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Chapter.II – 20

 まるで箱庭だ、とシエは思った。
 「ニルヴァアナ」は、実際のところひどく狭い。外でシエが過ごした集落よりは少し広いだろうか。彼女の足でも半日かからずに外周を一周りできるだろう。だが、地下にどうやってこれほどの空間を確保したのかは、シエにはわからない。元々あった地形を、どうにかして利用したのだろうか。
 人々が彼らを探している気配はなく、うっそりと静まり返っていた。
 ふたりは人気のない建物を選び、鍵を壊して入り込んだ。集落ではどれも錆びついて機能しなかった蛇口だが、ここでは捻れば水が出る。ヨルとシエはそれをたっぷりと飲み干して、勝手に腰を下ろした。ここの住人は、今はあの場所で――ガラス管の中で、眠っているのだろうか。シエがぼんやりと壁を眺めていると、ヨルがどこからともなくパンとハムを手にして戻ってきた。
「食っておけ」
 差し出されたそれを、もそもそと口に入れる。死体から作られた自分なのに、ちゃんとお腹は空くのだから、おかしなものだ。多分、それが生きているということなのだろう。
 薄暗い部屋の中で膝を抱えていると、だんだん眠くなってくる。思っているよりも、彼女の体は疲労を蓄積していたのかもしれない。うつらうつらと身体が傾ぐのを感じたシエは、不意に背中を何かに受け止められた。
「……ヨル……?」
 シエの華奢な体が、ヨルの腕の中にすっぽりとおさまっていた。ヨルは無言で、シエの肩に腕を回している。
「…………」
 シエはほう、と吐息をついて、目を閉じた。ヨルが何も言わずにここに座っているということは、今は休んでいていいのだろう。胸の前にある彼の腕に、そっと手を触れる。
「ヨル……、わたし……」
 何かを伝えたかった。けれど言葉は眠気に飲み込まれて、その形を失っていく。
 シエは泥のような安らぎに、その身を埋めていった。

 一方のヨルは、身じろぎもせずにじっとしていた。静かに眠るシエの、小さな肩が呼吸のたびに上下するのを、眺めるでもなく眺めている。
 ――ここでは時が止まっている。ということは、今ここに生きている奴らはみんな、あの時の……地上の文明が滅びた時のことを、知っているのだろう。幼かった自分はほとんど覚えていないが、きっと彼らは覚えているに違いない。彼を連れてきた母親も、恐らくは。
 忘れたなどとは言わせない。やはり、こいつらは罪人たちだ。世界を滅ぼし、「楽園」に逃げ込んだ大罪人。それでいて、彼らはこの偽りの「楽園」以上のものを欲して止まない。過去のことなど、まるでなかったかのように口をつぐんで。
「……本当に……、屑ばかりだ」
 ヨルは吐き捨てた。
 苛々する。その苛立ちは、彼をずっと駆り立てているものだった。地上で暮らしていた頃から変わらない。その激情こそが、彼の手に武器を取らせ、彼を馬に跨がらせてきたのだ。
 おれは……、そんなのは、嫌だ。ヨルははっきりと、そう思う。
 集落の中でおとなしく砂に塗れて生き、やがて砂に還るのも。「二ルヴァアナ」に支配され、永遠の虚無に囚われて生きていくのも。どちらも、嫌だ。そんなのは、生きているとは――生きたとは、言えない。
 とくん、とくん、と心臓が鼓動している。ヨル自身の中、そして先ほど確認したようにシエの中にも。彼らは生きている。間違いなく、生きている――のに。
「チッ」
 ヨルは舌打ちをして、シエの髪に顔を埋めた。どうしたらいいのか、わからない。あてもなく地上に出ようとしている自分――シエを道連れにして、おれは無謀すぎる試みをしようとしている。
 シエはそれでもいいと言っていた。一緒に野垂れ死ぬことになっても、構わないと。おれも、構わないのだろうか。この小さな命が傍らで失われてしまったとしたら、おれはどうするだろうか。
 それは、ひどく嫌な想像だった。彼を映して微笑む瞳が、彼にすがりつく小さな指が、彼を呼ぶ甘く幼い声が。ついこの間までなかったはずのものなのに、今となってはもう、なくなることなど考えられないのだった。
 だから――だからこそ――。
 おれは、生きたい。
 ヨルは思った。
 おれは自由だ。何者にも縛られはしない。おれは生きている。生きていく。邪魔するものは、それが何であっても容赦しない。
「…………」
 ヨルは目を閉じ、シエの額に己のそれを合わせた。彼の短い黒髪と、シエの銀髪が混じる。
 ――おまえが、おれに自由をくれた。おまえにそのつもりはなくとも、おまえはおれにとって自由の象徴となった。
 さあ。
 ヨルはつぶやく。
「行こう」

 シエは軽く揺さぶられ、眠りの淵から目覚めた。既に、辺りには闇が立ち込めている。
「行くぞ」
 ヨルはそう言うと、彼女を片腕で抱え上げた。シエは小柄とはいえ、そこまで幼いわけではない。重いでしょ、下ろして、と訴えるが、ヨルに無視された。彼女を抱えている方が、かえって身動きが取りやすいのだろうか。
「おれが片腕を使えない分、おまえがやれ」
 ヨルはかすれたような声で囁いた。
「まず――『二ルヴァアナ』の中枢に行く。もしかすると、地上について何か情報を秘匿しているかもしれない。おまえはなにか知っているか?」
「ううん」
 首を横に振ったあと、肩を落とす。自分は役に立たない。「二ルヴァアナ」は自分を作ったけれど、そんな特別な何かは与えてくれなかった。ヨルは大して期待もしていなかったのか、特に落胆した様子はなかった。
「それならいい。直接聞くまでだ」
「……その、中枢? の場所は、わかるの?」
「知らない。とりあえず、さっきの建物から探してみるさ」
 地上でもし、水のある場所が分かれば。そこを目指せば、彼らが生き延びることができる可能性がぐっと高くなる。出鱈目に走り回っても無駄死にするだけだ。
 シエはヨルの言葉に耳を傾け、やがてこくりと頷いた。
「わかった。行こう」
 両腕で、ヨルの首をゆるく抱きしめる。足にはあの、銃。大丈夫、きっとうまくやれる。
「ここにいる人間は、亡霊だと思え」
 ヨルは言う。
「本来はもう、とっくに死んでいなきゃいけない人間たちばかりなのに……生き過ぎているんだ」
 死ぬ機会を逸して、生き続けている。
 ヨルも、ここで生き続けていればそうなっただろう。実際、外に放り出されるまでの彼は、幼い日のまま心を止めて生きていたのだから。だが、今はもう、違う。
「もう、こんなのはやめだ」
 ヨルはつぶやく。
「やめなきゃ、ならない」
「…………」
 シエはこくん、と頷いた。ヨルは彼女を抱いたまま立ち上がり――やがて外へと身を踊らせた。

 誰かに見つからぬように、人気のない通りを疾走する。ヨルは迷うことなく、例の建物へとたどり着いた。
 見張りはおらず、扉も手を当てればあっさりと開いた。簡単に入り込めたことに拍子抜けしながらも、ヨルは先程よりもずっと奥の方へと歩みを進めていく。
 耳障りなモーター音は、やはり先程と変わりなく響き続けていた。
 ガラス管の中には、ひとりひとりびらばらに収められた人々。寂しそうだな、とシエは思った。同じ眠るのなら、わたしはヨルと一緒に入れて欲しい。
「『二ルヴァアナ』は自律システムだ、と言っていたな」
 ヨルはつぶやいた。確かに、それはシエが言っていたことだ。考え込むように視線を落とし、ヨルは言う。
「何も入力する必要のないシステムに、アクセスする方法はあるんだろうか……」
「…………」
 シエには難しい単語はよくわからない。
「ヨル。わたし、自分で歩く」
 あたりに人気のないことを確認し、ヨルはシエを下ろした。手を繋ぎ、歩みを進める。一歩一歩歩くたび、ぼろぼろの靴底が床とこすれて不快な音を立てた。
「どうやったら『ニルヴァアナ』と疎通ができる……?」
 あてのない疑問符を投げかけながら、ヨルは天井を振り仰ぐ――そして、はたと足を止めた。
「ヨル?」
 シエは不思議そうにヨルを見上げた。彼の視線を追って、あ、と息を呑む。
 並んだガラス管の中、ねむるひとびとの頭上に文字が順に浮かんでいる。光の反射で形作られた文字だろうか。ゆらゆらと揺らめきながらも、ヨルに何かを伝えようとしていた。
「――『楽園トハ何ダ』」
 読み上げたヨルは、不思議そうに眉を寄せた。
「どういうことだ?」
 先程までの文字が一度消え、新たな文字が浮かんだ。いくつものガラス管を使い、浮かび上がる光はひどく幻想的で美しい光景だった。眠る人々はその上に光を戴いていることになど気付くこともなく、強制的な眠りの中を漂っている。
『人ハ皆、ココハ楽園デハナイトイウ。オ前ハ楽園ヲ探シニ行クノカ』
「楽園……」
 ヨルは口の中にその単語を弾けさせ、そしてふ、と息を漏らした。唇はゆるやかな弧を描いて、少しだけ笑っているようだ。
「『ニルヴァアナ』は、人間のための楽園として作られたのだったな」
 死ぬことも老いることもなく、勿論飢えることもない。安穏とした眠りに守られた、変わることのない繰り返しの日々。
 ――滅びに直面していた人類の祈りを、そのまま具現化して作られたはずの楽園、「ニルヴァアナ」。だが、今となっては、その祈りは呪いに姿を変えてしまったのだった。どうやらこの事態に、「ニルヴァアナ」は戸惑っているらしい。戸惑うなどというとまるで人間じみているが、そうでもなければ「二ルヴァアナ」の投げかける問いには説明がつかなかった。
「おれは」
 ヨルはきっぱりと言った。
「楽園など要らない。地獄なら地獄でもいい。おれは」
 彼は何度も「おれは」と繰り返した。自分が言えるのは自分のことだけ。人類を代表するようなことなど、言えるはずがない。
 ――おれは、おれだ。こころとからだ、ここに在るのがおれのすべて。
「おれの望むとおりに生きられたら、それでいい」
『デハ、オ前ノ望ミハ』
「おれの望みは」
 ふ、とヨルは視線を落とした。
「おれは……」
 彼の脳裏に浮かんだのは、途方もなく広がる赤い大地だった。赤い砂、赤い風、赤い空。馬を駆って走るその瞬間、彼は自由だった。
 自由。
 おれは、自由になりたい。
「自由に生きて、自由に死ぬ。それが、おれの望みだ」
 シエを握る手に、力が籠もる。
『ソノ人形ヲ連レテ行クノカ』
 人形。それがシエを指すということに、ヨルは少し経ってから気が付いた。
「シエは人形じゃない。おまえは、人形を作ったんじゃない」
 シエはじっと立ちつくし、ヨルと「ニルヴァアナ」の奇妙な会話を眺めている。
「おまえが作ったのは人間だ――おれと同じ人間。何故、作ったおまえ自身にそれがわからないんだろうな……」
『外二行クノカ』
「そうだ」
 ヨルの返答と同時に文字は消え、そして次の文字は浮かばない。何かを考えているかのような、間だった。
 「二ルヴァアナ」は外に興味を抱き、シエを作ったのだという。彼女の外での記憶を、「二ルヴァアナ」はどうにかして垣間見たのだろうか。外の世界で生きている人々の存在を、知っただろうか。――だが、彼らもまた、自由ではなかった。あの場所から離れられないという意味で、離れようとしないという意味で、自由ではなかった。
 本当は、もっと他の遺跡があったかもしれないのに。もっと他の、優れた工場があったかもしれないのに。彼らは探そうともしなかった。自らの持つ工場を調べたり、革新しようとしたりもしなかった。あれを少しばかりいじったのは、ヨルだけだ。
「『二ルヴァアナ』――おれはこのシステムを必要としない。外に、出て行く」
 ヨルの言葉に、ずっと唸りを立てていたモーター音が突然、止まった。
「ソンナコトハ、ユルサナイ」
 聞き慣れた声の、聞き慣れない口調。それとともに、ヨルの右脚を灼熱と激痛が襲った。