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第七.五話 カラゲンキ

 嫌な夢を見た。詳細は起きると同時に忘れてしまった、だがとにかく嫌な夢だった。

 七星英は女子高生である。品行方正とは言い難いかもしれないが、決して不良ではない。高校はまずまずの進学校で、成績は上の下か中の上。両親は共働きで兄がひとり、兄妹仲は普通……だと思う。いや、どちらかというと仲は良い方かもしれない。そうでなければ――兄と仲が良くなければ、或いは兄がいなければ、今頃自分はどうだっただろう。
 肩に何か重石を載せたような気分のまま、英はいつも通りに登校し、授業を受けて、そして友人とともに下校の途についた。いつものところで別れ、角を曲がって――英はそこで立ち止まった。
「……何してんの」
 そもそも重い気分が、更に重くなったような気がする。目の前に立っていたのは彼女の馴染みの喫茶店のアルバイト店員であり、彼女の日頃の悩みの種でもある青年、櫟原だった。
 そういえば、こんな風にまともに店の外で会うのは珍しい。
「英ちゃんを迎えに来たんだよ」
 その整った顔をにこりと微笑ませて櫟原は言う。英は訝しげに彼を見上げた。
「なんでよ」
「なんとなく?」
「店は?」
「うん? 今から戻るよ」
 君と一緒にね、と言われて英はますます眉間に皺を寄せた。確かに、櫟原のいる喫茶店は英がいつも立ち寄っては宿題を済ませる場所である。だが、こんな風に歓迎されると警戒心が湧いてくる。
 ――それもそのはず、櫟原は人間ではないのだから。
 櫟原はくすりと笑って英の眉間をその指先で突付いた。
「皺、取れなくなるよ?」
「うるさいな」
 英は彼の手を払い除け、言った。
「行くよ、行けばいいんでしょ!」
 いつもよりも敢えて張った声で言い返す。いつもより元気がない、なんて絶対に知られたくはない――この、彼女の命運を握っている悪魔だけには。

 櫟原は悪魔である。悪魔のような男、という意味の比喩ではない。悪魔そのものなのである。英にはオカルト趣味などないのだが、その目で動かしようのない事実を見てしまえば信じざるを得なかった。
 櫟原はひとの「一部」を喰い、それを対価として願いを叶える悪魔である。何のためにそんなことをしているのか、英は知らない。だが英もまたその契約を結び、まんまと彼の手下に成り下がってしまったのだ。だがその彼女の願いこそが、かつて失われかけた彼女の兄を生かしているのだ。そう思えばこの境遇くらい我慢できる、我慢してみせる。
「随分日が長くなったね」
「……だね」
 悪魔にも影があるんだな、と英は変に感心した。彼女のものと同じように、進行方向へと長く伸びている。その背には例の悪魔の羽もない。
「アイスカフェラテ?」
「うん」
「バニラアイスをおまけしてあげよう」
「何なの……親切な悪魔って怖いんだけど」
「うん?」
 警戒して声を上げた英を見下ろし、櫟原は瞬きをした。
「別に、他意はないんだけどね」
「……本当?」
 胡散臭そうに英は呟く。櫟原は頷いた。
「うん」
「……そ」
 英は足元に視線を落とす。
 ――夢の中でも、そういえば櫟原に会ったような気がした。なにか話したのか、どうだったか。少しも思い出すことはできないけれど。
 そういえば、と英は思いついた。
「ねえ。ひとの夢に悪戯なんて、してないよね?」
「英ちゃんの?」
 櫟原は聞き返し、笑った。
「昨夜見た夢のことかい?」
「えっ、じゃあやっぱり」
 あんたのせいなの、と食って掛かろうとした英を喫茶店「ロンド」の店内に押し込み、櫟原は笑いながら首を横に振った。
「僕のせいじゃない。何もしてないよ」
「だったらなんで」
 私が夢を見たって――悪い夢を見たって知っているの。
「悪い夢?」
 櫟原は意外そうに目を見開く。
「『悪い夢』を、見たのかい?」
「? そうだけど」
 中身は忘れちゃったんだけどさ、と言う英に、櫟原は変ににやにやとした笑みを見せた。英は顔を引きつらせながら彼から離れ、さっさと席に座る。どうせ客は他にいないのだが、彼女はいつもと同じ席に座った。
「なるほど、それで様子がおかしかったんだ」
「別に、そういうわけじゃないけど」
 強がっていたのを見透かされていたとしたら腹が立つ、と顔を背けた英の元に、芳しいコーヒーの香りが漂ってきた。櫟原が彼女のためにエスプレッソを淹れているのだろう。櫟原は、客に出すコーヒーには決して手を抜かない。悪魔のくせに生真面目なバイトである。
「僕は英ちゃんの夢の内容には干渉していないけれど」
 櫟原は笑みを含んだ声で言う。
「夢の内容は知っているよ?」
「覗き魔! へんたい!!」
「悪魔ですからねえ」
 英の罵声にも櫟原は悪びれない。
「教えてあげようか――聞きたい?」
「…………」
 英は思わず言葉に詰まった。
 ――自分の覚えていない悪夢を、櫟原にだけ知られているのはどうも癪に障る。だがこんなにも一日気が重くなるような悪夢だったのだ、わざわざ内容を再び知る必要があるだろうか。余計に気分が悪くなるだけではないだろうか。そもそも櫟原が本当のことを言うとも限らない。長く話せば話すほど彼のペースに巻き込まれていくのは、既に彼女も経験済みだ。ここは、あまり深入りしない方がいい。
 少しの間悩んだ英は、やがて結論を出した。
「いい。バクに食べてもらったんだと思うことにする」
「ふうん」
 櫟原は拍子抜けするほどあっさりと引き下がり、それがいいかもね、と言った。
 ――それとも、本当に櫟原が食べてしまったのだろうか? 英は疑う。もはや、それを確かめるすべはないけれど。
「お待たせ」
 櫟原が英の目の前に置いたアイスカフェラテには、約束通りにバニラアイスがこんもりと盛られている。
 英はぱっと目を輝かせた。――大丈夫、私は元気。これはもう、空元気なんかじゃない。
 悪夢なんかに、私は負けないから。
「いただきます!」
 英はアイスにスプーンを勢い良くつき立てた。

  ※

 カウンターの奥から英を眺めながら、櫟原はくすくすと笑う。
 ――悪い夢、ねえ。
 君の見た夢は、その手で僕を殺す夢だったんだけどな。まあ、それが本当に可能かどうかは別にして、ね。
 だからこそ、念の為に僕が食べておいたんだけど――悪夢として記憶していたとは、意外だったよ。君の様子を見に行っておいて良かった。いやはや、なかなか面白かった。
 君は僕を負かしたい。そして、兄のことも救いたい。君は、僕から自由になりたい。そのはずだ。
 それでもやはり、僕を殺すことには――滅ぼすことには躊躇いがあるのだろうか。
 もしその機会が訪れたとして――君はちゃんと、僕を殺せるのかな?
「甘いねえ」
 指先についたアイスをちろりと赤い舌で舐め、櫟原は呟く。
「ごちそうさま」
 君の悪夢とやらも、その空元気も。
 今はまだ、全部、僕の大好物。