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Chapter.III – 22

 長い夢を見ていた。ただひたすらに、赤く塗りつぶされた夢だった。
 失われたものへの仄かな憧憬と、それを手放したものたちへの呪詛。迷彩柄を描くそれらの間を漂う、儚い肉体。脆い心。
 自分は何を望んでいたのだろう。何に喜び、何に怒り、何を悲しんでいたのだろう。――今、なぜこんなにも悲しいのだろう。
 悲しい? ――いや、違う。これは悲しいのではなくて……多分、寂しいのだ。寂しい。
 ここはこんなにも静かで、穏やかで、優しくて、あたたかくて――それでも、あまりにも寂しい。
 「それ」は呼ぶ。かつて「それ」の側にあった存在(モノ)を。最早声など届かないと知りながら、応えなどないと悟りながら、それでも呼ばずにはいられない。
 いつか――「外」へ。その手を取って、「外」へ。
 そのために自分は生まれてきたのだと、それだけは自信を持って言えるのだ。なぜなら、自分がそうと決めたから。誰に決められるのでもない、押し付けられたのでもない、自分だけの。
 自分の肉体。自分の精神。共にここにある。自分のすべては、ここに。だから、何も怖くはない。それなのに、何故――。
 ――なあ。今、「お前」はどこにいるんだ。何故おれの傍にいないんだ。
 夢。
 夢は始まりと同時に終わりに向かって進んでいく。
 永遠の夢など、どこにもない。
 夢は、必ず終わるのだ。
 その夢の終わりを、じっと待ち望んでいる。

 空が赤く曇ると、嵐がやってくる。
 言い伝えを思い出し、トールは慌てて羊を追った。羊は貴重だ。ある時ふと迷い込んできたひとつがいを、まだ子供のトールには理解できない、ものすごい努力でもって少しずつ殖やしているところなのだから。羊は肉を食用にできるし、その毛を使って繊維を織ることもできる。土地を耕したり荷運びをしたりするのに必要な馬と同じか、それ以上にとても大切な生き物なのだ。――それは彼の両親に日々口うるさく言われていることでもあった。もしかしたら、あの人たちにとってはおれなんかより羊たちのほうが大事なんじゃないか、などと馬鹿げた考えがわいてくるほどだ。もちろん、本気でそう思っているわけではない。
 トールの父親はこの土地を拓いた開拓者のリーダーだった男の長男で、それゆえにいろいろな重圧があるらしい。トールはその孫にあたるわけだが、まだその関係性が具体的な重石となってふりかかってくる年齢ではない。
 それはともかく――問題は嵐である。トールの知る限り、この村を嵐が襲うのは初めてである。彼の生まれる前には、あったのかもしれないが。見張り台の上で、やかましく鐘が鳴っていた。嵐に備え、皆戸締まりをしているのだ。
 この地は湖――というには少し小さいが、池というにはやや広い――を風下で半周囲むようにしてある小さな村で、少しでも離れるとそこからは赤い砂地獄が延々と広がっているのだった。赤くけぶる地平線の向こうに、どんな世界があるのか。それはトールの両親も、もちろん友達も、誰も知らないことだ。トールの祖父は、知っているのかもしれない。だが、彼はきっと話してはくれないだろう。彼はこの地に辿り着くまでの話をするのを、嫌っている。祖父だけではない、彼と同じく開拓者だった人々は、皆同じだ。あの人懐こいメロおじさんですら、昔のことは忘れてしまった、といって教えてはくれないのだから。
 彼は祖父譲りの褐色の目を細め、赤い空を睨んだ。嵐はどこから来るのだろう。何を連れてくるのだろう。
 嵐の被害が少ないことを願いながら、トールは羊小屋に水と餌を補充すると鍵をおろし、己の家の中へと駆け込んだ。
 それから――嵐は実に二晩の間、吹き荒んだ。ときに強い雨も降ったようである。そういった時には雷鳴も遠く聞こえた。
 嵐が過ぎ去るまで、トールらは家の中でできる仕事をした。家具のちょっとした修理や、繕い物である。母親は生まれたばかりの妹の世話で忙しく、トールはそれを横目によく働いた。
 嵐が来てから二日目の夜、トールは仕事の合間に、祖父の部屋へと向かった。
「なあ、じいさん」
「うん?」
 ぼんやりと、窓を眺めていた祖父が振り向いた。 窓は、嵐の始まった最初のうちは外の様子を垣間見せていたが、やがて赤く曇ってしまい何も透かし見ることができなくなった。祖父が見ていたのも、それと同じ様子である。
「嵐、止むかな」
「怖いか?」
 トールはむっと唇を尖らせた。
「怖かねえよ! 怖かねえけど」
「そうか? 私は怖い」
 祖父は、あっさりと言った。トールは拍子抜けしてその顔をじっと見つめる。祖父はまた、窓に視線を投げる。そこに何を見ているのか、トールにはわからない。
 ただ、何となく――今の祖父なら、普段教えてくれない話も、してくれるような気がした。
「じいさんは、さ」
 トールはおそるおそる、言葉を選んだ。
「ここに来る前……この村を作る前、どこにいたの?」
「…………」
 トールと同じ色の瞳が、ちらりと彼を見た。同じであって、同じでない。何が違うのか。それはきっと、祖父が見てきたものをトールが知らないからだ。それを、知りたい。
 祖父は暫し己の血を引く少年をじっと見つめていたが、やがてふ、と笑った。
「我々がどこから来てどこへ行くのか、それがそんなに重要なことか?」
「へ?」
「お前にそれを知るだけの覚悟があるのか?」
 祖父は怒っているのか――トールはそう思ったが、それにしては祖父の表情も声音も、ひどく穏やかだった。
「この地に辿り着いた時、私たちには何もなかった。何もないところから始まったんだよ、トール。それだけは、覚えておきなさい」
 日に焼けて皺だらけの大きな手が、トールのやわらかな髪を撫でた。
 突然トールの目の前に、まるで見てきたかのように、ある光景が鮮やかに蘇った。赤い砂地。馬と馬車が水辺に止まり、人々がそれを囲んで何事かを話し合っている。やがて、彼らは土を焼いて壁を作り、岸に生える叢で屋根を拭いた。少しずつ、少しずつ、だが確実に積み上げて作り上げてきた――それがこの村なのだ。
 祖父はゆっくりとした口調で言った。
「何かを築き上げるのは、大変なことだ。だが、それを失うには、一瞬で済む」
「……じい、さん」
「トール」
 祖父は目を細め、彼を見つめる。
「いつか、お前の子の、そのまた子の……ずっと先の子孫が、また全てを失う時が来るのかもしれないな。そんな日が来ないことを、私は願ってはいるのだが」
「え……なんで、」
 トールには祖父の言う意味がよくわからない。「また」失うとは、どういうことなのだろう。その前は、一体いつ失ったというのか。
 祖父は、一体何を失ったというのだろう。
「でも、さあ」
 トールは思いついたことをそのまま口にした。 
「失くなったら、取り返せばいいんじゃねえの? それか、また新しく探すとか……だめなの?」
「…………」
 祖父は苦笑にも似た表情を浮かべたまま、何も言わなかった。多分、自分の言葉はやや的外れだったのだな、とトールは察する。
 やがて、祖父はぽつりとつぶやいた。
「嵐が、去ったようだ」
 トールはぱっと窓に駆け寄る。赤く曇った窓を指先でこすろうとして、彼は肩を落とした。赤い砂は、外側に付いているのだ。内側からいくら叩こうが、擦ろうが、取れることはない。
 まるで――村から外を眺めているおれたちみたいだ。村の中にいる彼らには、決して外に手が届かない。
 トールは唇を噛む。
「トール」
 祖父の声にも、彼は振り向かない。だが、
「今度、馬の乗り方を教えてやる」
 トールは弾かれたように振り返った。祖父は彼を見てはいる――だが、トールには祖父が別の誰かを見ているような気がしてならなかった。何かを懐かしむかのように、目を細めている。
「ありがとう、じいさん」
 トールはそう言うと、もう寝るね、と声を掛けた。祖父はゆるく頷いて、そしてまるで眠るように目を伏せた。