EX.1 乱反射
ガシャン、と大きな音が響いて、僕は慌ててその方角へと駆けつけた。音の出所はたぶんキッチンで、そこにいるのは――。
「マヤ?」
そう、僕の同居人である彼女でしかあり得ない。
彼女はこちらに背を向けて、床に屈みこんでいた。
「マヤ? お皿割ったの?」
「うん。グラスなんだけど……ごめんね、すぐ片付けるから――」
「僕がやる」
「大丈夫、すぐ終わるわ」
「だめだよ」
僕は一歩、彼女の方へと歩み寄った。破片が床に散らばっているかもしれないとか、そんなことはどうだっていい。僕のことなら、多少のけがなんてどうだっていいのだ。たいていの怪我なら、僕らの体はすぐに治ってしまうのだから。
でも、マヤはそうじゃない。
「早く、それを離して――こっちにおいで」
意外に強情なマヤは僕に背を向けたまま、破片を集めようとしている。僕は焦れて、彼女の体をひょいと抱え上げた。
「ちょ、ちょっとユキ……!」
安全なリビングまで連れてきて、ソファの上に下ろす。手に持っていた破片は離させた。その指に小さな切り傷を見つけて、僕は眉を寄せた。
「だから言ったのに……」
「たいしたことないわよ、こんなの。すぐ治るもの」
「けど」
僕はじっとマヤを見上げる。その青い瞳の中に、うすぼけた水色の髪と灰色の目を持つ男が映っている。
「僕よりは時間、掛かるだろう?」
マヤの手から破片を取り上げた時、僕の指にも少し傷はついていた。けれど、このたった数秒の間に、それはもう跡形もなくなっている。
「マヤ」
僕は彼女の傷ついた指先を、そっと口に含んだ。マヤが小さく息をのむ。
錆びついた金属のような味。僕が昔、ネガたちに暴行された時に口中に感じたものと似た――けれど、どこか甘いようにも感じるのは、それがきっとマヤのものだからだろう。
細い指に、丹念に舌を這わせる。別に、ポジの唾液に傷を治す成分が入っているわけじゃない。ロック・ウイルスは体液じゃ感染しない。遺伝でもない。じゃあ、どうやって感染するのかというと、それはもう、誰にもわからないのだった。それを究明するだけの文明は、もうこの世界には残っていない。
マヤの指先が、僕の口の中で時折小さく震える。かわいい。僕はくす、と笑って唇を離した。
「あとで消毒しておこうね」
「……ユキ」
マヤは真っ赤な顔で、それでも真っ直ぐに僕を見つめていた。こういうところが、本当にかわいいと思う。
「なに?」
「すぐに治るとしても、わたしユキが怪我をするのは嫌なの」
マヤは僕の足もとに目を落とした。さっき破片をふんづけたのか、床に血の跡が残っている。後で拭いておかなきゃ、と僕は思った。
「だから、靴下履いて、手袋もして」
「……うん?」
ぼうっとしていた僕はうっかり聞き逃して、マヤに怒られた。
「聞いていた?! ちゃんと、怪我しない準備してから片付けしてねって言ったの!!」
「わかった、わかった」
僕は苦笑した。
こんな体、少しくらい傷ついたってどうってことはないのだけど――マヤはそういう思考をひどく嫌がる。「治ったって、痛みは痛みでしょ。痛かった記憶がなくなるわけじゃないんだから」って、それは確かにその通りだ。
もし、痛みの記憶すら失う日が来たとしたら。
それはきっと、僕が僕でなくなるってことだから。
「わかったよ、マヤ」
彼女の、出会った頃よりも随分伸びた金髪をかきあげ、まだほんのりと赤く染まっている額に、頬に、軽くキスを落とした。
「僕の体は全部マヤのものだから。マヤがそうしろっていうなら、そうする」
「……なに、それ」
マヤは怪訝そうに僕を見つめる。
「ひとのものを勝手に傷つけちゃだめでしょ? だから」
僕はマヤを抱きしめた。
「僕は、ちゃんと僕を大事にするよ……」
もう三百年以上生きている、この体。何度も捨てたくなったし、何度も壊したくなった。実際、そうしかけたこともある。結局は、失敗に終わったけれど。
――でも。
今はまだ、
生きていたいと思う。
マヤがいるから。
僕は弱くて、ひとりでは生きていけないけれど。
マヤがいるこの世界なら、
もう少し――生きてみてもいいと思う。
「ごめんね、グラス割っちゃって」
「別に、謝ることじゃないでしょ」
最後に唇に軽くキスをして、僕は立ち上がった。
「形あるものは、いずれ壊れるんだ。仕方ないよ」
そう――だから、命あるものは、いずれ……。
頭をよぎった考えを払い落し、僕は彼女に言われた通りにちゃんと靴下と手袋を履いて、そうしてキッチンへと向かった。
窓から差し込む光の下で、きらきらときらめくグラスの破片。乱反射するその光を、美しいと思った。
――壊れた欠片が、こんなにも美しいなんて。
僕は何故か、そのとき――マヤの指の傷を思った。
そして、
さっき味わった、彼女の血の甘さ。
大きな破片を手早く拾い集め、小さなものは掃き清める。
散らばっていた光の粒は、すぐに見えなくなってしまった。
割れる前はどんなグラスだったのか、もう僕には思い出せない。
今は、あの光だけが――ちらちらと、脳裏に煌めいている。
――そうだ。マヤの指、消毒しないと。
僕ははっと思い出し、救急箱を取りに向かった。
いつか、
マヤが壊れてしまって、
彼女が全部光の粒に変わってしまったら――
僕はそれを拾い集めて、
全部僕のものにして、
それから、
僕自身も、光に変わってしまおう。
光になって、
混じり合って、
溶け合って、
そうすればきっと、
二度と離れることはない。
――世界がひとつの光になる日のことを、
その時、僕はまだ知らなかった。