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Chapter.I – 9

 画面は仄暗く、そして同時にうっすらと光を帯びている。

「おまえは、『外』に出るのだ」
 画面に映っているのは、ひとりの子供だった。幼い。シエよりも少し小さいくらいだろう。頭上から言い聞かされる言葉を理解しているのかいないのか、その少し切れ長の瞳は大きく見開かれて揺れていた。
「そと……?」
「そうだ」
 答えるのは、大人の男の声。
「おまえはこの『ニルヴァアナ』の外に出て、外の人間に出逢わなければならない。そうして、この呪いの解き方を探して来るんだ」
「のろい……」
 子供はぼんやりと繰り返す。男の言葉を理解している様子ではない。だが、男はそんな彼の様子など気にも留めていないようだった。
「いつか、迎えをやる。その時は還って来い。おれたちを――『ニルヴァアナ』を救うために」
「…………」
 大きな手が、子供の頭を撫でた。
「さあ、行け」
 男はゆっくりと、その名を口にした。

「ヨル」

 子供はゆっくりと頷く。それを目にした男は満足げに頷き返すと、ふと視線をこちらに――ディスプレイの方向に向けた。
「ヨル。そこにいるか。迎えは来たか」
 誰にともなく――いや、相手はその名を持つものより他にはない――男は語り掛ける。
「還って来い」
 おれたちを、救うために。
「この楽園に――否、」
 男は顔を歪める。
「この、地獄に」

「…………」
 映像が、途切れた。
 ごくり、と。シエの隣から響いた大きな音。それがヨルが唾を飲み下した音だと気付いたシエは、そっと首をひねってヨルを見上げた。小声で尋ねる。
「あれは、ヨルなの?」
「……知らない」
 ヨルは目を伏せ、首を横に振った。
「憶えていない」
 大きな拳はかたく握りしめられ、細かく震えていた。
 シエはゆっくりと、その問いを口にする。
「ヨルは――」
 彼は目を上げる。その漆黒の光の中に、シエがゆらゆらと浮かんでいた。
「捨てられたんじゃ、なかったんだね」
 ――迎えを。男は、たしかにそう言っていた。
「…………」
 ヨルはただじっとシエを見つめていた。シエもまた、目を逸らすことなく彼の目を覗き込んでいる。
 やがて、ヨルは再び首を横に振った。
「……わからない」
 ヨルの拳に、シエはそっと触れる。彼女の小さな掌の下で、固く閉じていた指が少しずつ開いた。
「おれも、お前に聞きたいことがある」
 ヨルはつぶやくように言った。
「おまえは……、おれを迎えに来たのか?」
「…………」
 ヨルの手が、シエの手首を強い力で捉える。シエは少しだけ呻いた。痛かったわけではない。ただ、彼の手はひどく熱かった。
「シエ。おまえはやはり、『ニルヴァアナ』から……」
「…………」
 飲み込まれそうだ、と思った。彼の両の瞳が宿す光に。彼の手が伝える熱に。侵されていく。塗り潰される。それはきっと、とても気持ちのいいことだろう。
「おぼえていないの」
 しかし、シエはぽつりとつぶやいた。
「ほんとうに、おぼえていない」
 自分がヨルを迎えに来たのだったら、どんなに良かったか。ここから彼を連れ出す役割が自分に与えられていたのだとしたら、どれほど――だが、シエにその記憶はない。
 うつむく彼女の顎をとらえ、ヨルはじっと彼女を見つめた。
「行けば、すべてがわかるのか」
「…………」
 シエは息を呑む。
「おれの過去も、この憎しみの理由も、世界のことも、すべてすべて――」
 「ニルヴァアナ」に行けば、わかるのか。
「そして」
 不意に、ヨルの眼差しが和らいだ。
「おまえのことも。シエ」
「……わたし?」
「ああ」
 シエの小さな顎を掴んでいた武骨な指が、するりと移動して彼女の頬に触れた。驚くほどに、優しい接触だった。
「おれは、おまえがわからない」
「…………」
 何者なのか、どこから来たのか、そしてどこへ行こうとしているのか。どんな記憶を失ったのか、何故失ったのか。何故、ヨルと出会ったのか。側に居ようとするのか。わからないことが苛立たしく、恐ろしく、そして狂おしくもどかしい。
「おれは」
 ヨルは、包み込むようにそっとシエの体に両腕を巻いた。
「おまえを」
 ――手にしたいのだろう。
 シエの淡い色の髪がびくりと震える。
「ヨル」
 シエはヨルにしがみついたまま目を閉じた。
 暗がりの衛生基地の中、ふたつの鼓動と呼吸だけが息づいている。ここには乾いた風も赤い砂もない。過去も未来も見えはしない。そのことが、ふたりをひどく安心させた。
「わたしは」
 シエはつぶやいた。
「ヨルに着いていくから」
 あの日、初めて出会った時から。わたしはそう決めていた。――きっと、決まっていた。

 夜更け頃。隣でおんな――ナオではない――が寝息も立てずに眠っているのを確認し、シンはそろりと彼女の部屋を抜け出した。闇の中では誰も見るものがないというのに、薄い唇にはいつも通りゆるやかな笑みをまとっている。
 実のところ、外に出たのには特に意味のある行動ではなかった。どうせ、誰かの隣では熟睡することなどできないのだから、同じことだ。
 赤い砂を蹴って、砂に埋もれた建物の間を歩く。ひんやりとした乾いた風が彼の短い髪をかき乱した。
「――あれ?」
 視界の隅に入った見覚えのある後ろ姿に、シンは目を見開く。
「ヨル?」
 独り言のように名前をつぶやいただけだったが、彼はすぐにシンの方を振り返った。相変わらず野生動物めいた男だな、とシンは苦笑する。
「どうしたのさ、こんな夜更けに」
「…………」
 ヨルは答えなかった。彼も自分と同じように寝床からふらりと出てきたのだろうか。彼はぼんやりとした様子で崩れかかった壁にもたれている。
「シエちゃんは、」
 何の気なしにシンがその名を出すと、ヨルの肩が小さく震えた。
「どうしたの? 今日は一緒じゃないの」
「……さっきまでいたはずなんだが」
 ヨルの顔には困惑の色が浮かんでいた。
「ふと目が覚めてみたら」
 見当たらなかったのだ、と彼は言う。シンは目を丸くした。
「君たち一緒に寝ていたわけ?」
「…………」
 ヨルはあっさりとうなずいた。シンはますます目を大きく見開く。
「へえ……君たちいつの間にか随分仲良くなったんだねえ」
「別に」
 そういうことではない、とヨルは言った。
「じゃあどういうことなの? ヨルが自分の部屋に他人を入れたことなんて今までなかったんじゃない?」
 今ではもうどの女も諦めてしまっているが、かつてヨルの側に近付きたくてたまらなかった者はたくさんいたというのに。彼はいつだって、誰のことをも寄せ付けようとはしなかった。――唯一の例外が、あの子供だ。
「…………」
 ヨルは答えない。だが、シンにも彼とシエとの間にあるものがいわゆる男女のそれではないことくらい、聞かずともわかっていた。
 シンはふう、と息をついて辺りを見回した。
「どこに行ったんだろうねえ」
 しろがねの髪を持つ少女の姿は、見当たらない。
「もしかして部屋に戻っているかもよ?」
 シンがそういうと、ヨルは小首を傾げた。どこか納得していない様子ではある。
「だって、こんな夜中にいったい――」
 シンがそう言いかけた時、ぱあん、と乾いた音が響いた。あ、と息を呑むシン。ヨルはすぐに走り出していた。彼の蹴立てた砂に、シンは軽く咳き込む。
「今のは……」
 銃声?
 聞き慣れた音。しかし、この集落の中では決して聞くことなどなかった音。あの音が飛び交うのは、いつだって「敵」との戦いの間でのことだった。
 シンはヨルの後を追って駆け出した。あの、ヨルの慌てた様子。もしかして、シエちゃんが巻き込まれて……?
 もしシエの存在が失われてしまったとしたら、その時ヨルはどうするのだろうか。縁起でもない、とは思いつつも、シンは仮定せずにはいられなかった。きっと、彼はもうここにはいようとしないだろう。どこかへ去ってしまうに違いない。けれど……どこへ?
 ビルの隙間に飛び込み、シンは足を止めた。硝煙の匂いが鼻をつく。
 目の前に立ち塞がるヨルの背中。その向こうを覗き込んで――シンは小さく声を漏らした。
 白いワンピースが、赤く染まっている。
「シエ」
 ヨルの、その名を呼ぶ声が、遠く聞こえた。