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Chapter.II – 13

 不意に、風がやんだ。
 ヨルの肩に担がれていたシエは、顔を起こして辺りを見回す。赤い土肌はいつしか人工的な紅い壁に変化していた。足元は階段。一歩一歩、下っていく。
 何も思い出さない。なんの見覚えもない風景。
 シエはヨルの肩にしがみついていた。彼の横顔は静かで、何も読み取れない。ただ、その暗い眼差しに警戒の色が強く影を落としていることはわかった。
 ――この先にあるのは天国か、それとも地獄か。
 彼らを取り囲む黒衣の集団は、言葉ひとつ発することなく前を向いて歩いている。同じ人間なのに、シエが地上の集落で出会ったナオやシンらとは随分印象が違った。何が違うのだろう。シエは考える。いったい、何が。
 徐々に周囲から光が消え、ヨルを囲む男たちがそれぞれライトをかざした。砂の下に潜っていくのだ、とシエは思った。そうすると、彼らは地下から現れたのか。
 「ニルヴァアナ」は、地下にあったのか――。
 どれくらいの時間を歩き続けただろう。ぽつりと光が行く手に現れ、それは歩みを進めるにつれて少しずつ近付いてきた。眩しくて、シエは目を細める。
「シエ」
 突然名を呼ばれ、彼女ははっとヨルを見つめた。ヨルは彼女を見ていない。真っ直ぐに前を――光を見つめていた。
「何を震えることがある」
 その口元は、薄く微笑んでいた。底冷えのするような、酷薄な笑みであった。
 ヨルに言われ、シエは気付く。確かに、ヨルにしがみつく彼女の手は震えていた。何故だろう、とシエは不思議に思った。怖いからだろうか。怖い? 何が。自分が何を恐れることがあるというのか。それとも、もっと他の理由があるのか。シエは自分でもわからない。
 何故、周囲の男たちが揃いも揃って自分を奇妙な目つきで眺めるのか、その意味もまったく分からなかった。
「ヨル、」
「おれが、いるだろうが」
 小さく、しかし鋭い声でヨルは言い放った。
「ヨル」
 シエはつぶやく。
 初めて出会った時の、彼の殺意に満ちた瞳。彼女を睨みつけるその表情を見た瞬間から、シエの時間は動き始めた。ヨルと会う前の記憶はひどく朧で、思い返すことはできない。思い出せるのは「シエ」という自分の名前だけで、その単語だけがぽつんと彼女のどろどろとした記憶の中を漂っているのだった。
「ヨル」
 ヘスが、歩みを止めた。目前には、錆ひとつ浮いていない金属の扉。光はその扉を頭上から照らす明かりだった。
「お前は、呪いを解く方法を持ち帰ったのか?」
「……のろい」
 ヨルはその言葉だけを繰り返した。
「そうだ」
 振り返ったヘスは、相変わらず視線を晒さない。黒に覆われたまま、言葉を紡ぐ。
「おまえを追って外に出た我らの同胞は、誰も帰って来なかった――おまえはなにか知っているか?」
「…………」
 ヨルは答えない。シエは息を呑んでふたりのやりとりを見守った。
 言えるわけがないだろう。彼らは皆、砂に還った――彼らを殺したのは自分だ、などと。
「…………」
 ヘスの顔が動いた。なんとなく彼が自分を見ているような気がして、シエはその赤い瞳を瞬く。気のせいではない、と思う。やはり、彼らはわたしを知っている。きっと、わたし以上にわたしを知っているのかもしれない。いや、そんなはずはない。シエはぐっとまなざしに力を込めた。わたしはわたし。今ここにあるからだとこころ、それだけがすべて。他の情報に意味などない。それはわたしであってわたしではない。わたしたちが砂でできていたって、わたしたちは砂そのものじゃない。それと同じことだ。
 ヨルは口を開いた。
「どうだっていい。ただ――おれはおまえたちをいつでも()れる。それだけわかってりゃ充分だろ」
「――ふん」
 不遜なヨルの言葉に、ヘスは鼻を鳴らす。ヨルの剣呑な台詞など、一向に意に介していないようだった。
「まあ、いい。おまえが『それ』を連れ帰ってきた時点で――」
 ヘスは言葉を切り、扉の傍らに手をかざした。
 扉が開く。
 「ニルヴァアナ」の扉が。
 生ぬるい風がシエの頬をなぶる。
「――還ってきたわ」
 突然己の唇をついてでた言葉に、シエは息をのんだ。

 工場が壊れた。
 突然の出来事だった。集落の地下にある巨大な工場。それが突然動かなくなったのだ。いくら砂を注いでも何も生み出さない。固いパンのひとかけらも、だ。
「まずいぞ」
 シンは焦った。手元にある食糧は数日しかもたないだろう。この集落に備蓄という概念はなかった。砂には限りがない。いつだって、好きなだけ砂を工場につぎ込めばいいだけのはずだったのだ。ヨルが現れるまでは――そしてヨルが「敵」からの略奪を彼らに教えるまでは、ひからびたような干し肉以外のたんぱく質を彼らは知らなかったし、ドライフルーツなどという甘味など想像すらできなかった。
 贅沢は望まない。ただ、飢えることのない量のパンを。水を。
 工場を修理することなど、誰もできそうになかった。そもそもこれは、前時代の遺物なのだ。今日まで働き続けてきただけでも奇跡的なことなのに、それに誰も気付かなかった。壊れるなどと、誰も予想すらしなかった。もちろん、予想もしなかったのだから対策などしていない。
 馬鹿だ。おれたちは、底抜けの馬鹿だ――。
「どうする」
「ばちがあたったのかしらね。よそものふたりを追い出しちゃったから」
「ナオ、今そんな冗談を言っている場合じゃ――」
 シンは振り返り、絶句した。ナオは少しも笑っていなかった。真剣な目でシンをじっと見つめている。
「シン。このままじゃこの集落は滅びる」
「う、うん。そりゃあ……」
「飢え死ぬよりも、もっと悲惨な滅び方をするわ」
「なんだって――」
 つぶやいたシンははっと息をのんだ。
 ナオの言うとおりだ。残りの食糧は数日分――それは皆で平等に分け合えば、の話だ。もし、それを限られた者たちだけで独占すれば……その間に対策を考えて……少しでも、時間が稼げるのではないか……。
「くっ」
 シンは唇をかんだ。最低な考えだ。わかっている。食糧を巡って殺し合う人々の姿など、見たくない。しかし――このままでは。
 工場が壊れたことは、まだ限られた数の人間しか知らない。それなら。
「ねえ、シン」
 ナオの声に、シンは顔を上げる。
 ナオは横を向いていた。彼女の赤がかった髪がその表情を隠している。
「私は、いいわ」
「何が?」
「口減らしが必要なら、死ぬ側にまわるって……そう言ってるの」
「何を馬鹿な」
「馬鹿じゃないわ」
 ナオは顔を上げる。彼女は――笑っていた。奇妙なくらいに晴れ晴れとした表情だった。
「私の分は、子供たちにあげて。そうして、考えて――何とか生きる方法を」
「待って、ナオ」
 シンは手を挙げた。頭の奥がずきずきと痛む。
「その前に――考えるんだ。皆で生き残る方法を、考えなきゃ」
「考えていたっておなかはすくのよ? 考える時間を稼ぐためにも!」
「じゃあ!!」
 シンは声を荒げ、ナオに詰め寄った。
「君が選ぶっていうのか。誰が死に、誰が生きるべきなのか。君に線引きができるのか。何歳以上の者は死ねって、そう言えるのか?! 抗う者をその手に掛けると、殺せるって、そういうのか!」
「…………」
 ナオの肩が跳ねる。シンは大きくため息をついた。
「おれにはできない」
 ――昨日と同じ今日が、今日と同じ明日が続いていくと思っていた。砂に囲まれた生活は、すなわち砂に守られた生活と同義だったのだ。そのことに、自分は気付いていなかった。
「じゃあ、どうするの」
 ――おれにだってわかるかよ。シンは叫びだしたい衝動をぐっと抑え、己に言い聞かせた。考えろ。考えるんだ。何とかなる、何とかする方法を考える。それしかない。
 ふと、シンは思った。
 もし、今ここにヨルがいたら――彼はどうしただろうか。
 あっさりと、他の人間を切り捨てて食糧を自分のものにしただろうか。彼ならできるだろう。だが、何となく……彼はあっさりとこの集落を捨てていきそうな気もした。あの夜、彼とシエがそろって姿を消した日のように。
「手分けして――外に出よう。残ったものは何とか工場を修理できないか、試すんだ」
「皆が言うことを聞くかしら? そんな、勝率の悪い賭け――」
「どちらが勝率がいいだろうね?」
 シンはこわばった表情を動かし、かろうじて笑みを作った。
「ここでお互いが殺し合い、奪い合うのと。共闘して『次』の手を見つけるのと」
 いくら独り占めしたところで、このまま工場が動かず、他の手段で食糧を得られないとなれば遅かれ早かれ飢え死にすることになる。それならば、協力し合って事態の打開をはかった方が賢明ではないか。シンはそういうのである。
 彼の言葉を聞いたナオは、困ったように眉を下げ、小さくため息をついた。
「わかったわ。何とかみんなを説得しましょう」
「ああ。けどナオ、あらかじめ言っておくけれど……」
 シンは銃を取り出し、右手に握りしめた。
「勝手な行動に出る者がいて、事態が混乱しそうになったら、その時は」
 ヨルの冷たいまなざしを思い出す。容赦なく敵に銃弾を突き刺す、あの姿。
「おれがそいつを――殺さなくちゃならない」
「…………」
 ナオは一瞬目を見開き、やがてこくり、と頷いた。

 ヨルとシエが集落を出てから、ちょうど十日目のことだった。