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STRANGER IN MOSCOW

Happy days drown the pain
On and on and on it came
And again, and again, and again…
Take my name and just let me be
 
幸福な日々は痛みを消すだろう
休むことなく続いた
そしてまた、そしてまた、そしてまた……
僕から名前を取って あとはほっておいてくれ

         ――Michael Jackson “Stranger in Moscow”

 オレが自分の名前を奪われたのは、もうずいぶん昔のことだ。
 兄貴が死ぬのと同時に、オレは一度死んだのだと思う。

 兄貴が死んで、オレは兄貴に成り代わることに失敗しかけていて──
 オレがアイツに出会ったのは、そんな頃だった。

  × × ×

 ダークブラウンの髪と瞳。ほっそりとした体つきに赤のレザーコートをまとって、長い足をジーンズに包み颯爽と歩く。プリンス、なんてふざけたあだ名もあったけれど、あながち外れてもいなかった。
 オレの暮らしていたコミュニティに、彼はある日ふらりとやってきた。どこから来たのか、誰も知らない。とにかく目立つから、しばらくの間は誰もが彼の噂をしていた。──オレは正直ほっとした。彼がここに来るまで、人々の口に上るのはオレたち家族のことだったから。長男を亡くし、ポジの妹をその代わりに仕立てようとしている両親。我ながら、普通じゃないと思う。何が普通じゃないって、ポジのオレがネガのコミュニティに生きていることが異常だ。いくら髪を黒く染めても、黒いカラーコンタクトを入れても、オレはネガにはなれない。オレは大人になりきれないまま、老いることも、死ぬこともできない。もちろん子供も産めない。──オレはひとり、滅びかけた世界の中に取り残される……。

 彼が何故オレに興味を持つようになったのか、よくわからない。誰か、彼を追い回していた女のひとりに聞いたのかもしれない。とにかく、彼は突然オレの前に現れた。
 その頃、オレは息のつまりそうな自宅から逃れ、街角のさびれたカフェで読書をするのが日課だった。人の視線も、もう気にならなくなっていた。むしろ、母親がここ数年まったく変わらないオレを気味悪げに見つめている、そのことの方が嫌だった。
「ここ、いい?」
 ぬるくなったコーヒーをすすっていたオレに、柔らかいテナーが降ってきた。オレは眉をしかめ、目の前の赤い男を見上げる。
「席なら他にもたくさん空いてると思うけど」
 客は彼とオレ以外には誰もいなかった。マスターさえ、カウンターに見当たらない。彼は笑ってオレを覗き込んだ。
「せっかく君に会いに来たんだ。話くらいさせてくれてもいいだろ?」
「オレに?」
 彼はうなずいた。軽い言葉とは裏腹に、案外と真剣な眼差し。
 オレは不意に気付いた。彼は、コンタクトをしている。
「……アンタ、まさか」
「気付いてもらえた?」
 彼は嬉しそうに笑った。オレは混乱する。──まさか。まさか、彼の本当の姿は、……。
「そういえばまだ名乗っていなかったね」
 彼はにこりと笑った。
「僕の名前は、ホクトだ」

  × × ×

 ホクトは、ミミックだった。ポジのくせにネガのふりをして生きるもの。

 オレと同じようだけど、
 同じじゃない。
 オレは、望んでこんな格好をしているわけじゃない。

「なるほど、それで女の子なのにそんな格好してるのか」
 オレの話を聞いたホクトは、納得したようにうなずいた。オレはホクトを見上げ、尋ねる。
「あんたは、なんで」
「僕?」
 ホクトは意外なことを聞かれた、というように目をぱちぱちとさせた。オレは黙ってうなずく。
「……そうか」
 ホクトはやがて、訳知り顔につぶやいた。
「君は外の世界を知らないんだね」
「外の世界?」
「ネガのコミュニティ以外の世界ってこと」
「知らない……」
 両親は亡き兄の面影を宿すオレを、その頃はまだ手放そうとしなかったから。
「僕はこう見えて二百年近く生きてるんでね。いろんなところを渡り歩いて来たよ」
 ──二百年。オレには想像もつかないような、長い長い年月。そんなにも生きなくてはならないのかと、ため息が出そうだった。普通に生きて普通に死ねたら、どんなにいいだろうか……。
 ホクトはオレの想いをよそに、飄々と語り続けた。
「ポジの世界は、もう腐ってるんだよ。死なないってことは既に死んでいるのと変わらないのさ」
「でも、ネガは」
 オレの脳裏に、優しかった兄の姿が浮かぶ。両親とはうまくいかなかったけれど、兄だけはオレを可愛がってくれた。
「オレたちより先に死んでしまうだろ……? 一緒にいたら、つらいだけだ」
「そう?」
 ホクトは意外なくらいあっけらかんとしていた。
「別に僕らが看取る必要なんてないだろう? 向こうだって不死の僕らに死ぬところなんて見せたくないさ」
「兄は最後まで……オレの側にいたよ」
 オレはうつむく。涙なんて、この男の前で見せたくなかった。きっと理解などされないだろうから。
「アンタ、家族は?」
「さあ? 赤い髪が気味悪かったのかな、捨てられたからね」
「…………」
「気が付いたらひとりだった。……周りに誰かいても、結局僕はひとりなんだ」
 ホクトは特に悲劇的な口調でもなく、淡々としていた。オレが思わず口ごもると、彼は明るく笑ってみせた。
「だから、僕は自由なんだよ。君みたいに縛られるものがあると、大変だね」
「縛られる……?」
「お兄さんの思い出とか、今はご両親とか?」
「…………」
 縛られる? 正直、オレはそんな風に考えたことなんてなかった。自分が縛られているなんて……。戸惑うオレに、ホクトはふわりと微笑んだ。
「いいんじゃない? それが君の、世界との繋がりなんだろう」
「世界との……?」
「僕にはそれがない。だから、ただ僕は退屈しのぎを考えているだけ」
 オレには彼の言っていることがよくわからなかった。ただ瞬きを繰り返すだけのオレに、ホクトは手を伸ばす。オレがびくりと体をすくめるのも構わず、彼はオレの髪をくしゃりと撫でた。
「わからなくていいよ」
「……え?」
「僕はただ、世界が終わるのを待ち侘びているだけなんだから」
「…………」
 何も言葉が見つからないうちに、彼はオレの前から立ち去った。

 それはオレの勘違いかもしれないけれど、
 彼の後ろ姿は、
 ひどく寂しそうだった。

 彼はきっと……、
 世界の終わりを告げる、
 最期の使者を待っているのだろう。

 そして、
 彼はきっと、
 その使者を愛するに違いない。

  × × ×

「そいつの噂なら、聞いたことあるぜ」
「え?」
 同居人が突然口を挟むものだから、オレはびっくりしてソファから体を起こした。
 彼は既に満杯になっている灰皿の、どこに新しい吸殻を刺そうかを迷っている。オレが無言で空き缶を差し出すと、彼は決まり悪そうに笑って、その中に吸殻を放った。
「で? リクはホクトを知ってるの?」
「知り合いじゃない。あくまで噂」
「どんな?」
「女が心中しようとしたのに、ひとり生き残っちまって、それでポジだってバレたやつがいるってさ。確かそいつがそんな感じの名前だった」
「ふうん」
 オレはくすりと笑った。その、死んじゃった女性には気の毒だけど、その時のアイツの顔を思い浮かべると、笑わずにはいられない。
 リクがまた、煙草に火を点けた。……こうやってひっきりなしに吸うときは、たいてい機嫌が悪い。
「リク?」
 リクは大きく煙を吐き出して、やがて肩をすくめた。
「確かに昔の話を聞かせろとは言ったけど」
「何?」
「なんでよりによって男の話をするかなあ」
「……妬いてるのか?」
「…………」
 オレ自身は冗談のつもりだったのだが、リクはぷい、とそっぽを向く。オレは苦笑した。──オレが家族から捨てられた後、リクがオレを拾って……家族から切られた絆を、彼が結び直してくれたのに。

 オレを、リクは縛ってくれる。
 つまり、
 彼こそが、オレと世界を繋ぐ糸。

「大丈夫だって」
「何が」
 リクのくわえる煙草をひょいと奪い、オレはその唇に軽くくちづけた。……苦い。
「アイツは、最期の使者じゃなきゃダメだから」
「はァ?」
 間の抜けたリクの声を聞きながら、オレは煙草を一息、吸い込んだ。むせる。
「おい──」
 あわてて呼ばれた、オレの名前。

 もう、
 誰にも、
 奪われない。