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Chapter.II – 18

 ヨルは軽く首を傾げた。
「妙なことを言う。『ニルヴァアナ』はあくまでシステム――言ってしまえば機械なんだろう? 外を見たい、なんてまるで」
 ――まるで、人間のようじゃないか。そんな意志のようなものが、「ニルヴァアナ」に存在するというのか。
 シエは静かに答えた。
「『ニルヴァアナ』は自律システムなんだよ。人間の指示を受けなくてもすむようにできている。これを作った時代の人間たちは、自分たちを何一つ信じていなかった。文明を破壊し、世界を赤い砂に帰してしまった人間にこの、最後の砦の『二ルヴァアナ』システムを任せることなんてできるわけがないでしょう? だから――『二ルヴァアナ』はここを守るために、自分で考えている」
「…………」
 ヨルは黙って、辺りを見回した。
 彼らの周りでは誰もが眼を閉じ、ここで起こっていることを何も見ていない。従順に、眠り続けているだけである。では、目覚めたあとは? 一年の間何も変わることのなかった世界に戻り、何も変わらない一年間を生きるのみである。それでは眠っていても起きていても、大差はないのではないか。
 なんの不自由もない、なんの自由もない生活。ヘスの言葉を思い出し、ヨルは顔を顰めた。確かに――これは楽園ではない。それでは地獄なのかというと、決してそうともいえないだろう。今朝己の喉を潤した水、やわらかなパン、みずみずしい果物――それと引き換えの、偽りの楽園。
 目を閉じ、耳を塞ぎ、何も考えないようにさえしていれば、ひとびとはここで生きていける。生きてはいける、のだが。
「それで?」
 ヨルはシエを見遣った。
「外を見て、おまえはどうだったんだ」
「…………」
 シエは、ヨルの視線を避けるようにうつむく。
「さあ……。わたしはあくまで『二ルヴァアナ』の人形で、『二ルヴァアナ』それそのものじゃないから」
「人形?」
 ヨルは怪訝そうに言い、シエの顔に手を伸ばした。頬を触り、髪を梳く。
「おまえが、か?」
「他に誰がいるっていうの」
 顔を赤く染め、きっとヨルを睨むシエに、ヨルは何故か小さく笑った。
「おれには、お前よりずっと、ここに生きる連中のほうが人形のように見えるがな」
「…………」
 ヨルのいう意味がわからない。当惑するシエに、ヨルはそれ以上説明しようとはしなかった。
 ヨルは黙っている。何か考えているのだろうか、とシエは彼を見上げる。無表情なその顔からは、何も読み取れなかった。
 これから、どうしよう。シエはふと思った。ヨルは、どうするつもりなのだろう。わたしはヨルといる。それは変わらない。ずっと、ヨルといる。ヨルの手を離さない。でも……。
 不意に、ヨルが歩き出した。シエは慌ててその後を追う。
「どこに行くの?」
「おまえは、どうしたい?」
 シエはえ、とつぶやいた。ヨルは再び、問い掛ける。
「おまえは、どうしたいんだ?」
「…………」
「おまえは人形じゃない。おれはそう思っている。だが、おまえがそう思わないのなら意味はない。おれが正しいとおまえが思うのなら、証明してみせろ」
 ヨルはこの建物から出ようとしている。シエはそれに従いながらも、くるりと背後を振り返った。立ち並ぶガラス管と、そこにおさめられたひとびと。彼らは眠っているはずなのに、何故か、シエは見られているような気がした。まとわりつく幻の視線を振り切るように、シエはヨルを見つめる。ヨルが扉に手を掛けた。
「おまえの意思を」
 光が差し込む。
「見せろ」
 シエは眩しさに目を細め――そして、眼前の光景に気付き息を呑んだ。
 建物の前には老若男女合わせて数十人の人々がいて、全員がまるで睨みつけるように、ヨルを見つめていたのだった。
「……な、」
 何なの。唇から漏れそうになった言葉は、ヨルの手に遮られた。
「おれに何か用か?」
「ヘスをどうした」
 ヨルと同じくらいの年格好の男が、その集団を代表するように一歩、進み出た。ヘーゼル色の瞳はきつくつり上がっている。そこにあるのは憤怒なのか、それとも混乱、あるいは恐怖なのか。彼もヘスと同じく、シエとは目を合わせようとはしなかった。
 彼らはいつからこの姿なのだろう、とシエは思った。「ニルヴァアナ」の中では、年をとることはない。ずっと昔から――彼らはここにいる。ヨルがここを出された日から、きっと何も変わっていない。きっと、世界がついに滅びた日のことも、彼らは知っているのだろう。
「ここから出た者をおまえは知っていると言ったそうだな。彼らはどうなったんだ。なぜ誰も帰って来ない。外はどうなっている。お前は一体今まで何を」
「よく喋るな」
 ヨルはうんざりしたようにつぶやいた。
「知りたければ、自分で調べろ。人任せにするな」
「な、何を偉そうに」
 怯んだ相手を見据え、ヨルは言葉を続ける。
「外を知りたければ外を見に行け。探したい者がいるのなら自分で探せ。自分たちは安全地帯から出ようとしないくせに、情報だけは手にしようなどと。甘いんだよ」
「お、おまえはおれたちを恨んで……」
 その言葉を聞き、ヨルは鼻で笑った。
「恨んださ。憎んでいた。殺したいくらいにな。――けれど」
 ヨルはぐっと、シエの手を握った。
「今はもう、どうだっていいことだ。おれは外に出たことを後悔していない。むしろ、あのままここにいたらこうなっていたのかと知って、ぞっとしている」
 彼の暗い眼差しの中には、明らかな侮蔑の色があった。それに気付いた者たちが、揃って気色ばむ。
「なんだって?」
「どういう意味だ、ヨル!」
「まあ、待てよ」
 進み出てきたのは、やや年配の男だった。白髪混じりの黒髪、まばらな髭。鋭利なまなざしがヨルを抉ったが、彼は全く痛痒を感じていないようだった。男は舌打ちをする。
「お前、自分の立場がわかっているのか? お前は一度『ニルヴァアナ』を抹消されている身だぞ。ここに留まりたければ、それなりの誠意の見せ方ってものがあるんじゃないのか?」
「つまり?」
 ヨルの短い疑問符は、男を一層苛立たせたようだった。
「わからねえ男だな。もう一回外の世界に放り出されたくなかったら、少しは頭使えってことだ」
「…………」
 ヨルは黙っている。それを、男は彼が怯んだと思ったようだ。一転して媚びるような笑みを浮かべ、声を和らげた。
「わかってくれればいいんだよ。おれたちも、昔おまえには悪いことしたと思ってるんだ。できるだけの便宜ははかってやりたいさ。なあ?」
 同意を求めるように見回す彼に、周囲のひとびとは同調するようにゆるく頷いてみせた。
「…………」
 ヨルは無表情に彼らを眺めていた。シエはぴたりと彼に寄り添う。どきどきと、うるさいくらいに鼓動が音を立てていた。
 不意に、ヨルはシエを見下ろした。
「おまえはどうしたい?」
「え?」
 先ほどと同じ質問だというのに、シエの頭は真っ白になった。ヨルはゆっくりと言い換える。
「おまえはここにいたいか? それとも、外に出たいと思うか?」
「ヨル、そいつは」
「おまえは黙っていろ」
 口をはさもうとしたものを遮り、ヨルはシエの答えを待った。
「……わ、」
 シエは震える唇を開く。
「わたし、は」
 ヨルの側にいられれば、それでいいと思っていた。場所など関係ない、ただ彼の後をついていけばそれでいいのだと。
 だが、「おまえは人形ではない」と、ヨルはそう言ってくれた。その彼の気持ちに、わたしは答えなくちゃいけない。ヨルの側にいたいのなら、自分はどうするべきなのか。自分のことは、自分で決めなければならないのだ。ちゃんと考えて、答えを出さなくてはいけない。
 わたしは、人形ではないのだから。
「ヨル、と……」
 シエはごくり、と唾を飲んだ。
 ヨルはしっかりと彼女を見つめていてくれる。彼女の言葉を、こんな状況にも関わらず、じっと待っていてくれる。
 シエの赤い両目に、じわりと涙が滲んだ。
「自由に、生きていきたい……」
 こぼれ落ちた雫は、ヨルが拭った。
 シエはとつとつと、己の言葉を語る。
「わたしは人間じゃないけど、『ニルヴァアナ』に作られたモノだけど、それでも」
 「ニルヴァアナ」はわたしに自由を――自由にモノを見られる目を、語れる口を、歩ける足を。自由に生きるために必要なものをすべて、与えてくれたから。
「自由に生きて、そして」
 ――自由に、死にたい。
「…………」
 ヨルは静かに微笑んだ。
「そうか」
 大きな手が、彼女の銀髪をくしゃくしゃに撫でる。
「おれもだ」
 短く応えたヨルの視線がシエを外れ、そして笑みが消えた。
「本当に、おまえたちがおれにしたことを悔いているというのなら――これ以上何も聞かず、黙っておれを自由にしろ。数日分の水と食料と、馬を一頭寄越せ。それ以上は望まない」
「外に出るっていうのか」
「正気か?! 死ぬだけだぞ」
 口々にあがる声を、ヨルは一笑に付した。
「おれは、死ななかった」
「…………」
 先ほどの年配の男が、再度声を上げた。
「それで、結局おれたちの呪いはどうなるんだ。おまえは、呪いを解く方法を持ち帰ったのか?」
「呪い?」
 ヨルは鸚鵡返しにつぶやき、ふ、と鼻で笑った。
「そうだ。『二ルヴァアナ』に支配されるのではなく、『二ルヴァアナ』を支配し、自由に暮らす方法だ」
 一年ごとに眠ったり起きたりを繰り返すのではなく、退屈な不変と同義の不老不死となるのではなく。ごく普通に、ここで生きて死ぬ方法はないのか。
 そう訴える彼らに、ヨルは答えなかった。代わりに口を開いたのは――シエだった。
「そんなもの、あるわけない」
 何故か、言葉が口をついて出てくる。
「『二ルヴァアナ』は神様じゃない。できることと、できないことがある。人口を管理下に置かなければ、資源なんてすぐに枯渇してしまう。計算し尽くして維持されているのよ」
「は……?」
 眼前のひとびとが、シエを見る。見たくなくて仕方がなかったのに、彼女が喋り出したためにうっかり仕方なく視線が向いてしまった。そんな様子だった。
 シエは突然語り出した己に驚きながらも、口をつぐむことはできなかった。次から次へと言葉が湧いてくる――まるで、誰かが彼女の体を使って話しているようだった。
「誰も考えやしない――どうやって『二ルヴァアナ』がここを維持しているのか。エネルギー源はどうなっているのか。水や食物はどこから来るのか、どうやって作られているのか。誰も知らない。知ろうともしない。システムに従って、一年ごとに眠るだけ。外に出た者たちだって、結局は同じこと。手っ取り早く自由になれる世界を、外の世界に求めただけ。無計画に、無秩序に、無責任に!」
「……シエ」
 ヨルが小さく名を呼んだ。まるで宥めるような、優しい声音だった。
 シエははっと息を飲む。――今、わたしは何を言っていた? なぜ、わたしは、なにを……。
「人形風情が、偉そうに」
 ぼそり、と誰かの声が漏れた。それが発端になって、ひとびとは口々にざわめき始める。ぎらぎらとぎらつく眼差しが、彼らふたりを押しつつんだ。
「死体から作られた、人形のくせに」
「気持ち悪い」
「追い出そう」
「そうだ」
「その男も」
「そいつも」
「放り出してしまおう」
「二度と踏み入れさせるな!」
 ――こわい。膨れ上がる怒気に、シエは反射的に身をすくめる。
 自分がなぜ無視され続けていたのか、檻に入れられていたのか――それなのに何故、かつて自分は殺されなかったのか。ひとびとが、彼女の母たる「二ルヴァアナ」の不興を恐れたからだ。結局は、そういうことなのだった。「ニルヴァアナ」に住むひとびとは、「ニルヴァアナ」を愛していない――むしろ、憎んでいる。ひょっとすると、かつてのヨル以上に。憎んでいる。
 そういえば、「二ルヴァアナ」は知っているのだろうか。今ここで繰り広げられている光景を。あるいは、先ほど屋内で交わされた、あの会話を。「ニルヴァアナ」に意思があるというのなら、それは今何をおもうのだろう。
 強張ったシエの小さな体を、ヨルの腕が支えた。そうして、小さく囁く。
「大丈夫だ。おれと、おまえと――そのつもりになれば、こいつらなど皆殺しにできる」
 暗く、冷ややかに燃える眼差し。
「シエ」
 彼女はヨルを見つめた。そして、表情をゆるめる。
「うん」
 ふたりはしっかりと手を握り合い、その場を走り出した。