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Chapter.III – 25

 トールの部屋に彼の祖父が現れたのは、夜も遅く、他の家族が寝静まった頃のことだった。ベッドの上でぼんやりと寝転んでいたトールは、扉の開く音に慌てて起き上がる。
「じいさん……?」
 よく、年の割に若く見えると形容される柔和な彼の祖父の表情は、今夜に限って少し険しい。トールは祖父の顔を見返しながら、あの男のことを思い出していた――おれたちは過去の亡霊なんだ、と、そう語った男を。
「トール。少し、話がある」
 祖父は彼の隣に腰掛け、彼をじっと見つめた。トールは思わず目を逸らす。
「おまえ、何か……隠していることがあるだろう?」
「…………」
 心当たりのあるトールは、目まぐるしく考えた。隠し事の一部を打ち明けてしまべきうか、それとも全てを話すべきか。いっそ、しらばっくれてしまうか。自分が叱られることは、覚悟していた。そんなことはどうだっていい。今彼の頭を占めているのは、最近知り合ったばかりだというのにその存在が頭からずっと離れない、あの男――あの男たちのことだった。彼らをこのまま、砂漠の中に放っておいてはいけない。そんな気がした。だからといって、簡単に村の中に招き入れていいものかどうか、そもそも彼らがそれを望むのかどうか、トールにはわからない。
 祖父は彼の逡巡を黙って、じっと待っていた。どれほどの時間が経った頃か、やがてトールは意を決し、口を開いた。
「じいさんは、覚えてる? あの――」
 口の中がひどくからからだった。
「ヨル、っていうひとのこと」
「…………!!」
 祖父の顔に、驚愕が走った。目を大きく見開き、唇は細かく震えている。――ああ、やっぱりこの二人は知り合いなんだ。トールはそう思いながら、言葉を続けた。
「一度、馬が塀を飛び越えちゃったことがあって……村の外に出て、あたりをうろうろしていた時、会ったんだよ。ヨルに」
「…………」
 祖父は息をすることも忘れているかのように、じっとトールを見つめている。
「どこから来たのかとか、何にも教えてくれなくて……ただ、おれたちのことを知りたがっていた。あと――最初に会った時、ヨルはおれのこと、じいさんの名前で呼んだんだ」
 祖父は弾かれたように顔をあげる。トールはこくり、とうなずいた。
「――シン、て」

 村の人々には、あまり祖父似だと言われることはない。だから、あの時のヨルの言葉には驚いた。だが、もし――ヨルと知り合った頃の祖父がまだ、若かったのだとしたら。もしかすると、トールはその頃の祖父とは良く似ているのかもしれない。
 ただ、問題は……、
「ヨルはさ」
 トールはぽつぽつと言った。
「二十歳くらいに見えるんだ」
「……え?」
 祖父はぽかんと口を開けた。彼のそんな表情を、トールは生まれて初めて見た。
「本当だよ。だからおれ、じいさんとどこで知り合ったのって――でも、ヨルは教えてくれなかった」
 ――おれは、過去の亡霊だから、と。
「でも、生きてたんだよ! 生きてんだよ、あいつ!」
 トールは祖父に訴えた。
「じいさんは、ヨルの知り合いなんだよな? おれ、詳しいことは良くわかんねえけど、でも――」
 ヨルを、助けてやって欲しい。
 トールの目の前で、祖父の表情がくしゃりと歪んだ。
「――生きて、」
 震える声がこぼれ落ちる。
「生きていたのか……ヨル……」
 声もなくほろほろと涙を流す祖父の姿に、トールは言葉を失う。背中を丸める彼の姿は、まるで幼子のようにすら見えた。
「本当か? 信じられない……」
 問われるままに、トールはヨルの特徴を告げた。細身の長身、黒い短髪と同じ色のすっきりと切れ長の瞳、あまり動かない薄い唇。
 ヨルだ。そうとしか思えない、と祖父は呻くように言った。それも、数十年前に別れた時の姿のままだなんて……。
 祖父ははっ、と思い出したように身を乗り出した。
「側に……ヨルの側に、誰かいなかったか? 女の子なんだが……銀髪の、赤い目をした……」
「ううん?」
 トールは首をひねった。祖父は明らかに落胆したような表情を浮かべる。トールは、急いで付け加えた。
「ヨルはいつも誰か連れていたけど、それが誰かはわからないんだ。喋らなかったし、フードを目深にかぶっていて、顔も見えなかった。……確かに、小柄なやつだなとは思ったんだけど」
「…………」
 祖父はその両の拳を固く握りしめていた。日焼けした肌、目尻の皺、白いものが交じるようになった赤銅色の髪、そしてごつごつとした指先――それらは村を作り上げ、父を育て、トールを慈しみ―――祖父が時を重ねてきた証だ。
 しかし、ヨルにはそれがない。
 祖父は独り言のようにつぶやいた。
「何があったんだろう……あれから、一体どこに……」
 そうして、はたとトールに目をやる。
「会わせてくれないか?」
「じいさんを? ヨルに?」
 トールは目を瞬いた。祖父は必死の形相で彼を見つめている。
「会いたい。会って、話がしたいんだ。どうすれば会える?」
「いつも、たまたまなんだ」
 トールは祖父に気圧されていた。
「何も、決まっているわけじゃなくて。たまたまおれが外に出て、たまたまヨルが近くに来たら――会える。それだけだから」
「何故今まで黙っていた?」
「……ヨルが、」
 トールは俯いた。
「おれのことは他のやつに言うなって……、それに、勝手に村の外に抜け出してることがばれたら、怒られると思ったし」
「…………」
 祖父は険しい顔をしていたが、やがてふう、と息を吐いた。もう、涙のあとはない。
「まあ……それはいい。外に出たことも、別に罪ではない。むしろ、今まで誰も柵の外に出ようとしなかったことの方が、異常なのかもしれん」
「…………?」
 祖父の言葉の意味がわからず、トールは首を傾げた。祖父はそんな彼を安心させようとするかのように、穏やかに微笑む。だが、その目の色は真剣だった。
「今度ヨルと会ったら、私を呼んでくれるか?」
「う……うん」
「頼んだよ」
 そう言って、祖父は立ち上がった。トールは慌てて彼を呼び止める。――そんな、何も言わずに立ち去るなんて。
「じいさんとヨルって、どこで知り合ったんだよ? それに、なんでヨルは若いままなんだ? ヨルが連れているのって、いったい誰?」
「トール」
 祖父は静かに彼の名を呼んだ。その顔には、淡い苦笑が浮かんでいる。仕方がないな、というような、それでいて決して怒ったり呆れたりはしていない、柔らかな表情だった。
「その問いのすべての答えを、私が知っているわけではない」
「……けど、」
「しかし、だ」
 祖父はトールの反問を強い口調で遮った。
「ひとつだけ、確実なのは――」
 そして祖父は、穏やかに微笑んだ。
「私とヨルは、友人だったということだ。ある時から、離れてしまっていたがな」
「…………」
「私がこの村を作ることができたのも、間接的ではあるが、ヨルのおかげだと思う」
 祖父は静かに言い、もう一度トールの傍らに腰を下ろす。何か話してくれるつもりなのだ、とトールはほっとした。
「私が昔いた場所に、ある時ヨルが現れて――」
 祖父はそこまで口にして、一度言葉を止めた。少し考えてから、再び口を開く。
「私の以前いた場所は、既に滅んだ文明の遺産に縋っているだけの、赤い砂にまみれた……くだらない場所だった。毎日、私はひどく退屈していた」
 ――ヨルが現れるまでは。
「ヨルは、砂漠の中に捨てられていた子供だったらしい。どこから来たのか、どうして一人きりでそんな場所にいたのか――何も語らなかった。私とは年も近かったけれど、彼は私達とは全然違っていて……、とにかくひどく変わっていたよ。彼は……彼だけは、あの頃の現状が許せなくて……とにかく怒っていた」
「怒ってた?」
 トールは意外そうに聞き返した。ヨルは決して愛想のいい男ではないが、気性は穏やかそうだと思っていた。
 祖父は僅かな笑みを浮かべ、トールを見返した。
「『二ルヴァアナ』」
「へ?」
 聞き慣れぬ言葉に、トールは肌がぞわりと粟立つのを感じた。本能的に、としか言いようがないのだが、何とも言えない嫌な感じがする。
 祖父はそんなトールには構わず、言葉を継いだ。
「結局のところ、それが一体どういうものだったのか、私にはわからない。ただ、ヨルはそれを憎んでいて――そして、ひたすらにそれに囚われていた。それにまつわるものを、全て殺してしまおうとするくらいに」
「…………」
 ごくり、とトールはつばを飲み込んだ。
「ただひとつの例外が……」
 祖父は目を細めた。
「あの少女だった。そう――名前を、シエという――」
 そして始まった物語は、昔話として片付けるにはあまりにも不完全なものだった。何しろこの昔語りは。ヨルとシエの唐突な失踪で幕を下ろすのだから……。

 村を囲む柵の外では、いつもと変わらぬ赤い風が吹いていた。そこに、常のようにふらりと現れたヨルは――トールと、その背後に立つ彼の祖父とを見て顔色を変えた。トールに対して怒りの色を見せたヨルであったが、トールをかばうように立ち塞がった彼の祖父――シンの姿に、顔を歪ませ目を伏せた。ヨルの側にある小柄な人物は、フードをかぶったままいつものように身じろぎもしない。きっと、トールの存在もシンの存在も、未だ知らないままでいるのだろう。
 シンは一歩、ヨルに向かって踏み出す。
「久しぶりだね、ヨル」
 いつもと違う、祖父の口調。トールはじっと黙ってふたりを見つめた。――ふたりはかつて、この砂の上を共に駆けたのだという。憎むべき敵を――「ニルヴァアナ」の人びとを追って。
「心配していたんだ。当てもなく外に出て行って、野垂れ死んでしまったんじゃないかって……正直、この子から君の話を聞くまで、そう思い込んでいたよ」
「――あの、昔いた所はどうなったんだ?」
 ヨルはぽつりと口を開いた。
「あそこにいた皆は、この村にいるのか」
「……いや」
 シンは首を横に振った。
「君たちが出て行ってからすぐ、工場が壊れてね――まあ、限界だったんだろう。修理の方法などわかるはずもないし、無理にでも外に場所を見つけようとした者たちのグループと、外には出ないで工場を何とかしようとした人々のグループとに、別れた。おれは前者にいて」
 シンは一瞬言いよどみ、やがて言葉を続けた。
「残った者たちがどうなったのかは――わからない。おれたちはこの村を作った後、あの場所に戻ってはいないから」
「…………」
 黙り込んだヨルに、シンは詰め寄る。
「ヨル。今度はおれの質問に答える番だ。君は――いや、君たちは、今までどこにいた? 何故、君は昔と少しも変わらない姿なんだ? 君たちは今、一体どこに」
「もう、終わったことだ。シン」
 シンの言葉を遮り、ヨルは言った。
「全部全部、終わったことなんだ……」
 ――「ニルヴァアナ」も、今はもうない。
 ヨルはひどく疲れた様子で、その言葉を吐いた。シンは眉を寄せ、そして尋ねた。
「シエちゃんは、どこ?」
「…………」
 ヨルは馬に乗ったままであった人影を抱き上げ、そしてそのフードを外した。零れ落ちる銀髪と、半ば開いた赤い瞳。だがその顔には何の表情も浮かんでいない。
「シエ、ちゃん……?」
 シンが戸惑ったように、その名を繰り返す。ヨルは彼女を抱えたまま、口元を自嘲の笑みで飾った。
「なあ、シン……おれは『ニルヴァアナ』を憎んでいたよな。でもそれは、『ニルヴァアナ』そのものに仕組まれていたことだった。『ニルヴァアナ』は、自分の管理下から逃げようとしたものを刈りとらせるために、おれを使った。おれは、『ニルヴァアナ』の思惑通りに動いていたにすぎなかった」
 ヨル自身のものなど、何もなかった。記憶も、憎悪すらも、すべてが「ニルヴァアナ」によって作られたものでしかなかった。偽物だった。
 ヨルはひどく饒舌にしゃべった。まるで、何かに憑りつかれているかのようだった。
「シエは、『ニルヴァアナ』の作り出した人形――人造人間だった。ひととおりの役目を果たしたおれを連れ帰り、そして同時に外の世界を確認するために作られたモノ。『ニルヴァアナ』から離れようとしたおれを、撃ち――そして眠らせた」
 ヨルは深いため息をつく。彼が唯一望んだ、特別な存在であったシエさえもが――結局は「ニルヴァアナ」に仕組まれた存在だった。
「目が覚めた時には、すべてが終わっていた。『ニルヴァアナ』は滅び、シエは人形のようになって、今も起きない。何が何だか、おれにもわからないままだ」
 シンは戸惑いを浮かべた。ヨルの話のうち、半分以上は理解できなかった。トールはなおさらだっただろう。だが、そんな困惑など無視して、ヨルは言葉を続ける。その虚無の色をたたえた瞳は、彼らではなくどこか遠く、赤く染まった空をを見つめていた。
「もしかすると――終わらせたかったのかもしれないな。『ニルヴァアナ』は、それ自身を終わらせようとして……シエを使って、『ニルヴァアナ』に生きていた残りの者を処分したのかもしれない……」
「ヨル? 何を言っているんだか、おれにはさっぱり――」
「安心した」
 ヨルは不意に、微笑んだ。それは確かに微笑みではあったのだが、何故か、トールは彼が本当は泣いているのではないかと思った。それほどまでに、それは悲しげな印象を与える表情だった。
「ひとは再び歩み始めた。トールに会って思ったよ……ひとは、自由になったんだって。世界を再び始めることができたんだって。楽園も地獄もいらない。おれはきっと、そんな世界を望んでいて、だから――」
 ――それを邪魔する「二ルヴァアナ」が、許せなかったんだ。
 ヨルはシエを覆ったマントの中から、何かを取り出して自分の方へと向けた。黒っぽい金属の塊。最初、トールと出会ったときには彼につきつけられたものだ。それが何なのか、トールは知らない。だが彼の祖父は知っているようだった。あっ、と叫び声をあげる。その顔は、蒼白だった。
「何のつもりだ! ヨル……!!」
「終わりにするんだ、シン。『ニルヴァアナ』の呪縛は、これで終わる」
 ヨルはその黒いものを自分のこめかみに当てていた。その表情はひどく穏やかで、トールには何故祖父がこれほどまでに焦っているのか、全く理解できなかった。
「やめろ」
 シンは呻く。
「もう、いいじゃないか……『ニルヴァアナ』はもうないんだろう? ヨルもおれたちの村で過ごせばいい――シエちゃんも、一緒に来たらいい。いつか、目が覚めるかもしれない。詮索なんてさせやしない。おれが必ず――今度は、おれが守ってやるから……」
「シン」
 ヨルが、そっと名前を呼んだ。シンはのろのろと顔を上げ、ヨルを見つめる。
「シエを――頼む」
「ヨル……!!」
 嫌な予感がして、トールは叫んだ。彼が何をしようとしているかはわからない。だが、決して良いことではない。もしかすると、取り返しのつかない――恐ろしいことを――。
 ヨルに駆け寄ろうとしたトールを、祖父が抑えた。危ない、と叫ぶ祖父の声。トールは負けじと声を張り上げた。
「なんでだよ、ヨル――!」
「…………」
 ヨルは身を屈め、腕の中の少女の瞼に唇を寄せた。何かを囁く。ヨルはゆっくりと、その両目を閉じて――。
「――――!!」
 次の瞬間。悲鳴をあげたのが、一体誰だったか。トールにはわからなかった。