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Chapter.II – 14

 そこは地下とは――少なくとも、砂の下とは思えぬ光景だった。まず第一に、空間が広い。地下に空などあろうはずもないのに、天井は光に満ちていてしかも遠く高いのだった。シエはまぶしげに目を細める。足元に目を落とすと、そこには緑の――赤い土の世界では土の上をところどころわずかに這っているに過ぎなかった草が、ここではびっしりと生え、しっとりやわらかく水を含んでいた。
 彼女らの立っている位置は、どうやらいわば高台のようなところだった。眼下の少し離れたところに、白い壁の建物が幾棟か見えている。
 ここは、赤くない。シエは思う。赤い色がどこにもない。ほんとうに? いや――違う。ほんとうは、ある。わたしたちの肌の下、体の中を流れる血の色。わたしはそれの色を知っている。
 それから、他にも。
「シエ」
 不意に名を呼ばれ、シエは顔を上げた。ヨルが、彼女を見下ろしていた。その闇色の瞳の中に、白くぼんやりと彼女がうつっている。瞬く瞳だけが、血の色を透かしたように赤く――。
「何か思い出したか?」
「ううん」
 シエは首を横に振る。
「ヨルは?」
 その問いに、何故かヨルは薄い微笑みを浮かべた。肯定も否定もしない。そうして、視線を前方のヘスに投げた。
「おい。我々をどこに連れて行く気だ?」
「疲れているだろう? 休める場所へ案内してやる」
「休める場所?」
 ヘスの声音には、言葉の内容とは裏腹にいたわりの色などひとつもなく、ヨルは皮肉っぽく彼の言葉を繰り返した。ここにそんな場所があるものか、とでも言いたげだった。
 ヘスは振り返る。頭を覆っていた黒布を取り去ると、その下にはヨルよりも少し年上の、男性の顔があった。その表情はひどく疲れている。最近負ったものではない。もっと以前から少しずつ蓄積されてきた、まるで大岩が水滴に長い年月を掛けて彫り込まれたような、そんな表情だった。
「おまえはどうやら肝心なことを忘れているようだ。少し時間をやる。だから――」
 彼の深緑色の瞳が、鋭く煌めいた。
「思い出せ。この『地獄』の置かれた状況を」
「…………」
 自分で説明すればいいのに。シエはそう思ったが、何も言わなかった。
 そして、ヘスが――いや、彼らのうちの誰もが彼女をヨル以上に警戒していながら、一言も彼女に話し掛けてこない理由。そのことは、できるだけ考えないようにつとめることにした。

 蛇口をひねるだけで溢れてくる透明な水をふんだんに使い、シエは体の汚れを洗い落とした。髪に絡まっていた砂粒を流し、肌をぬぐう。先程は彼らに新鮮なフルーツとやわらかなパンが振る舞われた。――あの集落にいた人々にも、わけてあげたい。水も、食事も。シエはそう思った。彼らもここに来ればいいのに。きっと、その程度の余裕はあるはずだ。誰がそれを望まないのだろう。誰が、あるいは、どちらが。
 どうしてここは澄んだ空気に覆われ、光が満ち、水が流れ、草が育つのだろうか。「ニルヴァアナ」とは何なのだろう。かつて聞いたとおり、人が作ったシェルター、ただそれだけなのだろうか。いや、そうとは思えない。もっと他の、何か、秘密があるのではないか。
 多分――そこに、ヨルの存在が関わっている。もしかすると、自分も。
 シエは清潔な白いシャツに身を包み、髪をタオルで拭いながら、ヨルのいる部屋に戻った。ヨルは集落から持ち出してきた大小様々な武器を床に並べていたが、彼女の気配を感じ取ってか、手を止めて顔を上げた。
「ヨルの番だよ」
 短く告げると、ヨルは頷く。武器を手早く仕舞って、立ち上がった。――そういえば、彼らはわたしたちの身体検査をしなかったな、とシエは思い返した。
「先に寝ていろ」
 ヨルの手がタオル越しに彼女の頭に触れる。シエは首を横に振った。
「待ってる」
「……そうか」
 ヨルはため息混じりにつぶやき、彼女を残して立ち去った。
 ざあああ、と水の音。シエは膝を抱えて床に座り込み、目を閉じた。
 ――おまえは、人形だよ。
 だれかが耳元で囁く。
 ――おまえは、
 赤い水の満ちた場所で、彼女は確かにそれを聞いた。
 ――あの子のための、
「おい」
 ふ、とシエは目を開けた。目の前には見慣れた険しい顔。
「ヨル……」
「座ったまま寝るな」
「……うん」
 ヨルは荒っぽく彼女を抱え上げ、部屋の隅のベッドに放った。更に、上から毛布が降ってくる。
「ヨル」
「なんだ」
 くるまった毛布から顔を突き出すと、ヨルは短い黒髪を乱暴にタオルで拭っているところだった。
「………て」
「なんだって?」
 聞き返すヨルに、シエはもう一度繰り返した。
「そばにいて」
「…………」
「おねがい」
 祈りを込めて、つぶやく。きっと聞き届けられはしないのだろうという、諦めをも含んで。
 わかっている。ヨルはわたしのものではないし、きっとそうはならない。
 ヨルはベッドの反対の方向へとタオルを放り投げた。そうして、ゆっくりと彼女の方へと歩み寄ってくる。いつもと変わらぬ暗い眼差しが、シエを映した。
「おれはおれのしたいようにする。誰の指図も受けない。だから――約束はしない」
 ヨルの体重を受けて、ぎしりとベッドがきしんだ。シエは目を閉じる。
「うん。それでも、いい」
 ヨルはヨルだから。それでいい。
「…………!」
 不意に強い力で抱きしめられ、シエは目を開けた。視界に映るのは、ヨルのまとう麻色のシャツと、その襟から覗くうっすらと濡れた肌だけだ。
「ヨル?」
「……思い出したことがある」
 その言葉に、全身が強張った。ヨルの顔は見えない。声音はいつものとおり、硬く低く、澄んでいた。
「ここは――『ニルヴァアナ』は、既にひとの為の楽園ではない。ここは『ニルヴァアナ』によって支配された場所……ひとがひとではいられなくなる場所だ」
「? どういう……」
 耳に押し付けられたヨルの胸板を通して、彼の声と鼓動が重なって聞こえる。シエは頭の中が奇妙にざわつくのを感じた。
「『ニルヴァアナ』はかつて、楽園であれと命じられた。だから、そのとおりに振る舞った。楽園ではひとは死なない。病むこともない。……老いることもない」
「……つまり?」
 口の中が乾く。ここにはないはずの、砂の味がした。
「ここに住み続ける限り、彼らは――おれたちは、解放されない」
 呪いを、解いてくれ。
 呪いとは、楽園の呪い。不老不死の呪い。
 人は生を望むが、それは永遠と同義ではない。不変の生は、既にそれ自体が呪いでしかない。
「おれはここで一番年若い人間だった。だから、こっそりと外に出された。外に出ても、残されている時間が多いと考えられたからだ。外に出れば、時間は動き始める。だから、おれは成長した。十数年の時を経て成長し、そして――」
「じ、じゃあ」
 シエはヨルを遮り、問い掛けた。
「どうしてヨルは『ニルヴァアナ』を憎んだの? 『ニルヴァアナ』の人々を殺したの?!」
「…………」
「どうして『ニルヴァアナ』の人たちは、外に出てきたりしたの……」
 問い詰めても、彼の鼓動の速さは、変わらない。
「……理由など関係ない。おれが、殺した。それだけだ」
 ヨルの腕から、力が抜けた。シエは反対に力を込め、彼にすがりつく。
「ヨルはここに戻ってきて、どうするの? 彼らは呪いを解く方法を探している。でも、そんなものなんてないんでしょう?」
「……それはどうだろうな」
 ヨルは小さくつぶやく。
「どういうこと?」
 シエの問いを、彼は無視した。その代わりに、別の言葉を紡ぐ。
「シエ。おまえは……」
 ――いったい、何なんだろうな?
 その疑問符に答えるすべを、シエは持ち合わせてはいなかった。