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Chapter.II – 17

 シンは手にしていた工具を放り捨てた。それはかたい床に跳ね返り、ひどく耳障りな音を立てる。
「……駄目だ」
 工場が壊れてから三日。若い男たちを中心に、何とか修理ができないものかと試みられていたが、今のところ何ひとつ前進は認められなかった。きっとこれを何日続けても、結果は同じだろう。
 ――当たり前だよな。シンは苦笑する。この工場を作り出したのは、前世紀の人びとだ。世界が滅びるより前の、高度な技術を持ち合わせていた人びと。この工場には、「ニルヴァアナ」を作り出したのと同じ技術が使われている。シンらはただそれを使い続けてきただけだ。どういった仕組みになっているのか、どんな技術が使われているのか、知ろうともしなかった。結果、彼らには何もできない。何も生み出せなかった。過去の遺物にすがりついて、赤い砂にすがりついて、彼らは何もしてこなかった。何も。何も。
 横で作業をしていた男が、声を上げた。
「おい、シン。どうする」
 彼の必死な視線から、シンは黙って目を逸らす。
 ヨルがいなくなってからというもの、彼と行動を共にすることが多かったシンが、何故か集落のまとめ役のようなものになっていた。そんなものは自分には似合わない、と彼は思っていたが、どうしようもなかった。ただその日を安楽に、適当に暮らすことができればそれでいい。そうやって生きてきた自分が、数十の人びとの命運を握るなどまっぴらごめんなのに。
 おれは死にたくないのだろうか。不意に、シンは自問した。何故、おれは生きるすべをこんなにも必死になって考えているのだろうか。
「なあ、シン――」
 シンを追い詰める、他人の声。――んなこたあ、てめえで考えやがれ。口汚くののしりたくなるのを抑え、シンはできるだけ普段通りに見えるような、ゆるい笑みを浮かべた、
「そうだなあ、どうしようか」
「食糧もだいぶ減ってきた。このままじゃあ、奪い合いが起きちまうぞ」
「うん」
 おまえに言われなくてもわかっているよ。シンは髪をかき上げる。そうして、隣で必死の形相をしている男に、何気なく尋ねた。
「あんたは、死にたくないんだね」
「あ、当たり前だろう」
「じゃあ……」
 シンはじっと、男を見つめた。
「何のために、生きたいの?」
「…………」
 男は絶句する。口をぱくぱくと開閉させるさまは、まるで空気を絶たれでもしたかのようで。
 やっぱりね。シンは内心で男を嘲笑い、やがてそれは自嘲へと変わった。――おれにも、それがわからないのだ。わからないままに生きてきて……いつかは死んでいくのだろう。それが早いか遅いかの違いだ。
 死ぬのは嫌だ。痛そうだし、苦しそうだから。特に餓死なんて、最悪だ。死にたくないのなら、生きなければならない。死にたくないから、生きようとする。それは、本当の意味で「生きたい」のではないような気がする。誰もが皆、そうなのだろうか。
 ヨルは――どうだったのだろう。あの、特徴的な闇色の瞳を思い出す。彼はきっと、そんな消極的な理由では生きていなかったように思う。彼を駆り立てていたのは「ニルヴァアナ」への憎悪か、それとももっと他の何かか。とにかく、彼は生きようとしていた。「ニルヴァアナ」を憎むのと同じくらい、死を憎んでいたような気さえする。だからこそ、彼は己の憎むべきものに死を与えていたのかもしれない……。
 思い出す――以前ヨルと駆けた赤い大地。あの時見た世界は、とても広かった。舞い上がる砂埃と、頭上を覆う厚い灰色の雲。体を掠めていく風は、どこから来てどこへ行くのだろう。
 ――あの時の風に、なりたい。突然、シンはそう思った。
 シンは立ち上がった。
「シン?」
「おれは、ここを出ていこうと思う」
 外に出よう。ここではないどこかで、生きていく方法を考えよう。
 全てを捨てて。おれは、おれに戻ろう。
 そうすればいつか――きっと、あのふたりに会える気がする。
 男が信じられないような、まるで狂人を見るかのような目で自分を見ている。シンはそれを自覚しながらも、どこか晴れ晴れとした気持ちでいた。

 ヨルは、黙ってシエを見つめている。辺りには、まるで透明な棺桶におさめられているかのようなひとびとの群れ。
 シエの赤い瞳は、うっすらと涙に濡れていた。
「わたしは『死餌』。死を、餌にして生まれたの」
「……どういうことだ?」
 ヨルは淡々と聞き返した。シエは彼の視線を避けるように俯く。
「わたしは、人間じゃない。人形だった」
 ――おまえは、ニンギョウだ。
 そう囁きかけてくる声は、彼女のうちから聞こえてくるもの。そのことに、彼女はようやく気付いたのだった。
「わたしは……『ニルヴァアナ』のシステムが作り出した、人形よ。ここで死んでいった人間の体を使って、わたしが作られた」
 崩れた肉。溶けた骨。そういったものを使って、「ニルヴァアナ」はシエというひとつの肉体を作り出したのだ。
 シエの白い肌。赤い瞳。これらは女の腹から産まれでてきたものではない。この、ガラス管の中で生み出されたもの。
「何のために?」
「…………」
 ヨルの声に、シエは顔を上げた。ヨルは今までと何一つ変わらない表情で、シエを見下ろしていた。そこには同情も親愛も見当たらなかったが、嫌悪や侮蔑の色もなかった。ただ、彼はシエを――目の前にある、シエという存在だけを、真っ直ぐに見ていた。
「それは、わからない」
 シエはゆるゆるとかぶりをふった。
「気が付いたら、わたしはこのガラス管から出たところだった。わたしを見て、ここの人々はみんな気持ち悪がった。当たり前だよね、何もなかったはずのガラス管の中に、いきなりこんなものが……」
 小さな手で、自分の胸を押す。その奥には、規則正しく鼓動するものが入っていて、その確かなリズムがシエを安心させてくれた。
「生まれてきたんだから」
「それで」
 ヨルはつぶやく。
「おまえは檻に入れられていたのか」
 初めて出会ったとき、シエは「ニルヴァアナ」から出てきた者たちによって檻に入れられていた。だからこそ、ヨルは彼女を殺さなかった。彼女を「ニルヴァアナ」の仲間ではないと認識したからだ。
 シエは首をかしげる。
「たぶん、そう。ここではずっと、閉じ込められていたんだと思う。でも、なんで……なんでだろうね。わたしが外に連れ出されたのは」
「全部を思い出したわけではないのか?」
「うん。ヨルに会うまでのことは、あんまり……」
 まるで霞がかかったようにぼんやりとして、思い出せない。
「だけど」
 シエはぽつり、とつぶやいた。
「わたしは、外に出て――それで、ヨルに出会わなくちゃいけなかったんだと思う」
 「ニルヴァアナ」がどんな意図でもって自分を作り出したのかはわからない。ただの気まぐれか、それとももっと確かな目的があってのことなのか。だが、ひとつだけ確かなことがあるとすれば――ヨルに出会ったことで、シエのすべてが始まったということだ。
 ヨルを通して、シエはすべてを経験した。ナオに受け入れられ、拒絶され、そしてメロやシンに出会った。赤い砂を掘り、赤い風に吹かれ、赤い血に汚れ――そしてここに来た。傍らにいつも、ヨルを感じていた。
「わたしが、ヨルを迎えに行ったんだったら良かったのに」
 何度か心の中で思っていたことが、ほろりとシエの口から零れ出す。わたしが、ヨルのために作られたのだったらどれほど――。
「シエ」
 ヨルに名を呼ばれ、シエは顔を上げた。彼の手が伸びてきて、両の頬を包まれる。
「誰がどう決めていたかなど、知らない。関係ない。おれは、おまえがおれを迎えに来たんだと思っている」
 真剣な眼差しだった。
「おまえとだから、おれはここに戻ってこようと思った」
 「ニルヴァアナ」――それはいくら憎んでも、いつかは立ち向かわなければならない存在だった。「ニルヴァアナ」が呪われているとするならば、ヨルは「ニルヴァアナ」によって呪われていた。その呪いを断ち切るために、ヨルはここに還ってきた。
「おまえは」
 ヨルはきっぱりといった。
「人形じゃない。人形になどさせない」
 ――だから、
「おれと、来い」
 頬に触れていた手を離し、ヨルはシエにその片方を差し出した。
「…………」
 シエはその大きな手を両手で握りしめる。ぽた、ぽたと涙が頬を伝った。
「うん」
 自分が何者だって構わない。偽物の命だとしても、作られた体だとしても、この想いは――ヨルとのこの記憶は、自分だけのものだ。この手を決して離すものか。シエはそう、誓った。

 ヨルはヘスの死体を、空のガラスケースの中に入れた。ごぼごぼという音とともに管の中には液体が満ち、ヘスの体は宙を漂い始める。しばらくの間そうしていたかと思うと、やがて少しずつ、死体は崩れていった。
 シエはヨルの手を握ったまま、崩壊する肉体をその赤い目で見つめている。
 ――これからどうしたものか。ヨルは沈黙したまま、考えた。何のあてがあるわけではない。とにかく生き延びるために、「ニルヴァアナ」に還ってきたまでのことだ。彼らが望む呪いを解く方法など、ヨルが知るはずもない。興味もなかった。彼の目には、「ニルヴァアナ」の人々が自ら自分を縛りつけながら自由を渇望する、間抜けな集団にしか見えない。結局のところ、彼らは「ニルヴァアナ」をあてにしていて、衣食住に何不自由しないここから離れようとはしないのだ。彼らは「ニルヴァアナ」における不老不死を「呪い」だというが、それすら当時幼い少年に過ぎなかったヨルに押し付け、自らその解き方を探そうとはしなかった。
 このまま自分たちが「ニルヴァアナ」に留まり続けるわけにいかないのは明白だが、だからといって無計画に再び外に出ていくなど、ただの自殺行為だ。
 死を恐れるつもりはない。だが、ヨルは死にたいわけでは決してない。彼にとって、死は敗北だった。結果のわかりきった勝負に挑むなど馬鹿げている。だからこそ、何とかして勝ち抜く方法を――。
「ヨル」
 不意に、シエは彼を呼んだ。ヨルがシエを見下ろすと、彼女のその赤い目はひどく輝きを増していた。先ほどと変わらず、ヘスの飲み込まれたガラス管のある方向をまっすぐに見つめているが、それそのものを見ているわけではなさそうだった。
「……思い出した。何故、わたしが作り出されたのか。『ニルヴァアナ』がわたしを作った、その理由を」
 瞬きもしないその赤は、いったい何を映し出しているのか――ヨルは息をのみ、彼女の言葉の続きを待った。
「『ニルヴァアナ』は、外の世界を知りたかった」
 シエは歌うように、言葉を紡ぐ。
「外を知るための『目』として――わたしを作った」
 ――耳障りなモーター音。それが、いっそう大きくなったような気がした。