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第七話 ナカタカズオ

 この街には悪魔が棲む。それを聞いたものが信じるかどうかはともかく、残念ながらそれは動かしようのない事実である。
 七星英はというと――信じるも信じないもない。彼女はその悪魔をよく知っている。その悪魔は街の寂れた喫茶店でバイトをしていて、一応英の兄である七星陽の大学の同級生でもあるらしいが、正直英は彼がまともに通学しているはずなどないと思っていた。
 悪魔の名は櫟原という。下の名前は知らない。聞く気もない。彼は人を喰らう悪魔である――ただし文字通り喰べるのではない、彼は人の「願い」を叶える対価として、その者の「一部」を奪う。英は既に何度か悪魔と契約した者を見た。奪われたものは例えば味覚、或いは記憶、或いはもっと別の何か。今本人たちはそう思っていなくとも、本当はきっと大切なものたち。
 しかし忘れてはならないのは――忘れておきたいのはやまやまなのだけれど――英自身もまた、櫟原と契約してしまっているのだ、ということである。英自身に悔いはないが、この先いったい自分がどうなるのか、不安がないといえば嘘になる。
 ――まあ、それはそれとして、だ。
 英はアイスカフェラテをすすりながら、櫟原とカウンターを挟んで向き合う男とのやり取りを横目で見遣った。夏服にカーディガンというこの格好で冷たい飲み物を飲むのが、今の季節にはちょうどいい。
「ですから、僕には何のことだか」
 櫟原は困惑したような顔をしている。その目の前の男は、英の父親よりは年下だろうか、しかし彼女や兄よりは随分と年上である。中年といっていいだろう。ややくたびれたスーツに包んだその身体を、カウンターを乗り越えんばかりに乗り出している。
「しらばっくれるな! こっちは必死なんだよ!!」
「……と、言われましても」
 櫟原は気弱そうな笑みを浮かべている。演技派だなあ、と英は呆れたように思った。
 しかし男は引き下がらない。
「なあ、ここに来れば悪魔に会えるって聞いたんだよ。あんた、何か知ってるんだろ?!」
 その目の前の男が悪魔だよおじさん、と英は思う。だが口に出さない。勝手なことをして櫟原を怒らせるのは面倒だし、そもそも彼女は誰も悪魔の餌食になって欲しくなどはない。ただ、解せないのは櫟原が目の前にある「餌」に敢えて手を出そうとしないことだ。自ら悪魔との面会を望む人間などそんなに多いとは思えない。いつものようにさっさと契約して、何かしら喰ってしまってもいいはずなのに、何故そうしないのだろう。
 肘をついてぼんやりと男の背を眺めていると、不意に男がぐるりと振り返った。つかつかと英のところに歩み寄ってくる。
 さすがにおびえて体を引く英の目の前に立ち止まり、だん、とテーブルの上に両手をつく。
「なあ! 君は何か知らないか?!」
「えっ、あの……」
 困惑した英が櫟原をちらりと見る――しかしカウンターの奥に彼の姿はなかった。どこに行ったのかとあたりを見渡す間もなく、聞き慣れた声がした。
「困りますよ、中田さん」
 櫟原がいつの間にか男の――彼の名は中田と言うらしい――すぐ背後に立っていた。その声は変わらず温和である、しかしどこかひやりとした凄みを宿しているような……。
「彼女はうちの常連さんなんです。大切なお客様に、そういうのは困ります」
 大切なお客様だって、よく言う。英はせせら笑うつもりで櫟原を見上げた――その背筋が凍りつく。
 櫟原の口元は、うっそりと笑っている。だがその目は少しも微笑んでいない。あの、例の色。時に英の前で見せる、真っ赤な血の色――。
「うっ」
 中田と呼ばれた男は小さく呻く。
「今日はお引取りください。……どうしても気が済まないようでしたら、また日を改めて」
 櫟原は囁くように言い、そして中田の背をとん、と叩いた。中田は振り返りもせず駆け出し、店の扉を乱暴に開け放って出て行った。
 激しく打ち鳴らされたドアベルの残響。
「……なんなの、あのおじさん」
 英はぼそりと言った。先ほどまで店内を満たしていた不穏な空気は既にない。彼女はほっと肩の力を抜いた。こんな時、思い知らされる――櫟原はやはり、悪魔なのだ。日頃彼が英の暴言を笑って聞き流しているのは、それは英が彼にとって取るに足らない力しかない存在だから。繋がれた子犬が少しくらい吠えたとしても本気で相手にするわけがない、といったところなのだろう。腹立たしいが、きっとその喩えは大きく外れてはいないと思う。
 櫟原は英の前のテーブルに腰を預けるようにして立ち、手をついて彼女を見下ろした。
「見ての通りだよ。悪魔に会いたいんだって」
「何のために?」
「さあね」
「……会ってあげないの」
 悪魔として。英はちらと櫟原を見上げた。今はもう、彼の気配は怖くない。櫟原は眼鏡の奥の目を細めて笑った。
「へえ、みすみすあのおじさんが悪魔の餌食になるのが見たいってことかな? いい趣味になってきたね、英ちゃん」
「ち、違う!」
 英は櫟原を睨む。
「そうじゃない、けど。ただ、不思議なだけ」
「…………」
 櫟原は右手の親指の先で、つう、と自分の唇をなぞった。
「まあ、簡単に言うと……そう、こっちにも選ぶ自由ってものがあってもいいと思わない?」
「どういうこと?」
「ああいう、最初から悪魔と契約して何か願いを叶えて欲しいって思ってる人間ってねえ」
 櫟原はその赤い舌をちらりと覗かせる。
「あんまり、美味しそうじゃないんだ」
「……あ、そう」
 英は櫟原から目を逸らした。手元の数学のノートに目を落とす。さあ、さっさと積分計算を……。
「でもまあ、あんまりうろうろするようなら」
 櫟原の手が少し伸びた彼女の髪にさらりと触れる。英がびくりと振り払おうとするのを、櫟原は許さなかった。
「面倒だからさっさと喰べてしまおうかな?」
 にっこりと笑って英を見下ろすその顔は、いくら美しかろうがやはり忌まわしい気配をまとう悪魔のそれだった。

  ※

 英がその中田という男と再会したのは、数日後のことだった。櫟原の勤める喫茶店、ロンドに向かう道である。
 あ、と言って立ち止まった英に、中田は小さく会釈して見せた。
「…………」
 困惑して立ち尽くす彼女に、中田は困ったように笑う。
「この間はすまなかったね」
「……いえ」
 決して人通りの多い道ではないが、それでも立ち止まった二人を避けるように何人もの人々が通り過ぎていく。だが、ふたりはどちらともなくそこを動こうとはしなかった。
 中田は先日とは打って変わって物静かな声音で話した。
「……あの店に行くのかい」
「は、はい。兄と待ちあわせをしているので」
 それは嘘ではない。中田は、そうか、と呟いた。その顔には、特にこれといった特徴はない。普通の、多分四十前後の男性である。
「……あの、」
 英は意を決して尋ねる。
「何で……その、探しているんですか。私、その噂のことはよく知らないですけど……でも、そんなの、いるはずないし」
 悪魔、とは敢えて口に出して言わなかった。少し不自然だっただろうか、と不安になる英だったが、しかし中田は気にした様子もなくかすかに笑った。
「……そりゃそうだよねえ、僕みたいなおじさんが悪魔を探してうろついてるなんて、どうかしてると思うだろう?」
「そういうわけじゃ、ないですけど」
「でも、他にもうどうしようもなくてね」
 中田は笑っている。だが――泣いている、と英は気付いた。夕焼けを背にして、中田はその目を空と同じ色に染めている。
「どうしてもお金がいるんだ。理由はともかく、どうしても」
 中田は言う。
「何を引き換えにしたっていい。とにかく僕は金がいる」
 今日もこの前と同じようなスーツを着ているが、彼は仕事をしていないのだろうか。何故そんなにもお金がいるのだろう。普通に仕事をして稼ぐのでは駄目なのだろうか。
 だが、英にはそれ以上聞けなかった。聞いたところで、彼女には何もできない。
 中田は自嘲の笑みを浮かべた。
「僕はね、悪魔なんて荒唐無稽なものにでも縋りたくなるくらいに、切羽詰まっているんだよ」
「…………」
「この魂だろうが、身体だろうが、生命だろうが、何だって僕は差し出す。それだけの覚悟はできてる」
 英は何も言えなかった。――この人は、本気だ。
「……それだけ。この前はほんと、ごめんね」
 中田はまた弱々しい笑みを見せ、そして英に背を向ける。
 英は呼び止めそうになり、しかしやめた。呼び止めてどうする。本当はあの喫茶店のバイトが悪魔なの、そう伝えたところでどうなる? この人の良さそうな、気の弱そうな、それでいて芯の強そうな――中田という名前の中年男性が悪魔によってひどい目に合う、そのお膳立てをするというのか? いくら本人がその覚悟を決めているといっても、そんなのは違う。それは駄目だ。
 だから――これでいいんだよね、きっと。あの人は悪魔に会わなくて――ううん、悪魔に見逃してもらえて、良かったんだよね。
 英はため息をつき、小さくなる中田の背中を見送った。

  ※

 英がロンドを訪れると、店に甘い匂いが充満していた。
「なに、この匂い」
「レアチーズケーキ、作ったんだ。冷たくて美味しいよ。食べる?」
「うん!」
 と思わず機嫌よく返事をした後で、英はげっそりと肩を落とす。しまった、悪魔におやつをもらって喜んでどうする。
「どうかしたの?」
 櫟原は英をじっと眺め、やがてにっと唇を吊り上げた。
「ああ、会ったのか。中田さんに」
「……なんでわかるの」
「そりゃあ、わかるよ」
 櫟原はチーズケーキを一切れ載せた皿と、アイスカフェラテを手に英に歩み寄った。いつも彼女が使うテーブルの上にそれらを置き、腰に巻いたカフェエプロンで軽く手を拭いて身を屈めた。英の目の高さに己の視線を合わせ、微笑む。
「君は僕の眷属なんだからね? わかるに決まっているさ」
「…………」
 英は背を反らして櫟原から距離を取った。目を伏せ、呟く。
「お金が欲しいんだって。何を取られてもいいから……とにかくお金が要るんだって」
「へえ?」
 櫟原は興味もなさそうに答えた。
「それで?」
「……それだけ、だけど」
 理由は聞かなかったし、と英はもごもごという。
「そう。――はい、あーん」
 フォークに刺したチーズケーキを差し出され、英は顔をしかめた。
「いいよ、自分で食べるから」
「ん? 何、照れる?」
「照れるか馬鹿!」
 英は噛みつくように言うと、そのままの勢いでケーキを食べた。冷やされたそれは甘みも程よく、少しレモンの風味も効いて美味しかった。それがまた、腹立たしい。
 櫟原はくすくすと笑った。
「やっぱりそうでないとね、英ちゃんは」
「うるさいわね」
 英はじろりと櫟原を睨む。
「で? 結局何だったの。なんで中田さんは見逃したの」
「見逃してなんていないよ?」
 櫟原はその同じフォークでもってチーズケーキを切りわけ、自分の口にひょいと放り込んだ。
「彼が欲しがっているものも、そもそも僕は知っていたしね」
「じゃ、じゃあなんで……」
 英は思わず詰め寄った。櫟原はうん? と首を傾げる。
「英ちゃん、あの中田さんて人を僕に喰べさせたかったのかい?」
「そうじゃない、けど」
 英はまた俯く。――上手く言えない。上手く言えないけれど、何かが理不尽だと思ったのだった。
「答えてあげようか? 何故僕が彼の願いを無視したのか」
 櫟原の指に、ぐい、と顎を持ち上げられて、英は目を瞬いた。彼の長い睫毛に縁どられた瞳が、ひどく近い場所にある。
「簡単なことだよ」
 櫟原は笑う。

「彼の願いに見合うだけのものが、彼にはないから」

「……は?」
 英は聞き返した。
「それ、どういうこと?」
 ついでに櫟原の手を払い、彼から一歩遠ざかる。
「うん? そのままの意味だけれど」
 櫟原は気にした様子もなく小首を傾げて見せる。
「言ったよね? 願いを叶えるにはそれに見合ったものを差し出してもらう必要があるって。君もその目で何度か見たでしょう?」
「すっごく不本意だったけど、ね!」
 英の精一杯の抗議にも、櫟原は顔色一つ変えない。
「とにかく、さ。あの中田さんの何をもらっても、彼が望むようなお金は出せやしないんだよ」
「……そんな」
 英はつぶやく。――つまり、それだけの価値があの人にないってことなの?
「そんな……」
「たとえ彼が命を差し出しても」
 櫟原は冷ややかに言った。
「僕は彼の願いは叶えない」
「…………!」
 英はぐっと拳を握りしめた。
 ――命は何より尊いのだと、お金では買えない価値があるものなのだと、彼女はずっとそう聞かされて育ってきたし、疑いもなくそういうものなのだと思ってきた。それなのに……それなのに。この悪魔はあっさりとそれを否定する。
「……そんなに、たくさんお金が必要だったの?」
「そうでもない。正直」
 櫟原は鼻で笑った。
「彼の命をもらったところで、僕はびた一文払わない」
「ちょっと!」
 英は声を荒げる。
「そんな言い方って……!!」
 櫟原は彼女が彼の胸ぐらを掴むのを止めようともせず、落ち着き払った調子で尋ねた。
「じゃあ逆に聞くけど」
 櫟原の目が、赤く光った。
「君は自分の命にどれだけの価値があると思ってるわけ?」
「…………」
 英はぱっと手を離す。ぎりぎりと彼を睨みながら、英は言った。
「わからない。自分のことは……わからない。でも」
 床を踏みしめ、英は声を荒げる。
「お兄ちゃんの命は何物にも代えがたいわ……! だから私はあの時、」
 ――あんたに全部差し出したのよ!!
 それを聞いた櫟原は、ひるむ様子もなく微笑む。
「なるほど」
 ――確かに、君や君の兄の命なら良い値がつくだろうね。
「あんたに人の命の価値の何がわかるってのよ!」
「わかるよ? 悪魔だからね」
 櫟原はあっさりとそう言い、そして英の食いしばった口元をつんつん、とつついた。
「まあ、少し見てなよ。僕の言った意味が分かるから――」
 今日はもう帰りなさい、陽ももうすぐ来る。
 英は鞄をひっつかみ、ドアに向かった。
「英ちゃん」
 名を呼ばれ、彼女は足を止めた。しかし、振り返らない。
「君の命は」
 悪魔の声が、彼女に迫る――。
「僕が大事にしてあげるからね?」
「…………」
 英はそのまま振り向くことなく、「ロンド」を後にした。

  ※

 それから半月もしないうちのこと。食卓に無造作に置かれていた新聞の社会面にごく小さな記事を見つけて、英は凍りついた。
「……中田、一男(かずお)
 四十二歳。駅から線路に飛び込み即死。中田、別に珍しい名前ではない。だが、彼女は直感的に思った――きっと、これはあの中田さんだ。
「…………」
 どちらが先なのだろう、と英は思う。
 すぐに死ぬ命だったから、櫟原は要らないといったのだろうか。それとも櫟原に要らないと判断されたから彼は死んでしまったのだろうか。
 どちらにしても――。
 英はつぶやく。
「名前。かずおっていうんだ」
 こんな形で知りたくはなかった。知らなければよかった。
 英は目をこする。たいして何も知らない私が、この人のことを何か言う資格はない。けれど――けれど。悼むくらいは、きっと許されてもいい。
「英、どうかしたか?」
 背後から掛けられた兄の声に、英はううん、と言った。
「何でもない」
 そうとしか、言えなかった。