Chapter.I – 7
その日ヨルらが奪ってきた荷物の中に、見慣れないものがあった。シエの掌よりも少し大きいくらいのサイズの、虹色に光る薄い円盤だった。
「きらきらしていたから、とりあえず盗ってきたんだけど」
と、シンは言う。
「何だろうね、これ。ヨルは知ってる?」
「……さあ」
ヨルは目を眇め、首をひねった。
「間違いなく、食べ物ではないね」
爪先で弾き、シンは言う。
「…………」
シエは座って荷を広げているヨルの背後から、興味津々といった様子で彼の手元を眺めていた。シンはふと思いついたように、その円盤をシエに掲げる。
「シエちゃんは、これが何かわかる?」
「…………」
シエの赤い瞳が、その円盤をうつした。薄い唇が、小さく開く。
「……メモリーディスク。何かが記録されているの」
「え?」
「ヨル」
シエはヨルの顔をのぞき込んだ。
「あの、衛生基地で再生できると思う」
「なぜ、そうとわかる?」
ヨルは怪訝そうに尋ねた。シエは首を横に振った。
「わからない……わからないけど、知っているわ」
「おまえはそればかりだな」
ヨルは冷ややかな、それでいて奇妙な熱のこもった眼差しでシエを眺める。
「わたしは嘘ついてない」
シエははっきりとそう答えた。シンは頬杖をついて、ふたりを交互に眺めている。真面目な顔をしてはいたが、その瞳の中では面白がるように光が躍っていた。
「ヨルはどうなの?」
「…………」
ヨルはシエの問いを無視した。
立ち込める重い空気をかき乱すように、シンが口を挟む。
「それにしてもさあ、あいつらって何のためにうろうろしているんだろうね? 男たちばっかりで、たいした武装もなしに……何かを探しているのかな」
「さあな」
ヨルは素っ気ないが、シンは慣れたものといった様子だった。
「一度聞いてみればいいんじゃないの? 何をしているのかさ。皆殺しにするのは、その後でもいいじゃん」
「その必要はないと思うが」
「そう? でも、おれ以外のやつも疑問に思ってるみたいだよ? どうしておまえが執拗にあいつらを追い回すのか」
「…………」
ヨルはしばらく黙り込み、やがて口を開いた。
「来たくない奴は、来なくていい。俺はひとりでも行く」
「わたしは?」
突然、シエが身を乗り出した。
「わたしが行きたいって言ったら、連れて行ってくれる?」
「な、なに言ってんのシエちゃん?」
面食らうシンをよそに、ヨルは冷ややかな笑みを浮かべた。
「――いいだろう。次の機会にな」
「ええ?! ヨル、おまえ……」
言い掛けた抗議の言葉を、シンは飲み込んだ。ヨルはシエを見ている。否、その少女の姿以外、何も見ていないかのようだった。
そしてそれは、シエもまた同じことなのだった。
「…………」
シンは苦笑して、肩をすくめる。――好きにすればいいさ。きみたちがどうなろうが、おれの知ったことじゃない。
おれは、おれが生きられればいい。気持ち良ければいい。おれ自身は――あきれるほどに、からっぽだから。この世界と、同じように。
衛生基地は、いつものように薄暗い。ヨルはシエを連れ、慣れた足取りでそこを訪れた。シンは着いては来なかった。ヨルは何も言わなかったが、きっと連れて来るつもりはなかっただろう。当たり前のように、そこはヨルとシエだけが足を踏み入れる場所となっているのだった。
「どうすればいい?」
ヨルは銀色の円盤を片手に、シエを見下ろした。彼女は首を傾げ、困ったように眉を下げた。
「それは、わからないよ」
「わからない?」
「うん」
「…………」
ヨルは小さく舌打ちをした。仕方なく、あれこれと機器を弄り始める。あてのないその作業は、ひどく効率が悪い。
シエはそんなヨルを見ていたが、やがてぽつんと声を掛けた。
「ねえ、ヨル」
「なんだ」
「ヨルって何者なんだろうね」
「……おまえにそれを言われるとはな」
ヨルは珍しくはっきりと苦笑を浮かべた。
「おまえこそ何者だ」
「わたしは……わたしはあくまでここではよそもの。みんなそう思ってるし、わたしもそのつもり。わたしは、ヨルがいるからここにいられる」
仄暗い薄闇の中で、シエの眼差しは真っ直ぐに赤く澄んでいた。
「でも、ヨルはちがう。ヨルはここで生きる、ここのひとでしょう。それなのに、ヨルはひとりなの。だれといても、結局ひとりなのよ。ヨル自身もそう思っているし、周りの人も同じ。ヨルは違うって思ってる」
ヨルは手を止めることもなく、ぽつりと言葉を返した。
「誰かに聞かなかったのか。おれは『外』で拾われたのだと」
「……聞いたわ」
「だから、おれは違うのだろう」
「そう?」
シエはあっさりと疑問符を投げた。
「じゃあ、ヨルはどこから来たの? ヨルは衛星を使えるから探せるでしょう? この地上にここみたいな集落は、他にいくつあるの?」
「…………」
ヨルはゆっくりと振り返った。手には鈍く輝く――シエの言うところの、メモリーディスク。それを傍らに置き、空いた手は常に身につけている銃を求めて蠕いた。指先が触れたところで、止まる。
「おまえ、だれだ?」
細い目が殺気すら滲ませてシエを睨むが、彼女は怯む様子を見せなかった。少しだけ両腕を広げ、微笑む。
「わたしはわたし。あなたの目の前にいるわたしが、わたしのすべてだよ」
「…………」
ふい、とヨルが視線を外す。同時に、彼の手は銃から離れていた。
「ひとり、か」
「え?」
シエがきょとんと目を丸くした。ヨルは顔を背けたまま、まるでささやくように小さくつぶやいた。
「いま、おれはひとりか?」
「…………」
シエはぽかんと口を開けて――やがて、沈む瞬間の夕陽のような笑顔を浮かべて首を横に振った。
答えはしない。ただ、彼女はヨルの背中に頬を寄せる。
――ヨル。ヨル。あなたはひとりじゃないわ。わたしがひとりにはしないもの。
あなたがわたしを殺さない限り、わたしは、あなたをひとりにしない。
結局ディスクの再生方法はわからぬままに日が暮れた。固いパンをぬるいスープに浸して食べ、味気ない干し肉を齧るだけのいつもの夕食。だがいつからだろう、ヨルの向かいに必ずシエが座るようになったのは。
控えめに瞬く灯りの下で、ヨルは目を伏せて黒いコーヒーをすすった。シエが吐き出したくなるくらい苦くてまずい、しかしそれはヨルの好物なのだ。
「おまえは、何も覚えていないのだと言っていたな」
「……うん」
シエが飲んでいるのは、ミルクだ。だがこれもかつての世界で飲まれていたミルクと同じではない。他の食べ物や飲み物と同じ、砂から作り出された紛い物だ。シエは砂からこんなもの作ることができるなんてと単純に感心し、ナオに苦笑されたものだった。
ヨルはぽつり、ぽつりと言う。
「おれは……何となく、覚えている」
「…………」
ヨルが自分のことを話そうとするのは、初めてのことだった。シエはじっとその赤い瞳でヨルを見つめる。
「おれは……」
どこか茫洋とした眼差しで、ヨルはシエではない他の何かを――恐らく彼の「過去」を、眺めていた。
「おれは、『ニルヴァアナ』で生まれた――」
「…………」
――「ニルヴァアナ」。
ヨルが憎む、敵のいる場所。皆が口を揃えていう、「裏切りの楽園」。そこで彼は生まれたのだという。だが、シエは少しも驚かなかった。なぜか、ずっと以前から知っていたような気さえする。
「だが、まだ幼い頃に外に連れ出され――そして置き去りにされた。砂漠の中、たったひとりで」
菲い唇が、苦い笑みを刻む。
理由はわからない。覚えていない。たとえ理由を聞かされても、理解できるような年齢ではなかっただろう。憶えているのは赤く熱い砂と、薄暗い空、そして輪郭の溶けた灼熱の太陽。飢えと、乾きと。
「幼いながらに、死を覚悟した。だが、おれは――死ななかった」
ヨルはじっと己の手を見つめる。あの頃無力だった小さな手は、厚く、大きくなった。この手は「楽園」の系譜を屠るために、ただそのために……。
「ヨルが『ニルヴァアナ』を憎むのは、自分を捨てたからなの?」
シエの声に、彼は顔をあげた。シエの表情からは、何も読み取れない。だが、彼女は自分を見つめている。自分、だけを。
気付くと、ヨルは首を横に振っていた。
「いや――たぶん、ちがう」
歯切れ悪く、つぶやく。
「ただ、おれは……」
――かえっておいで。
「おれは……」
怖い、のだ。
「ニルヴァアナ」が。
おれを捨てた、それでいておれを呼ぶ「楽園」が。
「ヨル」
顔色が悪いよ、と小さな白い手が彼の頬に触れてくる。そのかすかなぬくもりを、ヨルはとらえる。両腕の中に閉じ込める。強く、逃がさぬように。
「ヨル……?」
――まるで、この腕はシエを閉じ込める檻のようだ。だが、本当に捕えられているのは……。
「…………っ」
シエの腕が、彼をきつく抱きしめる。その強さに、ヨルは息をのんだ。
「だいじょうぶ」
少女が、ヨルの耳音でささやく。
「わたしは、逃げない。逃げていかないわ」
――あなたから、逃げはしないから。
その声に、ヨルは思う。おれはきっと、この子供から――そのもたらす運命から、逃れられはしないのだろう。