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Chapter.II – 12

 少し前から、風が強くなっていた。
 びりびりと幌が鳴る。馬の歩みも徐々にのろくなって、ついには一歩も進まなくなった。
「――ちっ」
 少しも動こうとしない馬に幾度か容赦なく鞭を振るったあと、ヨルは諦めたように手綱を緩めた。
「おい」
 幌の中に声をかけると、すぐに小さな頭がひょこりと姿を覗かせた。フードを被ったその奥から、赤い瞳が一心に見上げてくる。
「ここからは歩く。行くぞ」
 ヨルは腕を伸ばしてそれを抱え上げ、さらに背中に大きなザックをふたつほど背負って馬車を降りた。ザックの中には残りの水袋と食糧が詰められている。行く手には乾いた赤い砂が風に煽られていた。
「私、歩ける」
 肩に担がれていた少女の主張に、ヨルは彼女を土の上に下ろした。少女はよろけもせずにしっかりと両足で立ち、辺りを染める砂よりももっと鮮やかな赤で辺りを注意深く見渡している。
「もう、近い」
 ヨルの声を聞き、少女は――シエはちらりと背後を顧みた。彼らをここまで運んできた馬は、風に怯えて途切れ途切れに嘶いている。
「あのこたち、どうなるの?」
 シエの問いに、なぜかヨルは哂った。
「……さあな」
「…………」
 たぶん、砂に還るのだろう。シエはそう思った。
 一歩一歩が砂に取られ、ひどく歩きにくい。シエはヨルの後を必死に追った。彼も時々ちらちらと彼女を見下ろしてくれている。シエは手を伸ばし、彼の手をとった。大きなそれはびくりと強ばったが、それでも振り払うことはなく、彼女の好きにさせてくれていた。出会った頃なら、きっと容赦なく解かれていたことだろう。長い指の一本を選んで、掴む。ごつごつとした感触。彼女はそれで満足だった。
 深くフードをかぶっていないと、鼻や口に容赦なく砂が入り込んでくる。目を細めて何度辺りを見回しても、視界一面が赤い砂埃に覆われていた。ヨルが何を目印に歩いているのか、彼女にはわからない。こんなところに、本当にあるのだろうか――ヨルが目指してきた場所が、本当にこんなところに?
 ここには楽園の匂いはしない。するとすればむしろ――死の匂いだ。
 やがて、ヨルは歩くのをやめた。シエも立ち止まり、伏せていた顔をあげる。
「迎えがきたようだな」
 ぼそりとヨルがつぶやくのと、彼らの周囲を数人の影が取り巻いたのとは、ほぼ同時だった。
「………!!」
 シエはびくりと体を震わせ、ヨルに身を寄せた。
 彼らを囲む者たちは、皆揃って黒い上下のゆったりとした衣を身に着け、頭もすっぽりと暗い色の薄布で覆っていた。布の隙間からこちらを見ているのだろうが、視線の在処ははっきりとしない。そのことがひどく不気味で、彼らが手にしている銃などよりも余程シエには恐ろしかった。
「おれたちに何か用か」
 先に問い掛けたのは、ヨルだった。落ち着き払った様子で人影を順に見回す。
「――お前たちこそ」
 言葉を発したのは、ヨルの前に立つ者だった。声はくぐもっているが、成人男性のもののようだ。
「何の目的でここにやってきた? この場所の意味を知らぬわけでもないだろうに……」
 風が強い。
 一陣の風が、シエのまとっていたマントを舞い上げ、フードまでも跳ね上げたた。一瞬のことだった。白い少女の姿が、赤い砂に晒される。彼女は慌ててフードをかぶりなおした。
「あ……!!」
 ざわめきを耳にしたシエは、怯えたように身をすくめヨルにしがみつく。明らかに、人々はシエの姿を見て動揺していた。ヨルは彼女の肩に片手を載せ、訝しげに目を細める。
「おまえ、」
 言葉を発したのは、やはり正面に佇んでいる男だった。銃を下ろし、一歩近づいてくる。やはりその目元を伺うことはできないが、もしかするとその視線はヨルではなくその傍らに立つシエに向けられているのではないか――あるいは、他の者たちも同じかもしれない。けれど、何故。
 ヨルは黙っている。
「まさか――」
 あの、ヨルなのか?
「…………」
 ヨルは答えない。シエはただじっと彼を見上げている。そのまなざしには直線的な信頼の色があった。怖くないわけではない。だが、ヨルがここにいて、自分に触れてくれているのだ。それ以上に彼女を落ち着かせてくれるものが他にあるだろうか。
「ヨルなのだろう?」
 重ねて問いかけられたその声音は、ひどく疲れたもののように聞こえた。きっと、もはやヨル自身の答えは必要としていない。
「よくぞかえった――さあ、共に来るがいい」
 彼の言葉には何も具体的な名詞はない。それでも、彼がヨルらをどこに連れて行こうとしているのかは明らかだった。

 「ニルヴァアナ」――約束の場所。裏切りの楽園。永遠の墓地。

 ふ、とヨルは小さく笑った。
「いいだろう。だが」
 ヨルは不意に銃を取り出し、まるで適当に宙に弾を放つ。
「ひっ?!」」
 しかしその銃弾はひどく正確に、ヨルに狙いを定めていたある者の手から銃を弾き飛ばしていた。
「おれたちに危害を加えるつもりなら――ただではすまないことを理解しておけ」
「……当たり前だ」
 正面に立つ男の言葉は、どこかあきれたような響きをにじませていた。
「おまえはわかっていない。おまえが今何を隣に置いているのか。おまえは何もわかっていない……」
「…………」
 男が指すのが自分のことだと理解できないほど、シエは幼くも愚かでもなかった。だが、ヨルの表情は変わらない。シエを支えていてくれる腕の力も、何一つ変わらない。それなら大丈夫。シエは自分に言い聞かせた。わたしはわたし。だから、大丈夫。
「わたしはヘスだ」
 男はそう名乗った。そして首をかしげる。
「……覚えているか?」
 ヨルは首を横に振る。
「そうか」
 男は――ヘスはため息とともに吐き出した。
 
 
 黒い男たちに囲まれるようにして、ヨルらは移動した。風が強いのは、ここが峡谷だからなのだとシエはやがて気付いた。赤い砂嵐に洗われる岩肌もまた赤く、結局は同じ赤い砂で作られているのだ。
 この地はきっと、赤くできているのだろう。ずっと遠くから眺めれば、きっとすべてが赤く染まって見えるに違いない。
 赤。シエは思い出す。彼女を赤く汚したもの。赤。赤い、血。
「どうした」
 ヨルの声に、シエは首を左右に激しく振った。
「疲れたか」
 シエは再び首を振るが、ヨルは構わず彼女をひょいと抱え上げて歩き出した。
「大丈夫、わたし歩ける!」
「…………」
 ヨルはいつもと変わらない無表情で彼女を眺め、やがて小さくため息をついた。声を低め、口元を彼女の耳に寄せる。
「体力は温存しておけ。いつでも――」
 殺せるように。
「……うん」
 少しの間を置いてシエは頷き、同時に顔を彼の肩に埋めた。
 何も信じない彼が、何も許さない彼が、自分のことだけはこんなにも近くに受け入れてくれる。そのことがひどくうれしくて、しあわせで、そして苦しい。
「ヨル」
 名をつぶやく。
 「ニルヴァアナ」で何と出逢っても、私は絶対にあなたを守ってみせる。あなたを、誰にも渡しはしない。
 そのためなら――何を滅ぼしたって、かまわないのだから。