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Chapter.I – 6

 赤い風が吹いている。
 鼻先をかすめるそれにシンは目を細め、眼下の二つの影を見下ろしていた。彼がいるのはナオの部屋だ。ナオの言う、少しだけ空に近い場所。
 ふたりのうち、ひとりは黒い青年、ひとりは白い少女だった。二人が何を話しているのかはわからないし、表情もよくわからない。
 しばらくして、少女が迷いなく差し出した手を、男はぎこちなくとった。少女に手を引かれ、男は歩き出す。大股に、ゆっくりとした足取りで、しかしそれはたゆむことなく。シンはそれを見送り、口元だけで小さく笑った。なんというアンバランスなふたりだろう。繋いだ手の場所がぴたりとふたりの重心の位置だった、そうとしか思えない。
「シン? 何してるの、窓なんか開けて」
 背後から、たしなめるような声。ナオだ。シンの肩に触れる手はぬるい風に冷まされたのか、先程までの熱などどこにも残していなかった。
 シンは軽い調子で答える。
「んー? きみの同居人が帰ってきたら気まずいから、見張ってんの」
「シエのこと?」
 ナオの声に棘が混じった。
「あの子ならヨルといっしょでしょう? 最近ずっとそうだもの。そうそう帰ってこないわよ」
「へえ?」
 あのヨルとねえ、とシンはつぶやいた。
「あの子の寝床も、もう要らないかもね」
「そんなに? ヨルって硬派に見えて幼女趣味だったのか」
「まさか、馬鹿言わないで。シエは子供よ」
 背後から伸びてきた細い腕が、重い窓を閉める。
「おもしろくない? ナオはヨルが好きだったもんね」
「……最低」 
「知ってる」
 シンは目を細め、眉をつりあげて彼を睨むナオの頬に軽いキスを落とした。
「まあいいじゃん? 好きだとか嫌いだとかさ、くだらないよ」
 床に落ちる亜麻色のシーツ。シンは笑ってナオを抱き寄せる。彼女は逆らわなかった。その耳元に、囁く。
「今が良ければそれでいいと思わない? ぜんぶ、いつ終わるともしれないんだからさ、約束なんか意味がないし。きもちいいことだけ、分け合えばいいんだよ」
 考えたって、悩んだって、同じこと。すべてに終わりは来る。それを恐れても意味がない。それならば、わかりやすい快楽に溺れているほうがずっといい。
「…………」
 ナオは何か言いたげな目をしていたが、シンは彼女に言葉を許さなかった。噛み付くようなキスは、血の味がする。
 空虚な熱に浮かされるようにして、ふたつの肉体が絡み合う――そこには、何も、なかった。それもまた、既にわかりきっていたことだった。

 シエは、ヨルの手を引いて歩く。ヨルの足取りは重いが、文句も言わずについてきている。そのことが、シエにはとてもうれしい。
 しばらく黙っていたヨルだが、やがてぽつりとつぶやいた。
「どこに行く気だ」
 既に、集落のはずれの方まで歩いてきている。これ以上は行かせまいとするように、ヨルは手に力を込めてシエの腕を引いた。シエはあっさりと立ち止まり、ヨルを見上げる。
「別に、あてがあるわけじゃないけど」
「これ以上は『外』だ。戻るぞ」
「どうして?」
 シエは尋ねた。
「外へ出てはいけない決まりがあるの?」
「……いや」
 集落には囲いがあるわけではない。出るも出ないも、自由だ――少なくとも、そのはずだった。
「少しくらい行っても、迷わず戻って来れると思うけど」
 シエはそう言ったが、無理にヨルを引っ張ろうとはしなかった。
「…………」
 ヨルは暗い瞳で、赤く霞む地平線を見ている。シエは小さく言った。
「あのどこかに、『ニルヴァアナ』があるんだね」
「……だろうな」
「探しには行かないの?」
「探しているさ」
「でも、見つかるのは『ニルヴァアナ』から出てきた人ばかりなんでしょう? その人たちを片っ端から全部殺しちゃったら、手掛かりなんかいつまでたっても」
「うるさい」
 ヨルに鋭く一喝され、シエは肩をすくめて口をつぐんだ。だが、その表情には怯えの色はない。やれやれ、とでも言いたいような、余裕のある顔つきだった。むしろ声音に焦りを滲ませているのは、ヨルの方だ。
「おまえに指図されるいわれはない。おれに命令するつもりなら」
 ――殺すぞ。そう脅す、冷たい口調。だが、シエはただ微笑むだけだった。
「それってすてきだね。でも、銃は使わないでほしいな」
「何?」
 戸惑うように目を瞬くヨルのその手に、シエは頬を寄せた。硬くて分厚くて、それでいて温かな手。絡みつくように、彼のごつごつとした骨太な腕をそっと抱きしめる。
「素手で殺してくれるなら、わたしはいいよ」
「ばかか。……帰るぞ」
 ヨルは呆れたように言ってシエの手を引き、踵を返した。シエは背後を振り返る。砂の向こうに、沈みゆく太陽が薄ぼんやりと光っていた。

 いつしか、ヨルの隣にシエがいることが自然な光景となっていった。例外はヨルが数名の男たちを引き連れて「外」へ――「敵」を探しに行く時で、その時ヨルはシエの小さな体をそっとナオの方へと押し出すのだった。ナオは黙ってシエを預かってくれる。だが、最近の彼女はシエに笑いかけてはくれない。シエはそのことに気付いていたが、特に気にする様子もなかった。
 ヨルはシエに銃の扱いを教え込み、彼女は次第にあの重い銃をうまく使えるようになった。銃の中には模造弾が入っている。実弾の経験は、彼女にはない――ヨルが渡さないからだ。くすんだ灰色のふわりとした長いワンピーススカートの下、彼女の細い左腿に巻かれた黒革のベルトに、あの銃はくくりつけられている。そのベルトは元々ヨルが使っていたものだったが、シエは器用にその長さを調節し、自分用に作り変えたのだった。
 よそよそしくなったナオの代わりというわけではないだろうが、時々メロやその友人らしい少年たちが、彼女に話し掛けるようになった。それは決まって、ヨルが留守にしている間なのだった。彼が怖いのか、とシエが尋ねると、彼らは当たり前だというようにうなずく。
「だってさ、いっつも怒ったみたいな顔してるじゃん。笑ったところ見たことねえ」
 キョウという名のその少年は、唇を尖らせてそう言った。
「父ちゃんが言ってた。『ヨルは、拾われてきた時から無愛想で変わった子供だった』って」
「拾われてきた……?」
 シエが聞き返すと、メロらは大きくうなずいた。
「ヨルはここの生まれじゃないんだよ。おれらくらいの頃、砂漠に棄てられていたのを、たまたま外に出掛けていた皆が見つけたんだ」
「砂漠に?」
「うん。確か、誰かが勝手に外に出て行ったのを、何人かで探しに行った時とか言ってたかな」
「そうそう! 探していた相手は死んでたって話だろ?」
「そうだっけ?」
「もしかして、ヨルが?」
「まさか! いくらヨルだって、子供だぜ?」
 彼らは勢いづき、口々に語った。
「ヨル、拾われる前のことは何にも言わないから、何にもわからないんだって」
「でも、あの衛生基地を修理して使えるようにしたのはヨルだって話だぜ」
「ヨルが来てから、いろいろよくなったんだってさ。工場の方も、ヨルが設定をいじってから効率が何とかって」
「特別なんだよ、ヨルは」
「怖いけどな」
「おまえは、怖くないのかよ?」
 尋ねられ、シエは首を左右に振った。強がりなどではなく、心からそう思っている。メロらは驚いたようだった。
「ナオさんのことも、ふったって話だぜ?」
「ナオ?」
「ナオさんだけじゃねえよ。ヨルはいい男だから、女どもがほうっておかねえんだ」
 おとなびた台詞を口にし、少年は笑った。
「けど、ヨルは誰も相手にしねえ。『敵』のことばっかり考えてるんだ」
「……『ニルヴァアナ』」
 シエがつぶやくと、皆黙って頷いた。
 ヨルは、どこから来たのだろう。ヨルは過去を覚えているのだろうか――それとも、記憶がないのだろうか。わたしと、同じに。
「帰ってきた!」
 その声に、シエは振り返る。遠く、赤い砂煙が立ち上っている。馬が砂を蹴立てているのだろう。あれとともに、ヨルらが帰ってくる。
 シエは知らず微笑みを浮かべ、それが近付いて来るのを待った。