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第一話 ナナセハナ

 バクという生き物は、夢を食べるという。初めてその話を聞いた時、彼女は幼いながらに不思議に思った。夢とは、どんな味がするのだろう。良い夢は甘く、怖い夢は苦いのだろうか。どれくらい食べればお腹が膨れるのだろう。一日何人分くらいの夢を食べるのだろう。三つ年上の兄に尋ねたが、兄は面食らったように目を見開いて、お前は変なことを考えるなあ、と言っただけだった。両親にも尋ねたか、どうか。記憶はない。
 なぜ彼女がそんなことを思い出したかというと――彼女の高校で、少し前からある奇妙な噂が流れているからだった。
 曰く、この街には「悪魔」がいる。
 「悪魔」はその人の願いを叶える代わりに、その人の一部を食べてしまうのだ――と。夢を食べるなどというバクよりも、ずっと剣呑な話である。
 だからといって、「悪魔」に食べられたという人の名が具体的に語られたり、どこをどう食べられただとか、そういったりした話は伝わってこない。噂とはそういうものなのだろう。彼女からその噂話を聞いた兄は、そりゃいわゆる都市伝説のようなものじゃないか、と笑っていた。何年かごとの周期で流行る、学校の怪談。そんなようなもの。
 彼女もそう思っていた。自分には関係ないことだ、と。
 七星(ななせ)(はな)。十七歳の秋であった。

  ※
  

「さっぶ!」
 英は路地裏のとある店に飛び込み、いつもの席にどさりと鞄を投げ出した。まだ十月だというのに、彼女の短めのスカートから伸びる脚は冷えきって青白い。彼女のボブヘアも、冷たい風にひどく乱されてしまっていた。
「いらっしゃい、英ちゃん」
 バイトの櫟原(いちはら)が顔を覗かせ、微笑む。客はいないが、これはいつものことだった。
 櫟原は兄の(はる)が大学で知り合ったという友人で、英は兄を通じてこの喫茶店を――「ロンド」という名の店を知ったのだった。古い店で、マスターもかなりの年配である。店はほとんどバイトの櫟原に任せきりといった様子で、櫟原の空き時間がここの営業時間のようなものである。なぜわざわざ櫟原がこんな潰れかけているような寂れた店を選んでバイトしているのか、兄も英も訝しんだ。何しろ、櫟原ときたらちょっとした芸能人では敵わないくらいの美貌の持ち主で、古風な黒縁の眼鏡を掛けてはいるがその程度では誤魔化しようがない。もう少しまともな店で働けば、彼のファンだけで客は何倍にも増えるのではないかとすら思う。櫟原は笑って否定していたけれど。
 容姿端麗で成績優秀、性格も温厚。何故櫟原のような完璧な男が欠点だらけの兄の友人なのか、英は不思議に思った。完璧すぎて、英は彼に恋をする気も起こらなかったくらいだ。近くで眺めているくらいがちょうどいい。
「まあ、いろいろ苦労したのかもな。顔立ちが派手だから、地味なところが居心地いいんだろ」
 そういう兄に、英は思わず言い返したものである――お兄ちゃんも割と地味だもんね? もちろん、後頭部をはたかれた。別に本気で兄が地味だとか、不細工だとか、そういうわけではない。二年前の大学デビューと同時に明るく染めて短くセットするようになった髪も決して不似合ではないし、基本的には年齢相応に身綺麗にしている。ただ、相手が悪いのだ。
 櫟原は小首を傾げ、英に尋ねた。
「いつものでいい?」
「ん!」
 英は頷き、数学の宿題を取り出した。この店で宿題をしながら大学帰りの兄を待ち、一緒に家に帰る。それが、夏以降の英の日課だった。彼らの両親は共働きで、帰宅時間も不規則だ。陽と英、揃ってふたりで夕食をとる、それが昔からの家族の形だった。兄が自宅から通える大学を選んで進学したのも、もしかしたら彼女のために――だが、英はその考えを兄に確かめたことはないし、これからも確かめるつもりはなかった。その必要は、多分ない。だからこそ、自分は兄の帰りをここで待つのだから。
 櫟原が大きなマグカップを持って来る。英はそれを覗き込み、歓声をあげた。
「かわいい!」
「今日は猫、ね」
 カップの中の猫は三毛で、片目をつぶっている。櫟原の器用なラテアートは、英のこの店に立ち寄る楽しみでもあった。
 英は数学のノートを広げたまま、ふと櫟原に声を掛けた。
「櫟原さん、知ってる? 悪魔の噂」
「悪魔?」
「そう! お願いを聞いてくれる代わりに、その人の何かを食べちゃうっていう悪魔の話」
「へえ」
 櫟原は長い睫毛を瞬かせた。
「食べられた人がいるの?」
「いるんだったら大騒ぎよ。あくまで噂」
「そりゃあそうだね」
 ははは、と明るく笑う。美形なのに、嫌味がない。でも、そこがもう、嫌味なのよ。英は内心で密かにそう思った。
「悪魔って魂を食べるんじゃないの? 悪魔に魂を売る、っていうものね」
「さあ、どうなんだろうね」
 どうせこの店の支払いは兄だ。英はカウンターに並べられているクッキーを一枚所望した。チョコレートチップが練りこまれている。さくっとした歯ごたえと、しっとりした味わい。
 英は恐る恐る尋ねた。
「これ、櫟原さんが焼いたの?」
「うん、そうだよ。味はどう?」
 英は美味しい、とつぶやき、そしてため息をついた。
「神様ってずるいわ。櫟原さんにいろいろ与え過ぎ。顔も頭も良くて料理もできるとか、何なの? お兄ちゃんに喧嘩売ってる? お兄ちゃんなんてね、顔も頭も普通だし運動はまあ、できるほうだったけど何かの選手になれるほどじゃないし」
「英ちゃん、後ろ」
「料理はまずくはないけどうまくもないっていうか、あ痛!!」
「お兄様の悪口を言う口はこの口かああああ!!」
 背後から思い切り頬を両側に引っ張られ、英はくぐもった悲鳴を上げた。
「ごめ、お兄様許して……!」
 見上げた先で、怒りの形相の兄がぎりぎりと歯を鳴らしている。
「てめえ、ばらすぞ。昨日風呂上がりに計った体重は、」
「いやあああああやめてえええええ」
「はーる」
 櫟原が取りなすように兄の名を呼んだ。
「お疲れ。コーヒー入れようか?」
「おう。アイスで頼むわ」
 急いで来たのか、陽は英の頬から手を離し、額の汗を拭った。外は寒いのに、と英は思う。
「で、何をいちゃいちゃしてたんだお前ら」
「いちゃいちゃなんてしてない」
 英は冷たく一刀両断した。櫟原はうんうん、と頷く。
「そうだよ、陽。英ちゃんは隣のクラスに――」
「櫟原さん!!」
 英は慌てた。それは以前うっかりと彼女が櫟原に漏らしてしまったこと――隣のクラスのとある男子が気になるのだ、という、他愛もない話だ。だが、案の定兄は血相を変えた。
「ちょっと待て櫟原それ詳しく聞かせろ」
「何でもないってば!!」
 そう――それはまさに「何でもない」日常。そのかけがえのなさに英が気付くには、もうわずかばかりの時間が必要だった。

 日が落ちるのも、随分早くなってきた。七星兄妹は並んで家路につく。長く伸びた影が、彼らの道標のように真っ直ぐに前を指していた。
 しばらく黙っていた陽が、やがて口を開いた。
「英。あの、例の悪魔の噂だけどさ」
「うん」
 英は顔を上げる。櫟原は彼ら兄妹が似ているというが、英には良くわからない。
「最近大学でも聞いたんだ」
「へえ、そんなに広まってんだ」
 軽く応える英だが、何故か兄は緊張したような顔で、じっと前を見据えている。
「俺の知り合いじゃないんだが……友達の、知り合いで。少し前に彼女に手ひどくふられた男が、復讐したいとかなんとか馬鹿なことを喚いていたらしい。そいつが、ある時ばったり大学に来なくなった」
 夕焼け空に、烏が鳴く。
「それ、どういう――」
「しばらくして、そいつは見つかったんだけど……両膝から下を切断する大怪我をしていたらしい」
 英の背筋が、ぞくり、とした。
「で、そいつをふったっていう女の方だけど……」
 陽は真剣な顔で、じっと宙を睨んでいる。
「揚げ物中に火事になって、顔に大火傷したんだってさ」
「ぐ、偶然でしょ」
 英は声を絞り出すようにして言った。
「そんな、まさか……」
「だよな」
 陽はそう言うが、その表情は硬い。
「俺もそう思う……思いたい、けど」
 似たような話が、他にもあるとしたら。
 先輩に研究成果を奪われて失意に沈んでいた大学院生が、突然聴覚を失った。それと前後して、先輩は急に大学院を辞めた――その理由は、誰にもわからなかった。
 とある高校の女子学生が、突然原因不明の貧血で入院した。その直後、以前彼女と「親しく」していた男子学生が交通事故に遭った……。
 他にも、ちらほらそんな話があるのだという。
「誰かが何かを失くして、その分因縁のある誰かに不幸が起こる。そんなこと、そうそううまく起こるもんじゃないだろう」
「じゃあ、お兄ちゃんは悪魔なんてものを信じるの?」
 英は唇を尖らせた。
「ありえない。望みを聞いてくれる代わりに何かを奪う悪魔? 漫画か何かの見過ぎよ」
 陽はふ、と表情を緩めた。困ったように頭をかく。
「まあ、なあ」
 英は大きく頷き、一歩大きく踏み出してくるりと振り返った。兄を見上げ、笑ってみせる。
「それに、もしそんな悪魔がいたとしたって、私たちには関係ないわよ。そうでしょ?」
「そうだな」
 陽は鷹揚に笑う。
「関係ない」
 瞬間、クラクションが響き渡った。振り返ったその目の前に、トラック――それを遮るように、兄の身体。
「はな!!」
 英の身体が吹っ飛び、激痛が全身を打ちのめす。
 彼女は意識を失った。

  ※

「死人は喰えない。残念だ」
 朗らかな声。英ははっと目を開けた。
「やあ、英ちゃん。ひどい目にあったねえ」
 ここは喫茶店、ロンド。英はいつもの制服を着て、いつもの席に座って、櫟原の顔を見上げている。少し曇った窓から差し込む茜色の夕日が、ふたりを染め上げている。
 だが、いつもと違うところがあるとすれば――。
「櫟原さん……、何そのコスプレ」
 英の声が震える。笑い出したいと思ったのに、できなかった。いつもどおりの櫟原の笑顔。なのに今はそれがひどく怖い。身体中が寒くて、がたがたと震えていた。
 櫟原の背中には、漆黒の翼が生えていた。蝙蝠のようなそれではなく、鳥に似た羽根。だがその姿が連想させるものはただひとつ――。
 櫟原はその長い人差し指を天に向けて立て、カップの中をかき混ぜるようにくるくると回してみせた。その顔を彩るのは、いつもの温和な人好きのする笑みではない。どこか人を喰ったような、それでいて威圧的な、どうしようもなく見る人を落ち着かなくさせる、そういった表情だった。
 櫟原はカウンターにもたれ、ゆっくりと口を開く。
「君たちはあの後、居眠り運転のトラックに跳ねられた。英ちゃんは奇跡的に全身打撲程度で済んだみたいだけど……」
「な、」
「陽は、ね……」
 櫟原は肩をすくめる。
「残念だった。彼の近くは居心地が良かったんだけど。影は光と共にあるに限る」
「何を言ってるの!!」
 英は椅子を蹴立てて立ち上がり、櫟原の首根っこを引っ掴んだ。
「お兄ちゃんがどうしたっていうの?! ふざけないでよ!!」
「ふざけてなんていないよ」
 櫟原は彼女を冷ややかに見下ろした。英の背中に、冷たい汗がどっと流れる。
「七星陽は、即死だ」
「は……?」
 何を、馬鹿な。笑い飛ばしたいと思うのに、できない。英の口からは、引きつった音が漏れ出しただけだった。
「これは君の夢。僕は君の夢に干渉しているだけだよ」
「ゆ、夢だからって」
 いくら何でも、酷すぎる。
 英は震えながら櫟原を睨みつける。涙で視界が曇るが、それでも目は逸らさなかった。
「そんなの、嘘よ。嘘に決まってる……!」
「夢から醒めれば、君は現実を知るだろう」
 櫟原の瞳が、妖しく赤く煌めいた。そういえば、彼はいつもの眼鏡をかけていない……。
 その瞳の中に、英は見た。英と肩を並べて歩く陽。鳴り響くクラクション。突っ込んでくるトラックと、彼女を突き飛ばす陽。地面に叩きつけられる陽は、夥しい量の赤に塗れて――。
 ああ、これは。
 現実だ。
 気を失う前、彼女は確かにこの光景を目にしていた……。
「君は現実を知り、そして――絶望する」
 絶望。うっとりとその言葉をつぶやき、櫟原は艶然と微笑んだ。
 こんな顔をする櫟原は知らない。兄と彼が知り合い、自然と英も彼を知るようになって――約二年。櫟原は、一度だってこんな風に英に接したことはない。英に対しては常に控えめで、兄の友人としての立場を崩すことはなかった。
 それなのに――今の櫟原は、全く違っていた。
「まあ、君のような芯の強い子の絶望も美味しそうなんだけれど……」
 櫟原の顔が近付く。英が避ける暇もなく、濡れた生温い感触が頬に触れた。涙を吸われた、そのことに気付き英の身体は総毛立つ。
 櫟原は少し顔を離して濡れた唇を舐め、じっと英の顔を覗き込んだ。
「今日君が教えてくれた噂の悪魔は、僕のことだよ」
「え……?」
 英はぽかんと口を開けた。
「ひ、人の一部を食べて、その代わりに願いを叶えてくれるってやつ……?」
「そう、それ」
「願い……を……」
 英ははっと息を呑んだ。
「願いを叶えてくれるの?」
 櫟原は英を見下ろしたまま、にい、と唇を横に引いた。
「何かと引き換えだよ、英ちゃん。釣り合うものを貰えなければ、僕は人間の願いなんて叶えない」
「何が釣り合うの」
 英はぐいと顔を拭った。泣いている場合ではない。
 陽は英を庇ってくれた。今度は自分の番だ。
 櫟原の顔が、面白そうに歪んだ。
「話が早いね。――君の望みは?」
「七星陽の命」
「命だけ助けるなら、そうだね――」
「待って」
 英は櫟原を遮り、眉を寄せた。
「助かっても寝たきりとか、そんなのは嫌よ。元通りにして――事故なんてなかったことにして欲しい」
 櫟原は呆れたように笑う。
「別に構わないけど、その分代償が大きくなるよ? いいの?」
「何でもするし、何でもあげるわ」
 英はきっぱりと言った。
「でも、お兄ちゃんにはばれないようにして」
 兄は英に異変が起こればきっと気付くだろうし、気付いてしまえば悲しむだろう。だから、英はこの取引を兄に知られるわけにはいかないのだ。
 櫟原はやれやれ、と髪を掻いた。
「注文が多いなあ。面倒くさいったらないよ」
「…………」
 英はじっと櫟原を見つめる。いつの間にか、体の震えは止まっていた。
 しばらく考えたあと、櫟原はくすりと笑った。
「わかった。じゃあ、君をまるごと僕の所有物(もの)にしよう」
「はあ?」
 英は思わぬ単語に声を上げた。所有物?
「ど、どういうこと?」
「うん? そのままの意味だけど」
 櫟原は屈託なく微笑む。
「なんて言えば正確かな……非常食……ううん、少し違うか」
「パシリ?」
「いや、手下? むしろ奴隷かも」
「最悪……何それ」
 心底嫌そうに顔を歪めた英を見下ろし、櫟原は言う。
「嫌なら辞めても良いよ。悪魔の奴隷なんて、ぞっとしないでしょ? しかも一生、いや、もっとだな。死んでからも、君の魂は僕のもののままなんだから」
「死んだ後のことなんて、どうでもいいわよ」
 英は眉をしかめたまま尋ねた。
「……私は何をすればいいの」
「別に? これといってまだ決めてはいない。まあ、しばらく僕は人間界にいるつもりだし、人間の手駒が欲しかったからちょうどいい」
 櫟原はあっさりとそう言った。
「君は、これからも普通に生きているふりをしていればいい。でも、君は僕には逆らえない――逆らえば、わかるよね?」
「わかる」
 即答した英に、櫟原は満足げに微笑んだ。
「で、どうする?」
 答えは決まっていた。
 英は頷く。
 櫟原の瞳が赤く染まった。
「じゃあ、契約成立」
 櫟原は背中の翼から黒い羽根を二本引き抜き、それを彼女の両方の肩甲骨のあたりに押し当てる。瞬間、そこにまるで焼かれたような痛みがはしった。
「あつ!」
「我慢だよ」
 櫟原はまるで睦言のように囁き、彼女の体をその腕と翼の中に閉じ込めた。
「英。君の夢も希望も未来も、全部僕が喰ってあげる」
 顔の触れ合いそうな距離で、櫟原は告げる。ぼんやりとした視界の中で、彼の唇の艷やかな赤さがまるで血の色のように見えた。
「いいよ」
 英はつぶやく。
「お兄ちゃんが助かるなら、それでもいい」
 きっと逆の立場なら、陽もきっと同じ選択をしただろうから。だから、私も迷わない。
 櫟原はその言葉を聞き、そして小さくつぶやいた。
「ああ、きっとそうだろうね……」
 その台詞は、何故かひどく優しくて――英は櫟原がラテに描いてくれた、猫や熊のイラストを思い出していた。
 これからもあれ、描いてくれる? 遠ざかる意識の中で尋ねると、櫟原は笑って頷いた。

  ※

 あかあかとした夕焼けを背に、七星兄妹は帰路につく。英にとってはさっきも通った道のりだが、陽にとってはそうではない。
 不意に、陽が口を開いた。
「そういやお前、さっき櫟原の言っていた隣のクラスの男子って」
「なんのこと?」
 英はきょとんとした顔で、兄を見上げた。
「え、さっきさあ……」
「聞き間違いじゃないの?」
「そうかなあ」
 首をひねる兄に、英は笑顔を浮かべる。陽は陽だ。何も変わっていない。
 変わったのは、自分だけ。
 それでいい。
 胸に秘めていた恋以下の淡い想いなんて、今となってはもうどうだって良かった。
 気が付いたら彼らはロンドにいて、陽はアイスコーヒーを一気に飲み干して櫟原に苦笑されたところだった。英の目の前には、飲みかけのカフェラテ。その表面に描かれていた猫は、彼女が少し飲んだせいでどこか歪になっていた。
 変わっていなかった――今のところは、何も。
「…………」
 英の肩甲骨のあたりが、まるで火傷の痕のようにずきずきと痛んでいる。さっき、櫟原が自分の黒い羽根を押し当てた場所だ。その痛みに、あれは夢ではなかったのだと英は思い知らされる。
 ――夢も希望も未来も、全部僕が喰ってあげる――
 まさか、こんなにも近い場所に「悪魔」なんてものがいたなんて。信じられない。だが、信じるしかない。
「どうした、英」
 陽が突然、わしゃわしゃと英の髪を撫でた。
「な、何?」
「ん? なんか悩んでいるように見えたから」
 あっけらかんと言う陽。
「まあ、俺には言いにくいことかもしれないけどさ。ストレスたまったら言えよ。何でも付き合ってやるから」
「……うん」
 英は頷く。
「お、素直じゃん」
「私はいつでも素直だよ」
 英は肩をすくめ、冗談めかして笑った。
 ――ただで喰われてやるつもりは、英にはない。櫟原の思い通りにはならない。
「見てろよ、悪魔」
 と小さく呟きながら、それでも――兄が死ななくて良かった、と。それだけで、自分のすべてを櫟原に投げ出した意味はあったのだと。英は心からそう思った。