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EX.2 刹那主義

 最初に自分の身体のことについて知ったとき、自分がどう感じたかは、今でもはっきりと覚えている。もう二百年ほど前のことになるが、忘れられはしない。
 あの時感じたのは、
 ――ふざけるな、
 という怒りだった。

 自分の細胞に巣食う、ウィルス。ひとの身体を培地に際限なく生き続け、己の宿主たるひとを不老不死とし――だがいずれは精神が破壊され廃人と化すのだが、それでも生命は維持され続けるという。曰く、この世界に「ロック」を掛けた、滅びの「鍵」。
 自分の鮮やかな赤い髪、蜂蜜色の瞳。この不自然な色は、ロック・ウイルス感染者の――ポジの証だ。
 だから、親に棄てられた。まあ、それは仕方が無い。恨んではいない。そもそもその存在を憶えてすらいないのだから、なんの感情もない。
 だが、僕の体がウィルスの培地だなんて、そんなことは赦せない。
 僕は、僕のものだ。
 この身体は、ウィルスには明け渡してなどやらない。絶対に。
 だから、
 僕は退屈を嫌った。
 それは、僕の精神を殺すから。

  × × ×

 きれいな色、とユウは言う。
 自分の色を褒められるのは正直好きではなかったのだけど、彼女があんまり素直にそういうものだから、それなら仕方ない、と僕は思った。
 ユウは過去からこの世界の終末を見届けに来たアンドロイドだ。ロック・ウィルスなどない頃の世界から、わざわざやってきたのだという。タイムマシンは未来には飛べても過去には帰れない。だから、彼女は今もここにいる。
 僕と彼女が出逢ったのはものすごく偶然だった。陳腐な言い方をすれば運命、とでも言えるかもしれない。どちらでもいい。大事なのは、彼女は僕の退屈を壊してくれたということ。
 外は、しとしとと雨が降っている。どんよりとした暗い空、濁った空気。
 雨は嫌いだ。鬱陶しい。まるで、くだらないおんなの涙みたい。次いつ逢える、って聞かれて、さあね、って答えたらいきなり泣き出したりするんだから、僕はよくうんざりしたものだった。だいたい次に逢ったって、僕はきっときみの顔も名前もおぼえちゃいないよ――って、何度も教えてあげたくなったけど、余計に泣かれそうだったから、やめておいた。僕にできるのは、さっさとそこを立ち去ることだけ。
 ほら、こんな風にくだらない感傷を連れてくる。だから僕は雨が嫌いだ。

 ベッドに腹這いになって、僕は曇った窓から空を見上げた。
 キッチンではユウがコーヒーを淹れている。ぼくがコーヒーを好むことを知った彼女は、喫茶店のマスターにコーヒー豆を買える場所を教えてもらった。彼女はそこで買った豆を例の喫茶店で挽いてもらって、そうして家で淹れてくれるのだ。家で飲むコーヒーは、喫茶店で飲むものよりもずっと美味しい。以前そう言ったら、ユウは嬉しそうにしていた。そんな彼女は、とてもいじらしくてかわいらしい。
「ホクト」
 ユウが顔を覗かせるのと同時に、ふわりといい香りがした。
「起きていますか?」
 僕のTシャツをすっぽりとかぶっただけの彼女に、僕はうん、とうなずいた。裾からすらりと伸びた白い足がきれい。シーツから這い出したぼくは、ジーンズに足を突っ込み、シャツを羽織ろうとして――そうか、昨日あのおんぼろの洗濯機に全部突っ込んだんだ、と気付く。この天気じゃ乾くはずもない。
「ま、いいや」
 寒くはないし、別に服なんて着なくても問題ない。僕はユウから湯気の立つマグカップを受け取り、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「今日は雨ですね」
 ユウは自分もマグを両手に持って、ふうふうと息を吹きかけた。彼女は猫舌なんだそうだ。アンドロイドだから、なのか、アンドロイドなのに、なのかは僕にはわからない。ただ、彼女の舌は小さくて、とても甘いってことなら、僕はよく知ってるし、それで十分だ。
「雨、苦手ですか?」
 ユウはちらりと僕を見た。
「なんで?」
「いつもより寝起きが悪かったみたいですから」
「……ん」
 僕はコーヒーをひとくち、飲む。黒くて苦い液体が、僕の頭を少し覚ましてくれたようだ。
「そうだね、あんまり」
 結局は、中途半端なのだろう。雨は、半端だ。神話の残る大洪水のように世界を押し流すほどの力もなく、ただ僕らをほんの少し濡らして満足しているに過ぎないのだから。そんなの、何の意味もない。
「雨の日は、退屈なんだよね」
「…………」
 ユウはようやくマグに口をつけ、それでもまだ熱かったのか、すぐに唇を離した。その仕草がかわいらしくて、僕は思わずくすりと笑う。
「ホクト?」
「ううん」
 自分の唇を押さえているユウの手を外させ、その上唇を、僕はぺろりと舐めた。
 もしかすると、彼女のもとになった人間が、猫舌だったのかな。亡き娘を想って彼女を作った、なんとかハカセとかいう……。
 娘が死んだ時、彼は悲しかっただろうか。絶望したのだろうか。死にたくなっただろうか。それでも死ななかったのは、生きて彼女に似せたアンドロイドを作ったのは、何故だろう。その彼の思考が、僕にはわからない。わからないのは……僕が……、
「…………!」
 不意に痛みが走って、僕は目を見開いた。ユウが僕の唇に少し噛み付いたのだと気付いて、僕は思わず微笑んでしまう。僕が以前、彼女の首や肩に吸ったり軽く噛んだりした痕を残したことがあったから、それを真似たのかもしれない。舌で自分の唇を舐めるが、血の味はしない。少し、残念だった。
「ごめんなさい、痛かった……?」
 自分の行動に戸惑ったように僕を見上げるユウに、僕は首を横に振った。
「こんなの、全然。ちっとも痛くない」
 本当に痛いっていうのは――だってほら、僕らは死なないから。普通なら死んでしまうような痛みを経験したって、僕らは死なない。
 だから、こんなのちっとも痛くない。痛いうちに入らない。
「そういえばさ」
 僕はユウの頭の上に頬を載せて、ぽつりといった。
「ポジの中には、そういうのにハマるひともいるらしいよ。誰かにあちこち傷めつけてもらったり、自分で自分を傷つけたりするんだって」
「どうして、そんな」
 僕は笑う。
 
 ああ、きっと、
 僕は、僕らは、
 どこかが狂っている。

「死ななくても痛いことは痛いからね。痛みで我に返ることができるような、そんな気がするんだろう」
 ウィルスに――否、残酷に続く時間の流れに、溶かされていく自我を引き止めるために。
「僕はそういうの、全然理解できなかったんだけど、さ」
 ユウの指先をそっと掴み、口元へ運ぶ。
「でも、それって多分……」
「ん、……ん」
 爪と指の肉の間の隙間に、舌を這わせる。指の関節に歯を立てる。
 ほんの少しの痛みを、
 今この瞬間の、
 彼女の感覚を全て、
 僕が支配できるように。
 
 さっき、ユウが僕の唇に噛み付いたとき、
 僕は確かに彼女に支配されていたから。
 
 ――それもひとつの、愛なのかもしれない。

 過去にいるはずのユウの「親」とやらに奇妙な優越感を覚えながら、その時の僕はもう、雨のことなどすっかり忘れていた。

  × × ×

「ねえ」
 独り言のようにつぶやく。眠っていると思っていたのだけど、ユウはその長い睫毛を震わせて、薄く目を開けた。
「世界が滅ぶ時って、痛いかな」
「……どうなんでしょう」
 ユウは苦笑した。
「ごめん、怖くなった?」
「いいえ」
 ユウは伏せ目がちに、つぶやく。
「怖くはないです。タイムマシンに乗った時だって、私は何にも怖くなかった。怖いってことそのものが、私にはよくわからない……」
 ――世界が滅びる時だって、あなたが側にいてくれるなら、きっと何も怖くない。
「ユウ」
 僕は体を起こし、ユウを見下ろす。僕のふざけたみたいな蜂蜜色の瞳と、彼女のしっとりとした夜みたいな瞳が、とろりと混じりあった。
「僕、君にならかじられてもいいな」
「…………」
 ユウは少し驚いたように目を見開いて、やがてふ、と笑った。
 白い歯が、かりりと僕の腕を噛む。そんなに痛くはないけれど、無視はできない程度の。
「いいね」
 くっきりとした歯型に、満足して唇を寄せる。だがそれはすぐに消えてしまった。
 まあ、そんなものだ。僕らの身体なんて。
 
 もっとばらばらにして、粉々になって、どろどろにして、
 誰にも僕を元に戻せないくらいに、
 そうしてから、君と混ざってしまいたい。

 僕のこの、孤独で退屈な、くだらない二百年間を、滅びゆく君との刹那に変えてしまえたら。
 その時ようやく、僕は諦めるだろう。
 君との一瞬と引き換えに、僕の全てを。
 
 
  × × ×
 
 
 ――夢を見た。
 君が光の粒に変わり、僕の細胞のひとつひとつをすべて、塵も残さずに、灼き尽くす夢。
 
 それはとてもとても、
 しあわせなゆめ。