instagram

Chapter.II – 21

 ヨルの右脚を貫いた銃弾が、背後の床に音を立てて落ちる。ヨルは痛みに呻きながら崩れ落ち、シエに――己を撃ったその少女の上に倒れかかった。彼女の手には、ヨルの与えた銃。銃口からは、未だ薄く硝煙が立ち上っている。
「シエ……?」
 苦痛に歪んだ自分の顔が、赤い瞳に映る。その感情のない赤に、ヨルはぎょっとした。
「馬鹿ナ子供……」
 シエは――先程まで確かにシエだったものは、淡々と言葉を紡いだ。
「オ前ハ何モワカッテハイナイ。ソノクセ自由等ヲ語ルノダカラ、タチガ悪イ」
「どういう、ことだ……?」
 シエは不意に屈み込み、自分のスカートを勢い良く引き裂いてヨルの傷口を縛り、ぐっと圧迫した。止血のためだろうが、酷い痛みでヨルの額に冷や汗が浮いた。
「例エバ……オ前ハココヲ出タモノ達ヲ皆殺シニシテイタナ。ソレハ、私ガサセタコトダ」
「何?」
「カツテオ前ヲ外ニ出ソウトシテイタ、アイツラノ思惑ヲ利用シタ。ソレダケダ」
 ――私ニトッテ、人ヲ操ルコトナド、簡単ナコトナノダカラ。
 「ニルヴァアナ」を抜け出そうとする奴らを、放置することはできない。だから、彼ら自身が撒いた種――つまりヨルに、刈り取らせたのだ。彼の中に植え込んだ、「ニルヴァアナ」への憎悪を使って。
 「ニルヴァアナ」に生きるものたちは、皆その支配下にある。それは、ここを一度離れた者も同じなのだ。ヨルはそれを、信じられない思いで聞いた。
「『ニルヴァアナ』は脳は弄れない。ヘスは、そう言っていたが……」
「勘違イダ。私ヲ見クビッテイル」
 目覚めないものを生かさないのは、その必要がないと判断しているからだ。少しでも人口が減った方が、維持は楽だから――シエは薄ら笑いを浮かべながら、そう言った。
 ヨルは痛みに歯を食いしばりながら、シエの姿を借りた何かを睨みつける。
「お前の目的は何だ? 何のためにそんなことをする」
「――人ハ、自由ヲ得ルベキデハナイ」
 シエは笑みを消し、そう言った
「『ニルヴァアナ』ハ楽園ナドデハナイ。ソレハオ前タチノ勝手ナ解釈ニスギナイ。『ニルヴァアナ』ハ牢獄。文明ヲ滅ボシ、地上ヲ地獄ニ変エタオ前タチガ、再ビ同ジ過チヲ繰リ返スコトノナイヨウニ。オ前タチ人間ヲ隔離スルタメノ、システムナノダ」
 ――彼女の紡ぐ言葉が、ヨルの上にしんしんと積もっていく。頭が割れそうに痛むのは、失血したせいだろうか。それとも、彼女の言葉が真実なのだと、そう理解してしまったせいだろうか。
 事実は何ともあっけないものだった。「ニルヴァアナ」は人が再び増え、地上に進出することを防ぐための檻。快適な衣食住を与え、老いることのない体を提供し、その代わりに自由と次世代に続く未来とを奪った。目覚めなくなる人間のことを考えれば、「ニルヴァアナ」に生きる人間たちは少しずつ減っていくだろう。そしてそれがゼロになった時――「ニルヴァアナ」の役割は終わる。「ニルヴァアナ」から逃げ出そうとした者たちは、同じく「ニルヴァアナ」から外に出された子供――ヨルの手によって刈りとらせた。彼の内にあったどうしようもない「ニルヴァアナ」への憎悪は、それ自身によって植えつけられたものだったのだ。
 本当に人形だったのは――操り人形だったのは、おれだ。
 床に倒れ伏すヨルを、シエが空虚な瞳で見下ろす。その冷たい眼差しに、ヨルは凍えるように身を震わせた。
「オ前ノコトハ、ソロソロ潮時ダト判断シタ。ソレデ、迎エヲヤッタ」
 小さな白い手が、シエ自身を指差す。
 そうか、おまえはおれを迎えに来たのか……何故か、不思議と笑みがこぼれた。きっと、シエもそんなこととは知らなかっただろう。ヨルにつきまとい、少しずつ距離を縮めて、まるで彼を挑発するような言葉を吐いてみたり、そう思えばひどく控えめに甘えてみせたり。あれは全部、嘘だったのだろうか。ただ、そうするようにとプログラムされていただけのことだったのだろうか。
 ――今となっては、どうでもいいことだけれども。
 ヨルは、もうひとつの疑問をつぶやいた。
「じゃあ……、外で生きていた者たちは一体、何なんだ?」
 シエは、あっさりと返答した。
「コノシステムノ製作者ノ末裔ダロウ。彼ラハココニ生キルコトヲ良シトシナカッタ。生キ延ビルコトガデキルカドウカヲ賭ケルノダト、ソウ言ッテイタ。コイツノ目ヲ通シテ見タトコロ、ドウヤラカロウジテ生キテイルラシイガ……人口ヲ増ヤスホドノ余力ハナイ。彼ラノコトハ、私ハ知ラナイ」
「……そうか」
 ヨルは目を閉じる。これ以上、あの冷ややかな赤い眼差しを見つめる気にはなれなかった。
 ――皆、元気にしているだろうか。シン。ナオ。他のものたちも、皆。砂から作られた水を飲み、固いパンを食べて……それでも、どうにかして生きているのだろうか。
 どうか、生きていて。
 ヨルは願った。おれのことなど、忘れてくれ。「ニルヴァアナ」のことなど、忘れてしまえ。赤い砂とともに、赤い砂に還る日まで――生きていてくれ。
「ヨル」
 その名を呼ぶ声は、変わらない。まるで先ほどまでと変わらない、甘い憧憬を秘めたような音。ヨルは苦笑にも似た表情を浮かべた。仕方ない。シエに奪われるのなら、仕方がない……。
 シエの手が、思いのほか強い力で彼を掴んだ。引きずるようにして、ずるずると彼を移動させる。痛みは既になかった。右足の感覚が、もはやすっかり痺れてしまっている。ヨルは抗う気力もなく、彼女のするままに任せた。
 ――シエ。
 今はもう、あの少女はここにはいない。そのことを悟っていながらも、ヨルは彼女に呼びかけずにはおられなかった。
 意識がどろりと混濁していく。耳に響いているのが自分の声なのか、それとも別の何かなのか、自分が今落ちているのか、昇っていくのか、何もわからない。
 ――シエ。
 ヨルは己に触れているその温度を、力を込めて強く引き寄せた。
 ――おまえは、人形なんかじゃない。おまえは、……。
 視界が揺れる。しろがねのきらめきは、シエの髪だろうか。あの、赤い瞳は――もはや、判別がつかなかった。
 ――だから、お前に殺されるというのなら。
「仕方……ねえ……か、な」
 ごぼり、と口と鼻の中に生ぬるい液体が流れ込み、ヨルはひどくむせた。苦しい。苦しい――暗転。
 そこで、ヨルの意識はぶつりと途絶えた。
 
 
 モーター音が、じりじりと響いている。
 乱立するガラス管の、ひとつの前に立ち尽くす少女。その鮮やかな赤い瞳は、吸い寄せられるようにそのガラス管の中を見つめている。
「……ナゼ泣ク」
 少女は、無機質につぶやいた。その両の頬を、透明なしずくが次々に流れ落ちていく。
「ナゼ、泣イテイル」
 少女は再び問い掛ける。だが、その問いに答えるものはここにはいない。
 少女のまとうワンピースはその裾が激しく裂けており、彼女の白い脚がその腿のあたりまであらわになっていた。そこに巻かれた無骨なベルトと、おさめられた銃。先程銃弾を放ったことが嘘であるかのように、黒ぐろとした銃身は静まりかえっている。
「シエ」
 ぷくりとした赤い唇が、彼女がそう呼ばれていた名前をつぶやく。涙はまだ、止まらない。
「オ前ノ役割ハ、終ワリダ」
 不意に、少女は首を横に振った。
「ソノ、ハズダ……」
 彼女は動かない。そこに足が縫い止められ、動けないかのようだった。
 暫しの沈黙。
 やがて少女は、銃を手にとった。涙はもはや、流れていない。
「――――」
 小さく囁かれたその言葉を耳にしたのか、目の前のガラス管の中に眠る人影が、小さく揺らめいた。

 あてのない旅路。シンは額を流れる汗を拭った。
「本当に、あいつの方向感覚って化物レベルだったんだなあ」
 あたり一面、赤い砂漠である。何一つ方角を示すものはない。かつてここを駆けた時は、いつも先陣を切る黒い男の姿があった。彼は真っ直ぐ獲物をめがけて突撃し、そして真っ直ぐ集落を目指して帰還した。今のシンには、どちらの方角に自分たちの集落があったのかすらわからない。
 効率を上げるため、彼らは四方に散っていた。何かめぼしいものを見つけた場合は、篝火を焚いて知らせる約束である。散ってから三日間、一度も火は上がっていない。
「……なあ、シン」
 隣に、メロが馬を並べた。砂に汚れたその顔はいつの間にか少年らしく、凛々しくなっていた。――いつまでも、子供だと思っていたのにね。シンの感慨をよそに、メロは眉をひそめ、辺りを見渡す。
「なんかさ、空気が変わったと思わねえ?」
「空気が?」
 そういえば、空がいつもよりずっと暗い。常に頭上を覆っている灰色の雲が、今に限っては妙に厚いようだが、メロの言うのはそういう意味なのだろうか。振り仰いだ彼の顔に、ぽつりと何かの雫が降った。
「ん?」
「今、なんか……」
 いつの間にか、彼らは歩みを止めていた。ぽたり、ぽたりと垂れ落ちる水滴が、彼らのまとうマントに歪な水玉模様を描く。
「……もしかして、これって」
 シンは己の声が震えるのを感じた。
「あめ……ってやつ?」
 伝承でしか聞いたことがない、雨という名の現象。かつて、空は時に恵みの雨を降らせたという。今までは、砂粒の中に僅かに含まれていた水気を、どうにかして工場で水に変えていた。雨が降れば、そんな必要はない。工場がなくとも、水が手に入る――。
「水袋を開けろ! これを貯めるんだ」
 シンの言葉に、皆慌てて馬から降りた。勢いを増す雨に頭からずぶ濡れになりながら、馬の背にくくりつけてあった水袋の口を開ける。
「水が止んだら、篝火をたかなくちゃ」
 シンはつぶやく。
「雨が降ってきたってことは……、水場が近くにある可能性が、ある」
 もしかすると、彼らが生き延びられる術が見つかるかもしれない――。過度の期待は禁物だ。そんなことはわかっているが、高鳴る鼓動は抑えられない。
「こりゃあ、すげえ……!」
 メロは空を仰ぎ、口を開いた。舌を濡らす雨に、もちろん味はない。だが何故だろう、少し塩っぽい気がする。顔の上を流れた雨が、汗と混じり合ったせいだろうか。
 シンはメロを見て、そして少し笑った。
「みんな、泣いてるみたいだ」
 悲しいはずはないのに、何故そう思ったのだろう。
 激しく降りしきる雨が、彼らの足元に、赤い大地に染み込んでいく。彼らが馬をつないで幌の中に避難した後も、雨はただひたすらに降り続いていた。