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第三話 アオイユリカ

 ロンドは寂れた喫茶店である。つぶれないのが不思議といってもいいくらいだ。店構えは古くさいし、店内はいつも仄暗い。椅子もかたい。何よりいけないのが、ここで働いている唯一のバイトが人間ではなく悪魔だということで、だが今のところそれを知るのはただひとり――七星英だけだ。
 七星英はどこにでもいる、特に変わったところもない女子高生である。不本意ながらロンドの常連客だが、当然ながら友人を連れてきたりはしない。何となく、悪魔の餌になるのではないかと、そんな恐れを抱かずにはおられないのだ。この悪魔、尋常ではなく整った顔をしていることだし、彼女の年代の少女たちにはちょっとばかり刺激が強すぎるのではないか、と英は危惧しているのだった。悪魔に恋するんて不毛だし、危険すぎる。
 というわけで、今日も英はひとりロンドを訪れていた。いつもなら彼女以外に客などいないのだが、今日に限っては違っていた。
「…………」
 英は扉を開けた姿勢のまま、きょとんと目を瞬く。狭い店内に、ぎっちりと十人以上の人がいた。人だけではない、何やらいろいろな機材――もしかして、テレビの撮影? まさか。
 立ち尽くす彼女に気付いた悪魔――櫟原が困ったような笑みを浮かべ、手を振った。
「英ちゃん、いらっしゃい。いいよ、入ってきて」
「あ……うん」
 何となく、こそこそと席に着く。いつも彼女が使う席には別の人物が座っていたので、彼女は隅っこのほうに陣取ることにした。ちらりとその席に座る人物を見遣る。ひどく華奢な、彼女より少し年上くらいの若い女性だった。どこかで見たことがあるような気がする。その彼女は、丈の短いワンピースからすらりと伸びた足を組み、不機嫌そうに手元のスマートフォンを弄っている。その機嫌をとるかのように、派手な黄色の眼鏡を掛けた男が声を掛けた。
「ごめんねえ、ゆりり。もうちょっとで直ると思うから。ね?」
「その呼び方はカメラ回ってる時だけにしてよ」
 彼女は顔を上げない。一応年上相手にそんな風に言わなくても、と英は思った。黄色い眼鏡の男は表情を変えない。
「コーヒーでも飲む? どう?」
「要らない。あたし、コーヒーはスタマしか飲まないから」
 大手のコーヒーショップ、スターマックスの名前を挙げ、彼女はため息をついた。スタマよりもここの方がコーヒーは美味しいんだけどな、と英は思う。
「で、まだ直んないの?」
「ん?」
 男が聞き返した。その口元が浮かべる笑みを見て英は、なんか嫌な感じ、と思った。あれは自分より確実に弱いものを甚振(いたぶ)ろうとしている、そんな表情だ。
 そして思い出す。あの子、ゆりりだ――アイドルグループからこの間卒業した、碧衣(あおい)百合香(ゆりか)。英自身はそのアイドルグループのファンでも何でもなかったが、そのグループの中で確か彼女の人気はかなり上位だったはずだ。やっぱり本物は可愛い、と英は思う。
「なに、ゆり――あ、いや碧衣ちゃん、この後仕事入ってた?」
「あ、いや」
 彼女――碧衣百合香は、少しだけ顔をしかめて目を逸らした。
「そういうわけじゃないけど」
「そう? でも碧衣ちゃんは売れっ子だからね、悪いとは思ってるんよ? この後もいっぱい仕事決まってるんでしょ? ん? ドラマの話とか、あるわけ? 映画とか? CMも、きっといっぱいオファー来てるんでしょ? ね?」
 男の口調は、ひどくねちっこい。碧衣百合香は彼を無視することに決めたようだった。しかし、彼女の指先は細かく震えている。それは怒りか、それとも別の何かか。多分、男の台詞は皮肉なのだろう。碧衣百合香は、実のところそこまで多忙なわけではない――つまり、彼女の仕事はそんなに、ない。
 英は知らず知らず険しい表情を浮かべていたのだろう、いつものラテを持ってきた櫟原がくすりと笑って彼女の眉間をつん、と人差し指でついた。
「どうぞ」
 ラテにはうさぎが描かれている。英はわざとすぐにティスプーンをカップに差し込み、ぐちゃぐちゃとイラストを崩した。――何だか、嫌な感じがする。あの男にだけではない。碧衣百合香というアイドルにも――そして、何となくではあるけれど――。
「櫟原さん」
 小声で名を呼ぶ。うん? と背を屈めた彼に、英は尋ねる。
「何なの、あの人たち。どうしてここにいるの」
「テレビか何かの撮影だったらしいんだけどね、機材トラブルなんだって。それで、時間を潰すためにうちに」
「なるほど」
 じろり、と英は櫟原を睨んだ。彼は微笑を浮かべ、彼女を見下ろしている。彼女の眼差しなど痛くも痒くもない、とでもいうようだった。事実その通りに違いない。
「どうかした?」
「もしかして」
 機材トラブルってあんたのせいなんじゃないの、と言い掛けた時、一気に店内が騒がしくなった。どうやら故障したという機材の代わりが届いたらしい。
「お兄さん、お邪魔しましたー」
 にこにこ笑いながら、例の黄色い眼鏡の男が数枚の万札をテーブルに置いて立ち上がる。
「そんなに頂くわけには」
 慌てたふり――英にはそうとしか見えない――をする櫟原に、男はいいから、と言って不器用なウィンクを投げて見せた。うげ、と思わず英は呻く。
「ところで、お兄さんさあ、モデルとか興味ない? 良かったら事務所紹介するし――あ、名刺置いとくね? 良かったら連絡してよ」
 男の声に、あたりが少しざわついた。あの男、その筋では有名人なのかしら。英は苦笑する。確かに、櫟原の顔ならばモデルでも俳優でも何でもこなせるだろう。だが残念なことに、櫟原は悪魔である。一度事故で死んだ英の兄を蘇らせる代わりに、英を自分の「奴隷」に貶めるような、極悪非道の悪魔なのだ。
 彼はひとの「何か」を喰らい、その代わりに願いを叶えてくれる悪魔だ。その「何か」は願いの大きさによって変わる。時にそれは四肢のいずれかであったり、あるいは視覚や味覚といった感覚であったりする。契約者から「何か」を奪うことによって彼らが感じる悲嘆や怒り、後悔などが実は櫟原のメインディッシュなのだというから、本当に悪魔というやつはひどい生き物だ。悪魔を生き物といっていいのか、英にはわからないが。
「はあ、どうも」
 櫟原は気のない返事を返し、そしてその眼鏡の奥から鋭い視線を一瞬、碧衣百合香に投げた。彼女は上着を羽織り、ふらふらと店から出て行くところであった。華奢な背中は、英の目から見てもひどく脆そうであった。
 いつもの静けさが戻ってきたところで、英は口を開いた。
「櫟原さん、ゆりり知ってるの?」
「ゆりり?」
 怪訝そうに櫟原が繰り返す。
「何それ」
「さっき見てたじゃん。あの、細くて可愛い女の子。アイドルなんだよ、あの子。碧衣百合香、でゆりりって呼ばれてるの」
「知らないなあ。テレビ、見ないし」
「あ、そうなの?」
 意外そうに英が言うと、櫟原は小さく噴き出した。
「もしかして、僕が普通にワンルームマンションか何かに住んでると思ってるの? 悪魔なのに? 部屋借りて?」
「あ、違うんだ」
「当たり前でしょ」
 櫟原はふん、と鼻を鳴らした。英はむっとしながら、話を元に戻す。
「でも、ゆりりのこと知らないならどうして見てたの? まさか、タイプとか?」
「……もしかして」
 櫟原は目を細め、英を見下ろした。
「やきもち?」
「死ね馬鹿」
 英は口汚く罵り、はあ、とため息をつく。
「そんなんじゃないけど、なんか――」
 まるで、あの時の櫟原の目は狩人が獲物を見定めているときのような――勿論、英は狩人など見たことはないのだけれど、何となくそういったものを髣髴とさせる、そんな眼差しだったのだ。
 櫟原はくすりと笑った。
「勘がいいね、英ちゃんは」
「褒められても嬉しくない」
「あの子、すっごく焦ってたんだよね。あの男にいろいろ言われていた時」
 櫟原は不意にそう言った。英ははっと息を呑む。本当は、あんまり仕事がないのだろうか。そういえば、彼女と同じようにグループから卒業したメンバーは、ソロ活動になってからいろいろと苦戦しているときく。女優を目指したもの、歌手に活動を絞ったもの、モデルを続けているもの――それぞれ、だんだんと表舞台から遠ざかっていっている、ように見える。もしかすると碧衣百合香も同じなのだろうか。今後の自分について、不安を持っているのだろうか。
 英は慌てて口を開いた。
「ね、ねえ櫟原さん、もしかして――」
 碧衣百合香を次のターゲットにするつもりなのか、と尋ねようとしたところでロンドの扉が開いた。レトロなドアベルの音が響く。
「英、待たせたな」
 大学帰りの陽である。
「遅くなったし、帰るぞ」
「……うん」
 英はのろのろと立ち上がる。櫟原はにこにこと笑いながら陽に話し掛けている。
「ねえ陽、惜しかったね。ついさっきまで、ここにゆりりがいたんだよ」
「ゆりり?」
 陽は怪訝そうな顔で櫟原を見遣る。兄はアイドルにあまり興味がない。彼が聴くのはもっぱら洋楽ポップスで、英も実は多分にその影響を受けている。
「だれだっけ? あるるとかくるりとかちりりとかいろいろいてよくわからん」
「それ、どれもいないよ」
 英はため息をつき、スクールバッグを持ち上げた。
「帰るよ、お兄ちゃん」
「おう」
 陽は櫟原にひらひらと手を振り、ロンドを後にする。英は店を出る前、ちらりと後ろを振り返った。そして、息を呑む。――あれは影だ。英はそう思い込もうとした。だが、その影はまるで櫟原の背に生えた漆黒の翼のように――壁の上に黒々と広がっていた。
 そして、櫟原の目は赤く光っている――。

  ※

 ひと月もしないうちに、碧衣百合香の名前はひどく有名なものになった。立て続けにドラマの出演が決まり、映画の主役に抜擢され、彼女をイメージキャラクターとして採用する企業が相次ぎ――テレビで、街で、彼女の顔を見ない日はない。
 誰もが揃って彼女を絶賛する。彼女の演技は素晴らしい、カメラの前で見せる表情が素晴らしい、声が、眼差しが、……。
「何を喰ったの」
 ロンドの中には、彼女と櫟原しかいない。櫟原はカップを拭いていた手を止め、ふ、と笑った。
「さあねえ、実力じゃない?」
「そんなわけないでしょ」
 と英は切り捨てた。
「悪いけど、ゆりりって子、アイドルとしては人気あったけど、多分それだけだった。グループを卒業したら消えるだろうって言われたらしいし……いくらなんでも不自然よ」
「詳しいね」
「あれから調べたのよ」
 英はきっぱりと言う。
「きっと櫟原さんはあの子の何かを喰らうと思ったから」
「アイドルを喰らうなんて、何だか卑猥だよね。まるであの男みたいだ」
「誤魔化さないで」
 追及する英に、櫟原は肩をすくめてみせた。
「それ知ってどうするの?」
「……どうするって」
 反問されることは予想していなかったらしく、英は戸惑ったように櫟原を見上げた。
 この間は碧衣百合香の座っていた席に、今はいつものように英が腰掛けている。
「君はそれを知っても何もできないでしょう? 今更、彼女を救うことはできない」
「――やっぱり」
 櫟原は英の怒気をあっさりと受け流し、嫣然と微笑んだ。
「知りたいなら教えてあげるよ。君は僕の共犯なんだしね?」
「共犯?! なんで」
 思わず英は立ち上がる。櫟原は微笑みを浮かべたまま、英を見下ろしている。
「君の兄を生かしているのは、僕の力なんだからね――僕が飢えて力が発揮できなくなったら、この歴史は元に戻ってしまうよ。僕の力であの時歴史を捻じ曲げたってこと、忘れないように」
 英は息を呑む。――櫟原がいなければ、兄はまた死んでしまう? 否、あの時死んだことになってしまう? これからずっとずっと、兄は――私たち兄妹は、櫟原に支配されるということ――?
 英の背中に、冷たい汗が伝った。
「その顔。やっぱり気が付いていなかったんだね?」
 櫟原は面白そうにくすくすと笑った。
「じゃあ、教えてあげるよ英ちゃん。僕が、彼女の何を喰らったのか――」
「ま、待っ」
 待って、と言い掛けたのを無視して、櫟原は言葉を続けた。
 
「僕が喰らったのは、彼女の『記憶』」

 英はえ、と聞き返した。櫟原はもう一度、言い直した。
「『記憶』――それも、人と関わった記憶。彼女はもう、人の顔も名前も、その人が自分に言ったこともしてくれたことも、覚えられない。その代わり、彼女はこの世で最大の名声を手に入れることができるだろう」
「え……? 記憶? でも、それじゃ」
「台詞やなんかは覚えられるよ。人に関わるものじゃなければ、覚えられる。そうじゃないと日常生活が送れない」
「人って、もしかして家族のことも? 忘れちゃうの?」
「そうだよ」
 櫟原は事もなげに言った。
「人に関わることは、覚えられない」
「…………」
 英は言葉を失った。
「そうまでしても……彼女……」
「彼女は選んだよ。彼女の『仕事』を――成功を収めることを、ね」
 櫟原は手慣れた様子で珈琲豆をミルで挽く。ほろ苦い、それでいて少し甘い、芳醇な香りが店内に広がった。
「でも、そんなの」
 困るに決まってる。家族のことを忘れて、友人のことも、誰のことも覚えられなくて、そんなの。
 私は嫌だ。何を与えてもらえるといわれても、そんなのは絶対に嫌。陽のことも、お父さんのことも、お母さんのことも、学校の友達のことも、先生も、誰のことだって忘れたくない。
 忘れてしまいたいのはただ一人、この目の前の――。
「ひどいなあ」
 櫟原は拗ねたように唇を尖らせる。
「僕のことも、忘れないでよ」
「忘れられないけど、忘れたいって言ってんのよ」
「忘れさせないよ」
 櫟原は微笑む。
「そんなことは、許さない」
「…………」
 英は眉を寄せ、もうすっかり冷めてしまったカフェラテに口をつけた。
「馬鹿だなあ、ゆりり」
 悪魔に支配されている私が言えたことでもないのかもしれないけれど……。

  ※

 その数カ月後、「記憶障害と闘う女優・碧衣百合香」として彼女を大々的に取り上げられる特集番組が放映され、そしてさらに彼女は名声を得ることになった。
 みんな、人の不幸な逸話が大好きだからこういうの受けるんだよね、と英は言った。とかく、不治の病だとか障害だとか災害だとか、そういったものに形ばかりの同情を寄せて涙を流すのが好き、という悪趣味な人口はそこそこ存在する。
 なるほどそう使うとはね、と笑う櫟原だったが、もちろん彼女はもう櫟原のことなど――悪魔のことなど忘れているのだろう。

 画面の向こうで可憐に微笑む碧衣百合香が、幸せなのかどうか――もし尋ねることができたとして、彼女は一体どう答えるのだろうか。
 だが、
 その質問をした者のことも、彼女は覚えてはいられないのだから。

 七星家の居間。碧衣百合香の特集番組を見ていた陽は、ぽつりとつぶやいた。
「俺、この子駄目だ。好きになれない」
 風呂上がりに髪をタオルで乾かしていた英は、ふと手を止める。
「そう? なんで?」
「なんかさ」
 陽の眼差しは、どこか茫洋としている。
「空っぽな感じがするんだよな――」
「…………」
 英はまじまじと画面の中の碧衣百合香を見つめる。
「そう」
 短く答える。
 多分、その通りだ。彼女には、誰の記憶もない。思い出もない。これから先も――だ。誰とも繋がらない。重ならない。それはつまり、彼女という存在が空っぽだということではないだろうか。彼女はもはや、ただ碧衣百合香という役を演じ続けるだけの、人形に過ぎないのでは――。
「本当、悪趣味」
 英はぽつり、とつぶやいた。