないだろうか――違うのだろうか。母親が娘の痣から目を背けている限り――気の付かぬふりをしている限り、同じことが繰り返されてしまうのだろうか。
「まあ、君が気にする必要はないよ」
 櫟原はあっさりとそう言い捨て、カウンターのほうへと戻っていく。その背中に、英は問い掛けた。
「それで……、何を喰べたの」
「たいしたものじゃない」
 櫟原は振り返らない――その背中から黒い羽根が伸び、英の視界にぶわっと広がったような気がした。
「僕らが最初に会った時、観雪さんの腕にあった痣。あれをあのまま、消えないようにしただけさ」
「……え」
 ――あの赤紫の、痛々しい痣。あんなものと一緒に、観雪は生きていくつもりなのか。振り向いた櫟原は、絶句した英の表情を見て、にっと笑った。
「たいしたことじゃないだろう?」
「……たいしたことでしょ」
 絞り出すように答えた英に、櫟原は、そう? と澄ました顔である。
「観雪さんは言ってたよ――『大丈夫、ママはこれに気付いてないから』ってね」
「…………」
 本当に、気付いていないのか。英は唇を噛む。櫟原はともかく、通りすがりの他人としかいえない自分だって気付いたのに。一緒に住んでいて気付かないなんてことが、本当にあり得るのだろうか……。
 母親さえ気付かなければ、それでいい。本当にそれでいいのだろうか……。
「ひとは見たくないものは見ないのさ。便利な目をしている」
 櫟原は囁く。
「――君もね、英ちゃん」
 私?
 英は目を瞬き、櫟原を見つめる。
 ――私が、何を見ないようにしているというのだろう。
「食べないの? チーズケーキ」
 促され、英は頷いてそれにフォークを突き立てる。そっと口に運ぶと、さわやかなクリームチーズの酸味とほどよく上品な甘さが舌の上でしっとりととろけた。
「……美味しい」
 思わずつぶやくと、櫟原は、よかった、と心底嬉しそうに笑う。――悪魔のくせに、そんな顔しないでよ。英は彼から目を背けた。こいつは悪魔だ。ひとの切実な、必死で祈り願うその心を弄んだ挙句に破滅に追いやって、その苦汁を美味しそうに喰らうひとでなしな――ひとでないのは自明なのだが――悪魔。

 ――ひとは見たくないものは見ないのさ。

 自分が一体何を見ないようにしているというのか……英にはまだそれが、わからない。