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Chapter.II – 19

 手を引くヨルの力は強い。シエは早々に息を切らせ、声を上げた。
「どこに行くの?!」
「…………」
 振り向いたヨルは唇の端に薄い笑みを浮かべ、シエを軽々と抱え上げた。そのまま駆けていく。シエはヨルの首元にしがみつきながら、後方に視線を投げた。怒号を上げて追ってくるひとびとが見えるのではないかと恐れながら――だが、その予想は裏切られた。
「ヨル」
 シエはつぶやく。ヨルは足を止めなかったが、きっと聞こえていただろう。
「……誰も来ないよ」
 それでも、ヨルは走り続けた。次第に、息が上がってくる。それでも彼は走った。追われるから走るのではない。ここではないどこかに向かうために、彼は走るのだ。
 みるみる小さくなっていくひとびと――やがて、見えなくなっていく。彼らは意思というものをどこかに取り落としてきたような、結局のところヨルやシエのことなどどうだっていいとでもいうような、そんな空虚な顔で彼らを見送っていた。顔立ちは皆違うはずなのに一様に見えるのは、浮かんでいる表情がひどく似通っていたせいだろう。遠ざかっていく姿は、まるでオブジェのようですらあって。
 ああ、だからあのひとたちはここから出られないのだ。シエは強く思った。きっと、永遠に踏み出せない。だからこそ苛立ち、怒っている。
 やがてヨルは立ち止まり、シエを地面に下ろした。そこが「ニルヴァアナ」においてどういう位置なのか、シエにはわからない。変わらず空は澄んでいて、地面にはうっすらと丈の短い草が生えている。辺りには建物がないところを見ると、外れの方なのかもしれない。
「これ以上ここに用はないな」
 ヨルは額に浮かぶ汗をぬぐった。
「こんなところ――滅ぼす価値もない。きっと、勝手に滅ぶだろう」
 ここに未来はない。切り立った断崖絶壁の上に築かれた、砂上の楼閣に過ぎない。扉が開いて外の赤い風が吹きこめば、あっという間に崩れ去るだろう。あるいは、ヨルこそがその風なのかもしれない。シエはぼんやりとそう思った。
「…………」
 土の上に腰を下ろしたヨルの傍らに、シエはしゃがむ。ワンピースの裾が土に汚れるが、気にはならなかった。そのシエを、ヨルはちらりと見遣った。
「おまえは……『ニルヴァアナ』が作ったモノだと言ったな」
「……そう、だけど」
 ヨルは黙ってシエを引き寄せた。その薄い胸に、ひたりと耳を押し当てるようにして抱きしめられる。
「ヨ、ヨル……?」
 鼓動が早鐘を打ち、シエは声をうわずらせる。
「黙れ」
「…………」
 静かに、しかし強く遮られ、シエは口をつぐむ。ヨルはひどく真剣だ。シエは自分の手のやり場に迷い、結局はヨルの両肩の上にそっと置いた。
 しばらくの沈黙の後、ヨルはぽつりと言った。
「心臓、動いてる」
「……う、うん?」
 怪訝そうに首をかしげるシエの顔に、ヨルは己の顔を寄せる。ヨルの呼吸が、シエの頬にあたってくすぐったい。彼のすうっと通った鼻筋を、シエがまばたくたびに彼女の銀糸の睫毛がかすめていく。
「呼吸も、している」
「…………」
 シエはこくり、とうなずいた。ヨルはそのままの距離で、ゆっくりと言った。
「おまえは、生きている」
「……ヨル?」
 彼の深い色の瞳に、自分が映っている。何故か、その自分は泣きそうな、それでいてひどくしあわせそうな顔をしていた。
「おまえは……」
 ヨルは言葉を選びながら、シエに問いかける。
「ここを離れても、大丈夫なのか」
「え?」
 どういう意味か、と聞き返すシエに、ヨルは再度尋ねた。
「『ニルヴァアナ』を離れても、その体は維持できるのか」
 つまり、ヨルはシエを心配しているのだ。ひとから生まれたひとではないシエが、彼女の創造主たる「ニルヴァアナ」を離れてもその生命の形を保てるのかどうかを。ヨルがシエのことを思ってくれている――そのことに気付いたシエは、ひどく胸を高鳴らせた。
「……それは、たぶん、大丈夫」
 シエは頷いた。自分で自分の体にそっと触れる。妙に熱く感じるのは、ヨルがこんなにも近くにいるからだろうか。実のところ、彼女の返答には根拠はない。ただ何となく、大丈夫だろうと漠然と思った。
「それなら、いい」
 ヨルは一度彼女を抱きしめてからとん、と離し、立ち上がった。
「行くぞ」
「……うん」
 しっかりと繋がれた手。
 辺りが暗くなったら、どこかで水と食料を調達する。そうして、外に続く扉に向かおう。邪魔をする者には容赦はしない。ヨルはそう言った。馬はできればどこかで手に入れたいが――それが可能かどうかは分からない。
「正直、何のあてもない。無事にここから出られても、野垂れ死ぬだけの可能性が高い」
 ヨルは淡々と言った。
「だから――もう一度、よく考えろ。本当におれと来るのか、それともここに留まるのか」
「ヨル」
 シエは彼の言葉を最後まで聞かなかった。きっぱりと、彼の名を呼ぶ。
「わたしはずっと、ヨルと一緒にいる」
 ――わたしはわたし。ここにあるものがわたしの全て。
 わたしは確かに作られた存在(モノ)かもしれないけれど、決して支配されたりはしないし、屈服もしない。手に入れたこの生命は、わたしだけのもの。
 ――だって、わたしは人形じゃないって。他でもないあなたが、そう言ったから。
「わたしの中からヨルがなくなったら、それはもうわたしじゃない」
 シエはそう言い、ヨルに両腕を広げて抱きついた。ヨルは少し戸惑ったように体を揺らした後――彼女をそっと、包み込む。
「そうか」
 短い言葉。だが、そこから伝わる何かはひどくあたたかく、切ないくらいにやさしい。
 ――シエはあの、外の赤い世界をひどく懐かしく思った。赤い土。赤い空。赤い風。今はただ、あの世界に還りたい。ヨルとともに。

 集落に残るもの、外に出るもの。数えてみると、前者が三分の二、後者が三分の一であった。後者には血気盛んな若い男たちや、未だ子供ではあるが大人の言いなりにはならない程度には育っているもの――たとえばメロなど――が多かった。シンは小さく苦笑を浮かべた。自分は基本的にはやる気のないタイプ、だったはずなのだが。
 頭数で残りの食料と水を分け、シンをはしめとする出ていくものたちは三分の一のそれを馬車に積み込む。
 ナオは、残る側の人間の中にいた。その瞳には既に何かを諦めているような、さめた色が漂っていた。その色は、ヨルがシエを連れてきたときからちらほらと彼女の中に浮かび始めていたもので、ヨルが去った後はなおさらそれが濃くなってきたようだった。
「本当に、行くのね」
「うん」
 シンははっきりとそう言った。――不安がないわけではない。この赤い砂の中に、そう都合よく新天地が現れるものか、彼にはわからない。だが、ここで壊れた工場と心中するつもりは彼にはなかった。それならば、まだ賭けられるだけのものが手元に残っているうちに、賭けてみたい。その結果負けたとしても、後悔はない。何もしないままでいるよりは、ずっといい。
「あがけるだけ、あがいてみたいんだ」
「そう……」
「きみは、ほんとうに」
「決めたのよ」
 ナオはシンを遮り、力なく笑った。
「わたしは、残る」
「……そっか」
「ありがと、シン」
 シンは少しためらった後、口を開いた。
「もし――もしだけど、あの、ヨルに……会えたら、何か」
 ナオは黙って首を横に振った。
「何も、言うことはないわ」
 彼女の表情は、変わらない。
「……ごめん」
 変なことを言った、と謝るシンに、ナオは首を横に振り続けた。
 やがて、彼女は俯いたままぽつりと尋ねる。
「『ニルヴァアナ』は、探さないの?」
「それこそあてがないよ。それに――」
「それに?」
「……おれらは、さんざんそこから来たひとびとを殺してきたんだ。今更、どのつら下げて――」
 シンは自重の笑みを浮かべる。
「天罰かもな」
「え?」
 シンは答えなかった。――ヨルに導かれるまま、彼らは何も考えることなく「ニルヴァアナ」から現れたひとびとを皆殺しにし、その荷を強奪してきた。そんなことをしたから、突然彼らの生命線たる工場が壊れてしまったのでは……。
「いや」
 シンは顔を上げる。地平線は赤くけぶり、その輪郭を明らかにしない。
「何でもないよ」
 大丈夫。何があっても、この土に還るだけなのだから。
 ――その瞬間シンの脳裏に過ぎったのは、赤い土よりももっと鮮やかな赤を宿した少女の面影だった。