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YOU ROCK MY WORLD

In time, I knew that love would bring
Such happiness to me
I tried to keep my sanity
 
誰かを愛すれば、そのうちきっと僕のもとにも幸せが訪れると
そんな気がしていたんだ
その時まで、自分自身がしっかりしなきゃと、頑張ってきたよ

         ――Michael Jackson “You Rock My World”

 冷たい雨が降っていた。くすんだ空に、くすんだ世界。くすんだ色を持つ僕は、傍らの少女を濡らすまいと大きな傘を広げた。足りないのなら僕自身が傘になったっていい。
 だって、
 彼女は──マヤは少しもくすんでいない。
 くすませては、ならない。
 だけど彼女はひどく目敏くて、僕の肩に目をやり眉をひそめた。
「ユキ、濡れてる」
「構わない。僕は風邪を引かないよ」
 忌々しい不死の運命をまとうこの体にも、こんなときは感謝できる。けれど、彼女はそんなことで納得しなかった。
「風邪を引くか引かないかはただの結果じゃない。誰だって、冷たいのとか寒いなとかは嫌でしょ? それが問題だと思うの」
「…………」
 彼女は真剣な眼差しで僕を見上げている。
 ──ああ、だから僕は彼女が好きなんだ。少し微笑むと、彼女は頬を赤らめて顔を背けた。
「ありがとう。でも、僕は大丈夫だよ」
「どうして?」
 僕を見上げる、青い眼差し。深く澄んで、やっぱりくすんでいない。
「君の側は、とてもあたたかいから」
 狭いベッドで身を寄せあって眠る、その暖かさといったら。君の寝顔を、僕がどんなにしあわせな想いで見つめているか、君は知らないだろう。
 マヤはますます顔を赤くして、僕の腕をぐいぐいと引いた。
「もうっ、さっさと帰るよ!」
「うん」
 片手に傘、もう片手には買い物袋。彼女のブロンドの後頭部を見下ろして、僕はそっと吐息をこぼした。これは、ため息じゃない。ただ……ただ、零れ出しただけ。僕の胸から何か、とてもきれいな欠片が溢れ出す。それは、彼女と出会ってからの僕を満たしてやまないのだ。
 ――多分それは、愛情と似ている。
 
 
  × × ×
 
 
 その異変に気付いたのは、僕の方が先だった。辺りに漂う、金属のようなにおい。それは、雨では洗い流せないくらいに強かった。立ち止まった僕に合わせ、マヤが足を止める。
「ユキ? どうしたの?」
「…………」
 注意深く、家の方角に歩みを進める。マヤは不思議そうな顔で僕についてきた。
「どうしたのよ……」
たちこめる金属臭は徐々に強さを増していた。──間違いない、これは血のにおいだ。マヤもやがて気付いたのだろう、警戒の表情を浮かべる。
「ユキ、これって……」
「うん」
 僕は彼女を腕でかばい、注意して辺りを見回した。複雑に入り組んでいる路地の、どこかにこのにおいの発生源がある。このぶんだとかなり多量の血が流されているにちがいない。──ポジの血、だろうか。この辺りはポジのコミュニティだからそう考えるのが自然だけれど、ポジというのはそうそう簡単に死なないからポジなわけで、しかし悲鳴のひとつも聞こえないということは……?
 でも、僕は別にそれ以上のことを探るつもりなんてなかった。ただ血を流すものがいれば血を流させたものもいるかもしれないから、そいつと出くわすのは、相当まずい。今はマヤがいる。僕はどうなったっていいけれど、マヤだけは……。それにマヤは僕らとは違う。ロック・ウイルスの混じりけのない純粋な生命だから、ふとしたことで失われてしまうかもしれない。そんなことになったら、僕は耐えられない。
「あの、すみません」
「────?!」
 背後の声に、僕らは飛び上がる。振り向いた僕の目の先には、小柄な人影が佇んでいた。
「あ、あなた誰?」
 気丈な声でマヤが尋ねる。人影は一歩、進み出した。僕はあわててマヤの前に出る。何があっても、僕は彼女を守らなければならない。それは限りない無為の時間を過ごしてきた僕に託された、最後の使命。「最後」――その言葉を思い浮かべるだけで、僕はしあわせに身震いする。
「驚かせてしまいましたね。申し訳ありません」
 改めて良く見てみれば、それはまだほんの少年だということがわかった。黒い目、黒い髪――ネガかと思ったけれど、そんなはずがない。ポジのコミュニティをひとりでぶらぶら歩くネガなど、存在するはずがない。
 それに、
 彼からは血のにおいがする。
 傘も差さずにぐっしょり濡れて、それでもなおこんなにも濃いにおい。
「少し、聞きたいことがあって声をお掛けしたんです」
 少年は僕らの当惑など無頓着に、静かな笑顔をみせた。穏やかだったけれど、どこか投げやりのようでもあって、何となく奇妙な表情だった。
「聞きたいことって?」
 尋ねるマヤに、少年はじっとその暗い視線を向けた。
「どうしてあなたがたが、一緒にいるのですか? ネガとポジが共に生きているなんて」
「な、何よ。文句あるの?!」
「マヤ、落ち着いて」
 僕は憤慨する彼女をなだめ、少年に向き直った。
「初対面の相手に向かって、随分不躾じゃないかな?」
「気を悪くさせたなら謝ります。でも、不思議だったんです」
 少年は邪気のない――感情のない空虚な瞳で、僕を見返した。
「あなたは随分長く生きておいでだ。それなのに、あなたにはまだこころが残っている。そして、自分より先に死ぬであろうネガを側に置いている……。何故、そんなことが可能なのですか?」
「随分僕らのことに詳しいみたいだけど」
 彼がふつうの人間ではないと、僕はどこかで悟っていた。彼は、誰かに似ている。誰だっただろう。こんな風に無機的で、透明な存在。でも、僕の知っている誰かはもっと――。
「君は一体、何者なんだい?」
「…………」
 少年は少しだけ沈黙して、やがて僕を見つめて笑った。
「ずっと、遠い遠い未来に――あなたがたったひとりぼっちになって、どうしても誰かに殺して欲しくなったら」
 ――僕の手の下のマヤの肩が、小さく震える。
「僕を思い出して下さい。必ず、僕があなたの願いを叶えますから」
「そんな必要ないわよ」
 マヤが頭をもたげ、言い放った。少年はこくびを傾げる。
「何故、そう言いきれるのです? あなたはネガでしょう?」
「そんなこと、もうどうだっていいの」
 僕はマヤの顔を見下ろし――息をのむ。彼女は微笑んでいた。強くて真っ直ぐな、僕には直視することすら許されないのではないかと思うほど、きらきらとした笑みだった。

「だって、世界はもうすぐ滅びるんだもの」

「――え?」
 その瞬間の少年の顔といったら、まるっきり空っぽ。
 
 ある日帰ってみたら自分の家がなかったとでもいうような、
 道を歩いていたら突然目の前が断崖絶壁になってまっ逆さまに落ちる瞬間のような、
 そんな顔だった。
 
 それを見ていたマヤは、勝ち誇ったように言い募る。
「本当よ。だってユウがそう言ってたもの」
 マヤが口にしたのは、僕らが何度か会ったこともある少女の名前だった。……彼女が実際に少女かどうかはわからない。ただそう見えるというだけのことだ。
「ユウ?」
「ユウは、過去から未来を予測してやってきたアンドロイドなのよ。ユウが言うには――」
「マヤ、あんまりしゃべりすぎちゃいけない」
 例のアンドロイドとその傍らにいる旧友の身を案じて、僕はマヤをさえぎった。この血のにおいの原因がこの少年なのだとしたら……、いや、もしそうでなくとも彼は「殺して欲しくなったら自分を思い出してくれ」と言ったのだ。物騒な相手には間違いない。
 マヤも気付いたのだろう、はっと口をつぐんだ。
「アンドロイド……」
 彼はその一言をぽつりとつぶやいた。その言葉を聞いて、僕は息をのむ。先ほどからひっかかっていた疑問が、跡形もなく氷解したのだ。
 彼が、
 誰に似ているのか。
 
 ――そうだ。
 彼は、
 彼女に似ている。
 
 過去から来た彼女。
 未来を殺す彼。
 何故、
 似ているのだろう。
 
 確かに似てはいるが、彼女の方がもっと――そう、もっと人間に近いような、そんな気がした。彼女は人間ではないのに……。
「知らなかった」
 彼はうつむいた。その華奢な肩が小さく震えている。まるで何かに耐えているようだった。――いや、彼が耐えているものが何かなんて、僕はもうずっと昔から知っている。
 彼はいつも、見送る側だったのだ。届かぬ死に手を伸ばしていたポジを、彼はただひたすらに望む方へと送り出してきたのだろう。
 ちょうど、僕がネガたちを見送ってきたのと同じように。
「アンドロイド……ほかに……まさか……」
 零れ落ちたその声は、雨音にまぎれて良く聞こえなかったけれど、彼は僕らに聞かせるつもりはないようだった。目の前の僕らに興味を失ったように背を向けた彼に、僕は思わず声を掛ける。
「君、名前は?」
「…………」
 少年は少しだけ振り向いて、その横顔をみせる。

「ツカサ」

 次の瞬間、彼は軽くステップを踏んだ――だけのように見えたのだけれど。
「う、うそ!」
 マヤが小さく叫ぶ。僕も思わず口をぽかんとあけてしまった。
 ほんのひと跳び。それだけの動作で、彼は建物をひとつ、飛び越えてしまったのだから。
 やっぱり、彼は人間じゃない。
「ユウは、あんなことできないわよね」
 マヤはつぶやく。どうやら彼女も僕と同じようなことを感じていたと知って、ほっとため息が出た。
 彼女が彼と違う理由。それはきっと、彼女の側に例の旧友がいるからだろう。彼女は、見送る側ではない。
 僕はマヤを見下ろし、できるだけ自然に微笑んだ。
「マヤ。帰ろう」
「……そうね」
 再び歩き出すと、もうそこは日常だ。僕の手には傘と買い物袋。マヤは僕に寄り添って歩く。いつもと何も変わらない――さっきの奇妙な邂逅なんて、もうなかったみたいに忘れ去られている。……少なくとも忘れたふりができるほどには、現実は僕らに十分優しいから。
 
 僕らの前にはいつだって家がある。
 僕らが僕らでいる限り、道は道で、突然断崖絶壁になったりしない。
 
 
  × × ×
 
 
 僕はマヤに気付かれぬように少しだけ首をねじって、少年の――ツカサの出てきた路地を覗き込んだ。
「…………」
 赤にまみれた黄緑の髪と、うつろに見開かれた黄土色の眼窩。やはり、マヤには見せられないものだった。
 ――結局、これは彼がやったのか。僕の背中に冷たい汗が伝う。
 
 殺せないはずのポジを殺す。
 アンドロイドに似た。
 ツカサ。
 
 ――僕らは、考えもしなかった。
 世界が滅びるということ。
 世界を滅ぼす何かのこと。
 
 世界を滅ぼす、
 誰かのこと。