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Chapter.II – 16

 その光景を見た途端、ぞわり、とヨルは総毛だった。目にしたものをすぐに脳が理解したわけではない。ただ本能的な嫌悪と恐怖が、彼の全身を舐めるように押し包んだ。
 ゆっくりと、目の前の光景を理解する。
 数十本のガラス管の中には、ひとの形をした者がひとつずつ、おさめられていた。その体の各所には、様々な太さのチューブが歪にねじれながら入り込んでいる。それらの年齢も性別も様々だったが、どれも一様に表情なく目を閉じていた。
 これは人間……だが、生きているのか……? それとも……。
 ヨルの聴覚を奪う、耳鳴りにも似たモーター音。背筋がじっとりと汗ばむのを感じながら、彼はヘスに視線をうつした。
「……これは」
「ここに、今『ニルヴァアナ』の半数の人間が眠っている」
 ヘスはつぶやくように言った。
「我々は、一年ごとに眠りにつく。起きている間の一年間をリセットするために」
 死んだ細胞を再生し、傷んだ臓器を修復する。不老不死のからくりは、この「眠り」にこそある。
「一年が経てば彼らは起き出し、ここで生活をする。何不自由ない――そして何の自由もない生活を」
「…………」
 ヘスの言葉に、ヨルの記憶が呼び覚まされる。――そうだ、確かにおれは……この場所を知っていた……。ガラス管の中に収容される「誰か」を……泣きながら見送った……。
「だが、目覚めの時が来ても目覚めないものがいる。体には何ひとつ問題はなくとも、だ。その理由は良くはわからないが、我々は脳の問題ではないかと推測していた。『ニルヴァアナ』も、脳だけは弄れない。だからこそ、我々の記憶は維持されるのだろうが」
「……目覚めないものは、どうなる」
 ヘスは冷ややかに答えた。
「『ニルヴァアナ』は目覚めないものの生命維持はしない。――死ぬだけだ」
 だから、「ニルヴァアナ」は完全な不老不死を実現しているわけではない。あくまで人工的なメンテナンスによって可能となった、生命体の長期的な維持を行っているに過ぎない。
「…………」
 黙り込むヨルに、ヘスは憐みのこもった眼差しを投げた。
「おまえの母親も、『死んだ』のだったな。覚えているか?」
「…………」
 ――やはり、そうか。脳裏に浮かんだその言葉に、ヨルは驚いた。おれはそのことを知っていた。今の今まで忘れてしまっていたが、知っていたことには違いなかった。
 おれの母親は、「ニルヴァアナ」で死んだ。「ニルヴァアナ」に生かされ、そして、殺された。母親という単語を聞いても顔が思い浮かばないのは、ただ思い出せないだけなのか、それともあれから時間が経ちすぎたせいなのか。悲しみは、そこにはない。当時、自分は悲しんだだろうか。わからない。
 ヨルはじっとヘスを見返す。
「ここから外に出た者たちがいたな。あいつらは、何のために外へ?」
「あれは、眠りにつくことを拒否した者たちだ」
 ヘスは目を細めた。
「眠りにつき、そのまま目覚めなければ己の死も知らぬままに死してしまう。そのことに異を唱えた者たちが、『ニルヴァアナ』を捨てて出て行った――」
 一度言葉を切り、ヨルを見つめる。
「おまえは、そいつらを知っているんだな? 会ったのか?」
「…………」
 ヨルはうなずいた。
「彼らは、どうしている?」
「死んだ」
「…………」
 ヘスは少しだけ目を見開いて、やがて小さく、そうか、といった。それ以上問われないことに、ヨルはかえって不思議な気がした。だが、敢えて自分から告げることもしなかった――彼らはおれが殺したのだ、と。かわりに、問いを投げた。
「眠りを拒否すればどうなる?」
「ここを出ていくしかない。出ていけば、つまり『ニルヴァアナ』からデータを抹消すれば、見逃される。外に出た者たちは、皆そうやって出て行ったのだ。無論、戻ってくることはできない」
「見逃される?」
 何故、まるで「ニルヴァアナ」のシステムが敵であるかのような表現をするのか。怪訝そうに言うヨルに、ヘスは唇を歪めてみせた。
「なぜ、眠りは半数ずつに与えられると思う? 残りの半数の者にとっては、眠っているものはいわば人質。彼らを生かすも殺すも、『ニルヴァアナ』次第なのだ。我々はあれに逆らえない」
「…………」
 ヨルは口をつぐみ、辺りを見渡した。半透明のガラス管におさめられた人々は、まるで命のない人形のようだった。その体に繋がる無機質なチューブたちの存在が、逆説的にではあるが、それらが生き物であることを主張している。
 これが、楽園? まるで墓場のようなこの場所が、楽園だって?
「それでも」
 ヘスは苦々しげにつぶやいた。
「我々はここを捨てられなかった。おまえを外に出しておいて、今更だが……それでも、この偽りの楽園を出られない。出るのが……怖いのだ。外は、怖い」
「……おれは、何のために外に出された?」
 ヨルは尋ねたが、彼は既にその答えをなんとなく悟っていた。――記憶の中で、誰かが「呪い」を解くためと言っていた。「ニルヴァアナ」の「呪い」とは、すなわち……。
 ヘスは、露骨に目を逸らした。
「人は、外で生きられるのか。それを、試すためだ」
 それを知るために――そのためだけに、唯一の肉親である母親を喪ったひとりの少年を、赤い砂の中へと放り出したのだ。誰もが、きっと彼は死ぬと予想しただろう。それでも良かったのだ。そんなことは、彼らにとってはどうでも良かった。約束されたはずの永遠が、思いの外不自由なものだったから。それだけの理由で、ヨルの命は賭けに晒された――「迎えに行く」と、記憶の中の彼らは言った。迎えなど、いつ来たというのだろうか。十年以上が経って、誰も来なかった。誰も、誰も。
 彼の殺した「ニルヴァアナ」の者たちは迎えなどではなかった。確かに申し訳程度に彼の存在を記したデータディスクを持っていたものたちもいたが、だからどうだというのだろう。きっと、彼らはヨルのことなどとうに忘れ去っていたに違いない。探すつもりなどなかったはずだ。そうではないなどとは言わせない。決して、言わせない。
 おれは生き延びた。けれど、同じことを、おれはお前たちにはゆるさない。
 赤い砂。赤く汚れた壁。赤く曇った空。そして――流れ出す、赤。
 ヨルは、小さく声を漏らした。
「……ふ、」
 こみ上げるものを、抑えられない。
「ふ、はは、は」
 目の前のヘスが、ぎょっとしたような顔で自分を見ている。そのことには気付いていたが、ヨルは腹の底から噴き出してくるような、この衝動を留めることはできなかった。
「ははははははははは!!」
 ガラス管の中のひとびとは彼の哄笑にも無反応に、ただ静かに眠りについている――。

 シエはヨルの手を握りしめたまま、じっと立ち尽くしていた。ヨルとヘスとの会話は、半分以上理解できない。目の前の光景の意味も、よくわからなかった。ただ、この光景を自分は知っている。良く知っている。
 何故なら、ここは――。
「あ」
 不意に、眩暈がした。歪む視界に、彼女は両の足にしっかりと力を入れて踏ん張る。ヨルの手の感触だけは、変わらずにそこにあって、今のシエにはそれだけが確かなものだった。
 ――おかえり。
 誰かの声が、左右の耳の、ちょうど間くらいから響いた。
 ――おかえりなさい。
 男とも女ともつかないその声は、初めて聞くようでいて、耳慣れているようでもあった。笑っているようにも、怒っているようにも聞こえる。けれど、本当はそこには何の感情もないのかもしれない。淡々と向けられたその言葉は、ひどく冷たく――それでいて奇妙な熱を帯びているようだった。
「シエ? どうした、顔色が」
 不意に、ヨルの固い腕を背中に感じた。どうやら、よろめいて倒れ掛かったところを彼が支えてくれたらしい。目を見開いて彼の顔を見ようとするが、霞がかかったようにぼんやりとしている。声もなくすがりつくと、ヨルはしっかりと彼女を抱えてくれた。
「……ル、ヨル」
 シエは彼の名を呼ぶ。最初に覚えた、ひとの名前。今までで一番たくさん口にした名前。彼女にとって、一番大切な名前。
「シエ? 大丈夫か」
 ヨルの真剣な声に、シエの胸が痛む。
 ヨル。ごめんなさい。わたし……。
「シエ!」
「…………!!」
 視界が晴れた。
 シエは驚いて瞬きを繰り返す。その拍子に、目尻にたまっていた涙が頬を滑り落ちていった。
 目の前にはヨルの顔が迫っていて、その墨色の瞳に映る自分の顔がはっきりと見えた。
「ヨル……」
「手放すな」
 短く、端的な言葉を投げられる。
「おまえは、おまえを手放すな」
「…………」
 ――シエは、小さくうなずいた。
 ヨルはそんな彼女を見て満足そうにうなずき返すと、不敵な笑みを浮かべてヘスを見遣った。
「『呪い』を解く方法を知りたいのだと――そう言っていたな」
「…………」
 ヘスは無表情に、彼らを眺めている。
「つまり、おまえたちは『ニルヴァアナ』を支配したいのか。今のように、支配されるのではなく」
「……ああ」
 ヨルの問いかけに、ヘスはゆっくりと頷いた。
「そうだ」
 のろのろとした口調で、言葉を紡ぐ。
「そもそも、『ニルヴァアナ』とは人間によって生み出されたシステムに過ぎない。己が作り出したものに縛られるなど馬鹿げている。そうは思わないか」
「……そうか」
 ヨルは静かにうなずいた。その口元は、かすかに笑んでいる。その意味は、シエにはわからない。
「外の世界に出る勇気もなく、『ニルヴァアナ』に従うつもりもない……自由に生きたい、と」
 ヨルの手が動いた。
「それなら、いっそ死んでみるってのはどうだ?」
「は……?」
 ぱん。
 ヘスの呆然とした顔の、ちょうど額の真ん中。そこに、黒い穴が穿たれている。
 溢れ出す赤。灰白色の床の上を、這うように流れていく。
「…………」
 ヨルは静かにそれを見下ろす。「ニルヴァアナ」は脳を治すことはできない……。
「――自由になれたか?」
 その問いに、答えはなかった。

 シエは床から目を背け、ゆっくりと首を巡らせる。ガラス管をたゆたう、ひとのかたちをしたモノたち。
 そのうちのひとつが、不意にぐずりと崩れた。
「あっ……!」
 シエは小さく叫ぶ。ヨルはその声に顔を上げ、彼女と同じものを見て息を呑んだようだった。
 もはやそれが男性だったのか女性だったのか、老いていたか若かったのかすらわからない。――どうやらあれは、「ニルヴァアナ」によって目覚めることのない個体と判断されたらしい。
 目が離せない。シエはじっと崩れゆくそれを見つめていた。胸が早鐘を打つ。息が詰まる。
 ガラス管の中の液体が、うっすらと赤く濁り、やがて白い岩のかけらのようなものが下に降り積もる。ホネ、とシエは知らず知らずのうちにつぶやいていた。
「……シエ?」
 ヨルに名を呼ばれ、彼女は彼を見上げる。視界の隅では肉が溶け、骨が降る。足元には生ぬるい血だまり。――血の匂いがする。
 シエははっと息を呑んだ。
 そうだ。思い出した。
 わたしは……。
 そのなつかしい匂いを、大きく吸い込む。
「ヨル、聞いて」
 今、思い出したこと。そのことを、他でもない彼に、聞いて欲しいと思った。それを聞いて彼がどう思ったとしても、それでも。
「わたしは……」
 彼女は震える唇を開いた。
「『死餌(シエ)』。死を、餌にして生まれたの……」