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Chapter.III – 23

 嵐が去った後、祖父は約束した通りトールに馬の乗り方を教えてくれた。彼に与えられたのは、安全を考えてのことであろう、まだたいして走れもしない仔馬だったが、トールはそれをとてもかわいがった。
 羊を追うのもそれに乗っていくようになり、トールが仔馬に乗ってくるくると辺りを駆け廻るのが、村の中のちょっとした風物詩となった。子供たちは喜んでトールの後を走って追いかけたし、大人たちは微笑ましくその光景を眺めていた。祖父はトールに、他の子どもたちにも馬の乗り方を教えてやっても良い、とそう言った。ただし祖父自身は、敢えてそれを広める気はないようだった。村の中で、あくまで馬は荷引きや耕作のためのものだ。馬に乗るトールの行動は、どちらかというと曲芸のようなものと捉えられている。何のために馬に乗るのだ、この狭い村の中で? 大人たちの好奇の眼差しは、トールにそう問い掛けているかのようだった。 子どもたちもはじめは馬を欲しがったが、その世話に手間のかかることを知ると、皆あっさりと諦めた。
 トールが馬を手に入れてしばらくした頃、いつもおとなしく歩き回っていたその仔馬が――仔馬というにはやや成長し過ぎていたが――軽く駆けたことがあった。村を囲うように作られている、大人の背丈よりも少し低いくらいの柵。頑丈なものではない。その必要もない。ただ、村の中と外を隔てる目印としてそこにあるだけの――。
「お、おい」
 トールは手綱を引くが、馬はそれを無視した。彼を背に載せたまま柵に向かって奔り、そして、
 ――ひょい、と飛び越えてしまった。
「…………!」
 トールは唖然として、そして慌てて馬を止めた。馬は少し不満げに鼻を鳴らしたが、それ以上勝手に駆けることはしなかった。
 トールは少しの間ためらったが、やがて馬から降り、辺りを見渡した。幼い頃からずっと、柵の内側からしか見たことのなかった外の世界に、今自分は立っている。そのことに、足が震えた。
 遮るものなく吹きつける風が、彼の頬を打ち、短い髪を舞い上げる。とても気持ちの良い風だった。トールは風上に目を向けるが、ただ赤い地平線が遠くけぶっているだけだった。目を細めても、何も見えない。何があるのか、誰がいるのか、何もわからない。トールの側を通り抜けていくこの風が、一体どこから来たのか……そしてどこへ行くのか。わからない。
 ――世界は、広い。そして、おれは世界のことを何も知らない。世界も、おれのことなど、知らない。
 トールは唐突にそれを理解した。同時に、いいようのない不安と恐怖が彼を襲う。今の彼には、彼をこの得体のしれない世界から守ってくれるものは何もない。村の外に出てしまったということは、そういうことだった。
 戻ろう。トールはそう決意して、馬にまたがる。馬はまた、何でもないことのような顔をして、ひらりと柵を飛び越えた。

 それからというもの、トールは人目を盗んでは、村の外をうろつくようになった。といっても、柵から離れないように、辺りをほんのわずか歩き回るだけである。遠くを探検する勇気などなかった。ただ、赤い風に吹かれるのが何故かとても心地良かった、それを彼は忘れられなかったのである。恐怖よりも、トールの中ではそれが上回ったのだった。
 この赤い大地は、どこまで広がっているのだろう。何故我々は、この小さな柵の内側に閉じこもっていなくてはいけないのだろう。何故、誰も村の外の話をしないのだろう。村ができる前は皆、この赤い大地の上で生きていたはずなのに。祖父らは、一体どこでどんなふうに生きてきて、そしてどうやってこの村を作り上げたのだろう。――そんなとりとめのない疑問を次々に思い浮かべながら、トールは赤い砂の上をただ歩くのだった。
 トールは誰にも外の話はしなかった。彼と、そして物言わぬ彼の愛馬との間の秘密。
 ――その秘密が破られたのは、突然のことであった。

 いつものように、柵を飛び越え辺りを歩く。いつもと何も変わらない光景。変わらない砂、変わらない風、変わらない空。時に訪れる嵐の気配は、今はどこにもない。
 不意に、馬が小さくいなないた。トールは怪訝そうに、馬の様子をうかがう。まるで、何かを警戒するように足踏みをしている彼の馬は、ある一点を見つめているようだった。
 トールは目を細め、赤くけぶる砂埃の向こうを眺める。馬の手綱を掴む手に、じんわりと汗がにじんだ。
 ――あっ、と気付いた時には遅かった。一瞬のうちに、目の前に迫る真っ白な毛並み。目の前につきつけられている硬そうな黒い塊は、一体何なのだろう。トールはおそるおそる、その白い馬に乗っている人物を見上げた。ボロ布のようなマントを羽織り、フードを深くかぶっている。
「……あんた、だれ?」
 トールがおそるおそる顔を上げると、その人物はかすかに身動いだ。男だ、とトールは思った。父さんよりは若くて、強そう。村の人じゃない。こんなやつをおれは知らないし、こんなに大きくて立派な白い馬は、村にはいない。――じゃあ、こいつは一体どこから来た、誰なのか……。
「……おまえは、」
 低く静かな声が、トールの耳を打った。
「まさか、シンか?」
「……え?」
 トールは思わず聞き返す。
「…………」
 男は舌打ちをひとつして、フードを脱いだ。短い黒髪、深い色の鋭い瞳。若いくせにひどく冷めた気配を漂わせている。
「お、おれは」
 トールは緊張でからからに乾いた喉から、無理に声を押し出した。
「トール。おれの、」
 ごくり、と僅かな量の唾液を飲み込む。
「じいさんが、シンって名前だけど」
「……じいさん?」
 男はきょとんとした顔で聞き返した。そういった表情をすると、彼は奇妙なくらいに若く見えた。やがて口元を歪め、なるほど、と小さくつぶやく。そして彼はトールに突きつけていた黒いものを下ろし、くつくつと肩を揺らし始めた。
「聞いたか、おい――」
 その台詞は、どうやらトールに向けられたものではなさそうだった。
「シンが、じいさんだとさ。あいつが」
 男は、笑っている。腹を抱えて、声を上げて笑っている。
「…………」
 ――なんなんだ、この男は。
 トールは唖然として、この突然の奇妙な訪問者を見つめるしかなかった。

 男は「ヨル」と名乗った。はじめトールは気づかなかったが、彼の背後にはマントですっぽりと覆われた人がじっと座っていた。ひどく小柄なその人物は名乗ることもなく、ヨルも何も言わず、もちろんトールも尋ねなかった。
「じいさんと、知り合いなの?」
「…………」
 馬を降りたヨルとトールは、ゆっくりと砂の上を歩いた。白い馬の上には、例の小さな人影が残っている。
 ヨルはトールから目を逸らした。
「知り合いに同じ名前の人間がいた。それだけだ」
「ふうん」
 ――嘘だ。トールはすぐにそう思った。どうして嘘をつくんだろう。
 祖父の知り合いで、村の人ではないということは、きっと祖父とは村ができる前に知り合ったのだろう。だが、この男はどう見ても二十歳前後だ。計算が合わない。
 ――そもそも、この人は一体どこから来たのだ。
 ふと、ある可能性に思い当たってトールははっと息を呑んだ。もしかすると、この世界には自分たちの知らない、他の村があるのかもしれない。この人は、そこから来たのではないか……。
「この柵の向こうには」
 トールが何かを聞くより前に、ヨルが口を開いた。その眼差しは、少し離れた場所に並ぶ柵に向けられている。彼は柵よりも背が高いから、もっと近付けば中を覗き込めるだろう。ここからでは、村の様子はよくわからない。トールはいつも、柵が人家から離れて作られているところを狙って、村を抜け出しているのだ。
 トールは早口に答えた。
「村があるんだ。じいさんの作った村だよ」
「ほう」
 ヨルは短く相槌をうった。
「真ん中に池があって――地下から水が湧いてるんじゃないかって、父さんは言ってた」
「水がなければ、生きられないからな」
 ヨルは静かに言う。トールはおそるおそる、彼に問い掛けた。
「――あんたの村にも、池があるの?」
「…………」
 ヨルは虚をつかれたように黙り込んだ。トールは困って馬上の人に視線を投げるが、何の反応も得られなかった。ただゆらゆらと、馬に跨っているだけである。
 自分は相手を怒らせてしまったのかと、トールが焦りをにじませはじめた頃、ようやくヨルは口を開いた。怒っている様子はなかったが、困っているようではある。
「村では――ない。おれたちは」
 そう言うと、ヨルはひどく優しいまなざしで白馬の上を振り仰いだ。
「おれたちは、過去の亡霊なんだ」
「……はあ?」
 トールは眉を寄せる。亡霊? 目の前のこの男が? まさか。
「戻らなくていいのか」
 不意に言われ、トールはあっとつぶやいた。そろそろ帰らないと、トールが村にいないことに気付かれてしまう。ヨルが露骨に話題を変えたことに気付きながらも、彼は慌てて馬に飛び乗った。
「なあ、ヨル」
 彼は馬上のトールを見上げた。――亡霊じゃ、ねえだろ。どう見ても。トールは内心でそう思いながら、口を開いた。
「また、来る?」
「…………」
 トールの真っ直ぐな眼差しに、ヨルは少したじろいだようだった。
「おれのことは、あまりひとには……」
「言わない。おれが外に出てることだって、知られたら大目玉だから」
「そうか」
 ヨルはトールから視線を外し、そして赤い地平線の方へと顔を向けた。
「そうだな……気が向けば、な」
「ん!」
 トールはヨルのその消極的な同意に十分満足して、そうして柵を飛び越え、村の中へと帰っていった。
 それは後で思い返しても本当に不思議なことなのだが、トールはその男と彼の連れている奇妙な人物が、少しも怖いとは思えなかったのだった。

 トールの去った後――。
 ヨルは己の体を馬の上に載せ、そして背中に寄り添う人物のマントを軽く解いた。背を丸め、その顔を覗き込む。
 白い顔。半ば伏せられた銀糸の睫毛の下に瞬く、赤い瞳。長く伸びたしろがねの髪……。
「シエ」
「…………」
 少女は目をあげない。みじろぎもしない。何も応えない。それでも、ヨルはその頬を優しくなで、再びマントでその身体を覆い隠した。
 馬は駆けていく。赤い砂の上、黒い青年と白い少女を載せて。