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Chapter.II – 15

 地下にも関わらず、ここには昼と夜があるようだった。小さな窓から差し込む光に、シエの意識は覚醒する。眠り込む前には確かに隣にあったはずの温もりは既に消え失せ、冷たいシーツだけがそこに取り残されていた。
 体を起こして見回しても、あたりにヨルの姿はない。
「…………」
 シエは灰色の床に素足を降ろし、窓に近寄った。昨夜は気付かなかったが、彼女の顔よりも少し大きいくらいのサイズのその窓には鉄格子がついていて、しかもはめ殺しのものであった。――これは、何のため? シエは小さな手をその格子に巻きつける。ひんやりと、冷たい。――ヨルを閉じ込めておくため? それとも、わたし?
 そうだ。ヨルはどこにいったのだろう。シエは窓から離れた。
 昨夜、ヨルはじっとシエをその腕の格子の中に捕えていた。少しずつ記憶を取り戻していくヨル。けれど、わたしは何も思い出せない。自分が何者なのか、わからない。それでも、ヨルがいてくれるなら怖くない。
 部屋をふたつに分けている扉が開き、思い浮かべていた顔が覗いた。
「良く眠っていたな」
 ヨルはいつも通りの無表情だが、そんなことはどうでも良かった。シエはほっと息をつき、彼のもとに駆け寄る。
「もう少ししたら、ヘスが来るはずだ。それまでに顔でも洗っていろ」
「うん」
 寝乱れたままのもつれた髪を、ヨルの指が梳く。時折ちくちくと引っかかって髪が引っ張られたが、そんなことは気にならないくらい、彼の手は心地良かった。
「シエ」
 ヨルの、静かな声が降ってくる。
「なあに?」
 見上げると、ヨルは薄く目を細めていた。口元が笑ってさえいれば、笑顔のように見えたかもしれない。そんな、穏やかな眼差しだった。
「おまえは……、きれいないろをしているな」
「!」
 シエは息を呑む。――なぜ、そんなことをいうの。尋ねたかったが、声にはならなかった。
「それは……」
 やがて、彼女はじわりと声を絞り出す。ゆっくりと視線が落ち、彼女は俯いた。
「わたしが……」
 ――人形だから?
 彼女の声が途切れた時、奥の扉からノックの音が響いた。ヘスだろうか。シエはヨルから離れ、顔を洗うために水場へと移動する。
 ――きれいないろ、
 シエは、顔に熱が集まるのを止めることはできなかった。

 やはり、扉の向こうに立っていたのはヘスだった。ヨルがじっと彼を見返すと、ヘスは探るような眼差しをヨルに向けた。何か思い出したのか、尋ねたいのだろう。そう思いながらも、ヨルは何も言わなかった。おれの記憶はおれのものだ。彼らのものではない。
 ヘスはやがて視線を逸らし、ヨルの周りに視線を放った。
「……あれは、いないのか」
「あれ?」
 問い返してすぐに、「あれ」とはシエのことを指すのだと気付く。
「シエか」
「シエ……それは、あれがそう名乗ったのか?」
 ヘスが言い、ヨルは怪訝そうに眉を寄せた。
「……そうだが……それが?」
「……いや」
 そう言ったきり、口をつぐむ。ヨルはますます訝しげにヘスを睨んだ。
「お前たち、シエを――」
 突然、ヘスがぐいと彼の腕を掴み、ヨルを外に連れ出した。扉を閉め、声を低める。
「おまえ、あれが普通の――ただの人間だと、そう思っているのか?」
「なんだと?」
「あれは、人間じゃない」
 ヘスの額にはじわりと汗が浮かんでいた。
「あれは……」
 扉の向こうから聞こえたヨル、と呼ぶかすかな幼い声に、ヘスは言葉を止めた。
 ヨルは振り返ってヘスに背を向け、ぽつりと言う。
「あれが誰であっても――何であっても関係がない」
 かつて、少女が口にした言葉を思い出す。――わたしはわたし。ここにあるものがわたしの全てだから。
 確かにそうなのだろう。彼女には過去がない。だからといって、彼女に何かが欠けているとは思わない。足りないといえば――それは余程自分の方だ。
 ヨルはつぶやく。
「シエはシエ。それだけだ」
「おい――」
「記憶が足りない」
 ヨルは付け加えた。
「もう少し、おれが思い出せる場所に連れて行け」
「…………」
 ヘスは何も言わない。きっとそれは肯定なのだろうと決めつけ、ヨルは扉を開けた。そこに佇む少女の姿に、ヨルはわずかに緊張を緩める。
 シエはヨルを見上げ、唇をわずかに尖らせた。
「置いて行かれたかと思った」
「もしそうなら、どうするつもりだった?」
 思いつくままに尋ねると、シエはふ、と笑った。
「探しに行く」
「おれを?」
「そうだよ。他に誰がいるの?」
 当たり前のことのように、シエは言う。その赤く澄んだ眼差しに、ヨルは奇妙な安心感をおぼえた。
「……そうか」
 差し出された小さな手を握り、ヨルはシエには聞こえぬようにつぶやく。
「――お前がなんだって、構うものか」
 再び、扉を開ける。そこに佇んだヘスは、シエを一瞬だけ見て、そしてすぐに視線を反らした。見てはいけないものを見てしまった、視線が合えば呪いを受けるとでもいうような、そんな様子だった。
 ヨルは苦々しげに舌打ちをする。
 シエを容れようとしない世界など、おれは認めない。「ニルヴァアナ」がシエを認めないというのなら、それでもいい――今度こそ、滅ぼしてやる。

 「ニルヴァアナ」は美しい場所だった。赤い砂のかわりに白や黒の土が地面を覆い、緑がたっぷりとそれを包んでいる。広さは――わからない。ここにどれほどの人間がいるのかも、ヨルにはわからなかった。知っていたが思い出せないのか、それとも元々知らないのか。両者の差が、ヨル自身には判別できなかった。
「何を思い出せた?」
 ヘスは背を向けたままヨルに尋ねた。
「お前たちの時間が止まっていることだ」
 ヨルが即答すると、ヘスはわずかに動揺を見せた。肩まで伸びた、濃いグレイの髪が揺れる。
「……何故止まっているのか、その理由は?」
「さあ」
 ヨルはそっけなくつぶやく。彼の片手は、シエの指先とつながっていた。
「……そうか」
 そしてヘスは小さく続けた。――行き先は決まったな、と。
 あとは無言で歩いた。
 整った風景。ところどころに建つこじんまりとした建物は家だろうか。あまりにも整然とし過ぎていて、本当に人間が住んでいるのか疑問に思うほどだった。赤い砂で塗れたあの集落のほうが、余程人間らしい場所だったようにヨルは思う。――案外、おれはあそこが好きだったのかもしれないな。離れてから気づいた自分に、ヨルは内心で苦笑した。
「みんな、どうしているかな」
 まるで心を読んだかのようなタイミングのシエのつぶやきに、ヨルは驚いて彼女を見下ろす。
「ナオさんにはお世話になったのに。ありがとうって言えなかった」
 わたしは嫌われちゃったみたいだけど、とシエは困ったように眉を下げて笑った。
「ナオが、おまえを?」
 不思議そうに尋ねると、シエは呆れたようにヨルを見上げた。
「ヨル、言われたでしょ。わたしがきてからヨルはおかしくなったって。わたしのせいだって」
「……ああ」
 ヨルはようやく思い出し、そして首を横に振った。
「あれはやつあたりだろう」
「やつあたり?」
「あいつは……ずっとおれに優しかった。おれが拾われた時から、ずっとだ。でも」
 ヨルはじっとシエを見た。
「おれにとって、あいつは特別ではなかった。あいつがそれを望んでいることはわかっていたが、あいつではなかった。それだけだ」
「…………」
 シエは黙ってぎゅっとヨルの手を握る。ヨルはそれを握り返し、ヘスの背中を見遣った。
「おれは……やはり、ここが好きになれない」
 むしろ、嫌いだ、とヨルはつぶやいた。
 「ニルヴァアナ」を憎んだのは、自分は捨てられたと思っていたからではなさそうだった。捨てられたのではないと知った今もやはり、焦げ付くような嫌悪がある。たぶん、もっと別の理由があるのだ。魂の奥底に刻み込まれた、理由が。それは、本能にも似た――。
「でも、あそこには帰れないよね」
 シエは顔を伏せ、言った。
「ごめんなさい」
 彼女は自分を責めている。それはおまえのせいではない、とはヨルは言わなかった。
「おまえは」
 ヨルはシエを見下ろす。
「おれについてくるんだろう?」
 シエはその赤い瞳でヨルを見上げ、こくりとうなずいた。なんのためらいもない、その仕草。
「それなら、いい」
 ヨルはそれに満足して、シエから目を逸らす。――それで、いい。
 心を満たす感情はどこか暗く、それでいて穏やかで生ぬるい、まるで夕闇に包まれたような心地であった。
「ここだ」
 やがて、ヘスが足を留めた。ひときわ大きな建物の前であった。壁は他と同じく、白い。大きさは、他の家屋の数倍以上はありそうだった。
「ここは、なんだ?」
 ヨルは目を眇めてその建物を眺めた。ヘスはそんな彼を冷ややかに見つめる。
「おまえが知るべきことが、ここにある」
 「ニルヴァアナ」の呪いのこと。――そして、
「ここは『それ』の」
 ヘスの指が、シエを示した。
「生まれた場所だ」
「…………!」
 シエの顔がすっと青褪めた。
「シエ?」
 ヨルの声も聞こえているのか、どうか。シエはその真っ赤な目を大きく見開いて、立ち尽くしている。顔色が悪い。ヨルは繋いだ手に力を込めた。
「シエ」
 繰り返し、名を呼ぶ。
「ここにあるのが、おまえのすべてなんだろ」
 それはかつて、シエがヨルに告げたこと。
「だったら、おれは、他に何も望まない」
「…………」
 シエはヨルを見つめ、こくり、とうなずいた。ヨルの指に確かに伝わる、彼女の決意。
「行こう」
 ヘスの姿は既に扉の奥にある。先の見えない闇に向かい、彼らは一歩、踏み出した。
 足下には階段が続く。地下にある「ニルヴァアナ」の、さらに地下。三人の足音が混じり合い、響き合う。
 階段が終わると、そこにはまた扉があった。ヘスが手早く何かボタンを押すと、扉はゆっくりと両側に開く。途端、低い地響きのような音が彼らの聴覚を奪った。
 だが、それだけではない。視界が開けた、その先には。
「何……だ?」
 ヨルがうめく。シエはごくりと唾を飲んだ。
 目の前には、数十の太いガラス管。中は橙色の液体に満たされ、そしてひとつひとつにたゆたうのは――。
「これが、呪いだよ。ヨル」
 振り向いたヘスが、静かにつぶやいた。