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End.

 風が吹いている。村を囲んでいた柵は、ついこの間新しく作り直された。一か所には門も作られて、外に出られるようにもなっている。今はまだあまり外に出るものもいないようだが、もう少し皆が馬に乗ることに慣れれば――時には外に出てみるのも良いものだ、ということになるだろう。誰かにそう言ったら、お前は本当に外が好きだな、と笑われた。どうやら、数年前に自分がしばしば村の外に抜け出していたことは、意外と大人たちには勘づかれていたらしい。
 つい先日作られた、村を見下ろすように聳える櫓の上。彼はその柱にのんびりと背を預けながら、ひとりごちた。
「『ニルヴァアナ』――か」
 結局のところそれが一体何だったのか、彼にはよくわからない。彼がその単語を知った時には、既にいろいろなことが終わっていて、言ってみれば――手遅れだったのだろう。
 あの、赤い砂の中で出会ったふたりのことも結局は良くわからない。ひとりは、かつて祖父と同い年くらいのはずだったのに今ではずっと若く見える男で、もうひとりは人造人間だとか何とか言われていたが、見た目は華奢な少女だった。彼らは砂から現れて、まるで砂の中に消えていくように……。

 あのとき、あの男はきっと死んでしまうつもりだったのだろう。だが、どうやらあの「銃」とかいう塊の中には「弾」とやらが入っていなかったらしい。かちりという軽い音がしただけで、男は呆然と手の中の銃を見下ろしたのだった。
「馬鹿なことはやめろ」
 祖父は疲れたように言い、そして男の頬を一発、平手で殴った。彼はおとなしくされるがままになって、そして人造人間の少女を抱えたまま、がくりと砂の上に両膝をついた。祖父に殴られた頬が赤く、うっすらと腫れている。
「どうやったらこいつの目が覚めるのか……、わからないんだ」
 男はぼそぼそと言う。泣いているのかもしれない、と少年は思った。
「こいつを作ったのが『二ルヴァアナ』で――こいつを操る機能が既に失われてしまっているのだろうか。だとしたら、もう目覚めないのかもしれない。けど……」
 男の腕が、ぶるぶると震えた。
「こいつは――シエはまだ、生きているのに――」
「ヨル」
 祖父が、優しい声で男の名を呼んだ。
「村においで。それから――ゆっくり考えようよ。シエちゃんのことも、それから君のことも」
「…………」
 男はしばらく俯いていたが、やがて小さな声で言った。
「おれたちは、お前の村にとって災厄にはならないだろうか……」
「災いとなるようなら、すぐに追い出す」
 少年は驚いて祖父の顔を見上げたが、彼はいたって真剣そのものであった。
「私には、村を守る義務があるからな」
「……そうか」
「そうでない限り、私は君たちを全力で守る」
「…………」
 男は顔を上げ、少しだけ口の端を歪めてにやと笑った。
「立派になったな、シン」
「こっちはいい年なんだよ、見ればわかるだろ」
 言い返す祖父も少し笑っていて、少年はほっと息をついたものだった。
 少女だけは――人形のように、砂の上に体を折り曲げていたけれど。

 それから、どういったやりとりが村の中でなされたのか、少年は良く知らない。男は村の一員となり、良く働いた。皆が驚くほどに勤勉であった。彼の出自ははじめこそ村の中で取り沙汰されたけれども、少年の祖父の後ろ盾があったためか、比較的スムーズに受け入れられたようだ。
 少女の姿は、しばらくの間見なかった。男が住まうようになった、少年の家の離れに男とともにいた――ようである。
 少女が本当は何者だったのか、少年にはわからない。だが、もはやそんなことはどうだっていいのだった。
 櫓から降りた少年は、ばったりと男に出会った。ふたりでこうして顔を合わせるのは久しぶりのことで、そして彼は不意に、きっかけは水だったのだと教えてくれた。
「この村の水を、飲ませた」
「水?」
 少年は聞き返す。そうだ、と男は頷いた。
「あの、泉から湧き出ている水を汲んだものだ。あれを、ほんの一口含ませた時……」
 ぱちり、と――少女は赤い瞳を瞬いたのだという。少年は驚いて聞き返す。
「どういうこと?」
「外の水を摂取することによって、覚醒する――そういうように、設定されていた。そうとしか思えない」
「設定? 誰がそんなことしたの?」
「…………」
 男には心当たりはあるのだろう、そういう顔つきだと少年は思った。だが、男はかわりに別のことを言った。
「初めておまえに会った時、『水がなければ生きられない』と言ったな」
「うん」
 少年は頷く。
「多分、そういうことだ。水がなければ生きられない――ということはつまり、水があれば生きていける可能性がある」
 かつて、男と少女は約束をした。ともに、外の世界で自由に生きよう、と。その言葉を交わした時には、叶うべくもない夢でしかなかった。現に、男はその約束の後に長い時間眠りについてしまった。少女はたったひとり取り残され、そして……待ち続けなければならなかった。
「約束が叶う日を、あいつはああやって待ち続けていたんだろう……」
「おれにはよくわからないけどさ」
 少年は男の言葉を遮るようにして、言った。
「目が覚めたなら、良かったじゃん」
「………そうだな」
 男はつぶやき、そしてふいに背後を振り返った。視線につられて少年がそちらを見遣ると、一人の少女がふらふらとこちらに近付いてきていた。長く伸びた銀髪が、風に揺れている。
「シエ」
 男が名を呼ぶと、少女はふわりと笑って、そして少年に向かいぺこりと頭を下げた。少年は軽く手を振る。
「だいぶ、元気そうだな」
 日に焼けることを知らないような、白い肌。はじめは立ち上がることもままならなかったらしいが、少しずつ練習をして、ようやく一人で出歩けるようになってきた。
 少女は男の傍らに立ち、そっとその腕に手を添えた。男は特に何も言わなかったが、彼のまとう硬質な空気が、少し和らいだような気がする。
「シンが、トールを呼んでいたよ」
 少女の言葉に、少年は頷いた。彼女がずっと年の離れた祖父を名で呼ぶのは今でも妙な感じがするが、そろそろ慣れなければならないだろう。
「じゃあ、またな」
 男はゆるく頷き、少女とふたり寄り添ったまま、少年の後ろ姿を見送った。

 少年の姿が見えなくなった頃、少女は男を見上げた。
「……ヨル」
 手を差し出す。男は、何も言わずその手を取った。
「あれに上りたい」
 彼女が指をさしたのは、先程まで少年が上っていた櫓だった。男は少し顔を曇らせたが、駄目だとは言わなかった。ただ、落ちるなよ、と告げた。
 少女に先に梯子を上らせたあと、ヨルもその後を追って上った。櫓の上には、風が吹いている。
 少女はぺたりと床に座り込み、目を細めて遠くを――赤い地平線を見つめた。
「何を見ている」
 男の問いに、少女は少し首を傾げる。
「何ってわけじゃないけど……」
 男は少女の背後から、その痩せた体に腕を回した。
「……おまえが、滅ぼしたのか」
 まるで睦言を囁くように、男はつぶやく。少女は身じろぎもしなかった。
「おれを撃ち、眠らせた後――『二ルヴァアナ』に残っていた人間を殺したのは……」
「そうしなければ、わたしたちは自由にはなれなかった」
 少女は淡々と答える。
「わたしに人を殺す方法を教えてくれたのは、ヨルだったね」
「……ああ」
 男は頷いた。
「だけど……あのひとたちは、ほとんど無抵抗だった」
 少女は男の方に頭を預け、目を半ば閉じている。
「もう疲れた、って。何人もの人がそう言った。まるで……死ぬ理由がないから今まで生きていた、とでもいうみたいに」
「…………」
「『二ルヴァアナ』を作った人たちは、予想していたのかもしれない……あれが永遠の楽園になど、なり得ないってこと。終わりのない不変の日々を繰り返し続けられるような人間は、きっといない」
「それこそが、『二ルヴァアナ』に逃げ込んだ人間たちに課された罰だったとでも……?」
 男はつぶやいた。――確かに、その通りなのかもしれない。その証拠に、「二ルヴァアナ」を設計した者たちは、その中には入らず、赤い地獄と化した地上へと身を投じたというではないか。彼らははじめから、偽りの楽園の本質を理解していたのだろう。
「『二ルヴァアナ』のひとびとが外に目を向けて、ヨルを外に出したこと……、それこそがあの楽園の崩壊の始まりだったのかなって、そう思う……」
「…………」
 男は黙って、少女の髪に自分の頬を寄せた。
「ねえ、ヨル」
 少女は男の名を呼んだ。
「わたし……わたしたち、このまま生きていていいのかな?」
 どんな理由があったとしても、彼らは「二ルヴァアナ」の滅ぶきっかけとなり、そこに生きていた人間たちを殺した。その罪は、変わらない。
 そして、シエの身体がいつまで保てるのか――死体から「ニルヴァアナ」が生み出したという、「死餌(シエ)」。彼女が今後、「ニルヴァアナ」を離れて生きていけるのか。何の保証もない。未来は、見えない。
「さあな」
 だが、男はあっさりと答えた。
「生きることが許されなくなったら、きっとこの命は奪われるだろう。それが神だか、悪魔だか、人間だか、それはわからないが……。それならば――それまでは」
 ――生きていよう。
「ともに、生きよう」
 少女は目を伏せ、頷いた。

 この命がいつまで続くのか、
 この心がいつまで自分でいられるのか、
 この体がいつまで先に進めるのか、
 この罪がいつまで許されるのか、
 それは誰にもわからない。
 わからないからこそ、自由なのだろう。
 自由に生きていこうと決めたから――約束したから。
 
 自由に生きて、
 自由に死ぬまで。

「生きていこう」
 少女の閉じた赤い瞳から、透明な雫が滴り落ちた。その澄んだ水に、男はそっと唇を寄せる――これが、生命だ。そう、思った。