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Chapter.II – 11

 砂漠の夜は冷える。馬を休ませ、馬車の中でヨルとシエは身を寄せ合って眠った。馬車の中には数日分の水と食料がある。それが尽きてもまだ砂漠の中から抜け出せなれば、きっと干からびて死ぬことになるのだろう。シエはヨルの腕の中でうとうととまどろみながら、ぼんやりと思った。体が小さい分、わたしのほうがさきに死んでしまうのかしら。そうならいい。わたしの分の食事を、ヨルが取ってくれれば、そうして彼が生きてくれれば。
 ヨルがこの世界に在り続けさえしてくれれば、他のことなんてきっとどうだっていいのだと思う。彼女にとっては、それだけが大切なのだ。理由はわからない。彼女がそう感じているというだけだった。自分はきっと、ヨルのことを祈るために生まれたのだと思う。
 どこに向かうのか、と彼女は聞かなかったし、ヨルも何も言わなかった。ただなんとなく、ヨルの目指す場所をシエは知っているような気がしていた。
 静かだった。集落にいた時も深夜は無音だったように思うが、今はもっと耳が冷える程に静寂だ。シエはぐっとヨルの胸元に顔を押し付けた。彼の鼓動の音が、どくどくと頭に流れ込む。からっぽで真っ白な自分の中身が、彼からこぼれだす血液で赤く満たされていく――たとえ幻想だとしても、それはひどくしあわせな夢であった。
「眠れないのか」
 ヨルの声に、シエは目を見開いた。
「寒いか?」
 決してやさしい声音ではないのに、その短い言葉ひとつひとつにシエは泣きそうになるほど満たされる。シエは目を伏せた。
「ヨル」
「なんだ」
「ごめんなさい」
「……何がだ?」
 ヨルは心底不思議そうだった。シエは口ごもる。
「……わたしが、あのひとを……殺してしまったから。ヨルまで巻き込んで、出ていかなくちゃいけなくなった」
 まさかこんなことになるなんて、あの時は思ってもいなかった。何も考えなしに――だれかにプログラムされた本能の命ずるままに、目の前の邪魔なものを消してしまったのだった。そうすることが、あの瞬間、当たり前のように思えたのだ。
「別に」
 ヨルは言い、軽く身じろいだ。シエの頭を肩に乗せたまま、ふたりの隙間に入り込もうとする冷気を追い出そうとするかのように、毛布をさらにきつく体に巻き付ける。その心地よい窮屈さに、シエは目を細めた。
「そんなものはただのきっかけだ。おまえが気にすることじゃない」
「……でも」
 シエは俯く。――わたしがあなたを迎えに来たのかどうなのかも、わたしにはわからないっていうのに。
 わたしはあなたの何なのだろう。何になれるのだろう。
「…………」
 ヨルはそれ以上何も言わず、目を閉じて眠りに身を沈めているようだった。シエは再び、彼の鼓動に耳を寄せた。規則正しいそれを聞きながら、シエは目を閉じる。
 いっそこのまま目が覚めなければいいのに――と思いながら。

 じわり、と汗がにじむ。シエは幌の中に身を潜めながら、時折あたりを見渡していた。砂。赤い砂しか、目には映らない。そして全てを冷ややかに見下ろす灰色の空。
「ヨル、だいじょうぶ?」
 手綱を握るヨルに、シエは声をかけた。暑いのではないか、身体が辛くはないか――気遣う彼女に、ヨルは、そっけなくつぶやく。
「別に。中に入っていろ」
「ん……でも」
「おまえよりは、頑丈にできているさ」
 ヨルの掌が一瞬、彼女の頬を撫でて離れた。
「…………!」
 シエは赤くなった頬を隠すようにすっぽりとマントを頭からかぶった。ヨルの触れた場所がひどく熱い。彼の掌は、案外ひんやりとしていたのに。
「……たぶん、間に合う」
 ヨルは前を向いたまま、ぽつりと言った。
「なに、に?」
「水や食料が尽きる前に、たどり着けるはずだ」
 ――どこに、とは尋ねなかった。尋ねなくともわかる。
「場所。知っていたの」
「…………」
 かつて、あの集落と外との境界で。シエはヨルに言った。――探しに行かないのか、と。外に出て行かないのか、と。彼にとって憎むべき「ニルヴァアナ」を、放っておくのか、と。あの時、彼は何も言わずに外に背を向けた。しかし、今は違う。まっすぐに、そこに向かって行こうとしている。あの時とは反対に、シエのほうがすこし怖気づいてさえいるようだった。
「行って、どうするの?」
 おそるおそる、シエは尋ねる。ヨルは前を見たまま、答えない。彼が心に答えを秘めているのか、どうなのか。あの集落を出て生きていくためには、他に選択肢がなかっただけなのか。それともやはりヨルの故郷があの地だからなのか。まるきり違う、他の理由があるのか。
 シエにはわからない。
「シエ」
 ヨルが彼女の名を呼ぶ。実のところ、それは少しばかり珍しいことだった。シエはその響きに、顔を上げて彼を見つめる。ヨルの尖った横顔を、ただじっと眺めていた。
「おれは……」
 ――おまえを待っていたのかもしれない。
 おれについていく、と無条件で全てを預けてくるような存在。おれを信じてくれる存在。そして、おれと似た、存在。
 ヨルがシエを見下ろす。その暗い瞳に、シエの顔がうつっていた。大きく目を見開いて、微動だにしないでいる。
 あの集落では結局のところおれは余所者で、だからこそ外に出ることができなかった……。
「行ってどうなるのかなど、わからない」
 ヨルはつぶやく。
「だが……、きっと何かが変わる」
 それで、いいんだ。
 ヨルの声に、シエは顔を上げた。
 赤い砂、灰色の空。厚い雲を透かす、(にび)色の光。
 何かが、変わる。きっと。
 ――その期待を、ひとは「希望」と呼ぶのだろう。
 ヨルの膝に頭を載せ、シエは丸くなる。
 何だっていい。どこだっていい。ヨルがいれば、それだけで。
 それだけで、きっとそこは「楽園」になるから。

 ヨルがいなくなったこと、少年がひとり銃殺されたこと。その知らせはすぐに集落中に広まり、数日の間はひとびとを騒がせていた。だが、それだけのことだった。シエのことなど、ほとんど誰も口にしなかった。
 ヨルが現れる前と何も変わらない。黙々と砂を詰める者と、それを古びた工場に運び込み、生活物資を作り出す者。
 何も変わらない。
 ナオはひとこともヨルのことを言わなかった。シエのこともだ。シンは少しそれを意外に思ったが、彼自身も特に何も彼らのことを話そうとはしなかった。
 ヨルがいなくなれば、きっと今までのように外に「敵」を襲いに行くことはなくなるだろう。「敵」をずっと探していたのはヨルだったのだから。そう思うとシンは少し安心したような気分になったが、それと同じくらい、何となく味気ないような、物足りないような、奇妙な気分に襲われた。
 人を殺したいわけではない。奪いたいわけでもない。ただ、このまま砂と同化していくような平坦な生活を死ぬまで続けるのかと思うと、気が狂いそうなくらいの焦燥感に襲われるのだ。
 そう感じるのはおれだけなのだろうか。シンはいぶかしんだが、それを確かめる術はなかった。
 皆同じような無表情を貼り付け、砂に塗れて生きている。恐らく、シンも周りから見るとそれと変わらぬように見えるだろう。
 ひとり――否、ふたりのよそものを失って、この集落はゆっくりと砂に溶けていこうとしている。シンはそう思った。
 おれも、溶けていくのか。シンはぞっとした。
 おんなの肌に指を這わせても、そこにざらざらとした砂を感じる。
 赤い砂。
 あか。
 シエの浴びた、返り血のいろ。――いや、あれはもっと鮮やかだった。あの少女の目の色は、もっと。
「ああ」
 シンは真夜中、ひとりごちた。隣にはおんなが――実のところ、シンは彼女の名前を覚えてはいなかった――シーツを体に巻きつけて眠っている。彼女は赤毛だったが、彼の記憶の中のあの赤ほど鮮やかなものではなかった。それがシンはただ、残念で。
 彼は静かに微笑む。そして記憶の中の鮮烈な面影たちに向けて、ささやくようにつぶやいた。
「ぶっ壊してきてよ、ふたりで」
 つぶやく。
「全部、ぶっ壊してよ」
 ――「ニルヴァアナ」も。この世界も。
「ぜんぶ、ぜんぶ――」
 おれが壊れる前に。壊してしまって。
 ――おれの体を流れるのは、砂つぶなんかじゃないはずなんだ。だから。
 唇を強く噛みしめる。じわりとにじんだ血の味とその匂いに、シンはほっと目を閉じた。