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Chapter.I – 2

 朽ちたコンクリートや鉄骨の上に土を塗り固めた壁を晒し、建物は風に吹かれている。ナオが暮らす部屋は四階で、これでも一番空に近い部屋なのよと彼女は嘲笑(わら)った。
 シエの寝床にするためだろう、古びたベッドを二人の男たちが運び込んできた。ナオの言う通りの場所に置き、帰っていく。
「ありがとう」
 シエは彼らに深々とお辞儀をした。彼らは不思議そうにシエを見ていたが、何も言わなかった。
「あんた、いい子ねえ。ここの子供たちとは大違い」
 ナオはくすりと笑い、シエの髪を撫でた。
「それに、変わった色。その目もよ。見たことがないわ」
「そう?」
 シエは自分の長い髪を引っ張ってみた。白銀である。――確かに、今日見かけた人々の髪の色は、黒や茶、金褐色などだった。
「まあ、どうだっていいことだけど」
 ナオはそう言い、シエの肩をとん、と叩いた。
「さあ、今日はゆっくりと寝るといいわ。明日からはちゃんと働いてもらうから」
「……働く?」
「そうよ」
 ナオは片目を閉じてみせる。
「働かざる者食うべからず、ってね?」
 シエは大真面目な顔をして、深く頷いた。
 
 
 翌日、ナオはシエを伴って外に出た。
 ヨルやナオが暮らす集落は、数十人程度のものだった。それが小さい方なのか大きい方なのか、シエにはわからない。ナオとシエは、砂をせっせとバケツに詰めた。方々に、同様の作業をする女性や子供らの姿が見える。
「これをどうするの?」
 シエが尋ねると、ナオは汗をぬぐって答えた。
「地下に工場があるの。そこに持っていくのよ。持っていくのは、男の仕事。バケツ、重いからね」
「工場?」
「……本当に何にも知らないのね、シエは」
 ナオは苦笑を浮かべた。シエはきょとんと彼女の顔を眺めている。
「私たちの普段の食料はね、その工場で――この砂から、作られているのよ」
「砂から?」
 シエは驚いて目を見開いた。乾いた砂。この砂から、彼女が口にしたパンやハムが作られているというのか。
「すごいね」
「ええ……まあね」
 率直なシエの感想に、ナオは複雑な表情を見せながら頷いた。
「あのね、ナオ」
 シエの目の前にあった子供用のバケツは、既に砂で満たされている。すると男がひとりやってきて、空のバケツとそれとを取り換えていった。シエは再び、スコップで砂をすくう作業を始める。
「……ヨルは、どこにいるの?」
「気になるの? 彼のこと」
 ナオの反問に、シエは頷かなかった。代わりに、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「わたしのこと、殺さないって決めたのはヨルなんだって。だから、わたしがここにいられるのはヨルのおかげなの」
「……そ」
 ナオは短く答え、そしてシエの前にある空のバケツを指さした。
「ヨルの居場所を教えてあげる。そのバケツをいっぱいにしたら遊びに行っていいわよ」
「ほんと?」
 シエはぱっと顔を輝かせた。ナオはうなずく。
「ヨルは、きっと衛星基地にいるから」
「えいせいきち?」
「そうよ」
 それが一体どういう場所なのか、そしてそこで彼が何をしているのか、シエは聞かなかった。そして、ナオもまた、何も言わなかった。
「……シエ」
 生成り色の質素なワンピースを翻して駆けていくシエの背中を見送り、ナオはつぶやく。
「あんたとヨルは……同じなのかもしれないわね……」
 ヨルがここに来た日のことを、ナオは昨日のことのように思い出せる。
 ――子供だ――奴ら――置き去りに――殺すか――いや――
「ヨルはずっと囚われてるんだわ」
 ナオは目を閉じる。赤い砂を、両手で掬う。
「『ニルヴァアナ』に」

 衛星基地、と呼ばれる場所は街のはずれにあった。外観は他の建物と同じで砂に汚れている。シエは扉を押し開き、中へと滑り込んだ。薄暗く、辺りに人の気配はない。
「ヨル?」
 内部は吹き抜けになっていて、螺旋階段が上へと続いていた。シエは迷うことなく階段を上る。足音がぱたぱたと響いた。
「ヨル」
 奥の部屋の扉が、ぎい、ときしんだ音を立てて開いた。部屋から誰か出てくるかと待ってみたが、その様子はない。シエは部屋の中を覗き込んだ。
「ヨル?」
「――何故おまえがここにいる」
 その狭い部屋の中は、シエにはわからない機械で溢れていた。キーボードの並んだデスク。いくつものディスプレイ。その中央にある古びた椅子に、ヨルが座っている。短い黒髪、切れ長の瞳。出会ったときはマントで体を覆っていたが、今は袖の短いシャツと着古したデニムを身に着けている。
 シエはゆっくりと彼に近付いた。
「昨日はありがとう」
「礼を言われる覚えはないが」
 ヨルはシエに背を向け、機械をいじりはじめた。シエはその広い背中をじっと見つめる。
「……何をしているの?」
「おまえには関係ない」
「…………」
 シエは言葉に困り、手持無沙汰な両手を胸の前で組み合わせた。
 沈黙、そして時に響く低いモーター音。
 ヨルは振り返らないまま、ぽつりと言った。
「助けたわけじゃない。おれは、おまえをいつでも殺せる」
「…………」
 シエはそれを聞きながら、ぺた、ぺた、と彼の背中に近付いた。ヨルは、振り向かない。
「おまえは、本当に何も知らないのか」
「何を?」
「自分が何者で、どこから来たのか」
「……わからない。でも」
 シエはヨルの背後に立った。
「わたしはわたし。ここにあるものがわたしの全てだから」
 心と、身体。足りないものは何もない。だから、怖くない。
「……そうか」
 ヨルは少し首をひねって、シエに視線を投げた。
「なら、良かったな」
「……ヨル」
「おれとおまえとは関係ない。おまえはここで好きに生きればいいし、出て行きたくなったら出て行け。勝手にしろ。おれに付きまとうな」
「…………」
 シエは押し黙った。ヨルはさらに言葉を重ねる。
「わかったら、ここを出て行け。ここはおれの場所だ」
 シエはふと、顔を上げた。その口元には笑みが浮いている。
「……ここに来れば、ヨルに会えるのね?」
「だから来るなと」
「わたしは好きにしていいんでしょう? じゃあ、ここに来るのだってわたしの勝手だと思う」
 シエの言葉を聞き、ヨルは舌打ちをする。だが彼はそれ以上何も言わず、振り返ることもなかった。
 シエはそれ以上ヨルには話し掛けず、部屋の隅に移動して座り込み、壁に背中を預けた。ぼんやりとヨルの背中を見つめる。
 ヨルがキーボードで何かを打ち込むとディスプレイの画像が切り替わり、彼はそれをじっと眺めていた。しばらく経つと、彼はまた画像を切り替えたようだった。
 ――何かを探しているみたい。シエは思う。でも、いったい何を。
 何故自分がヨルに拘っているのか、シエにもよくわからない。ただ、こうして彼が視界の中にいるとひどく安心する。それは、あの馬車の中で彼を初めて見たときから変わらない。彼の纏う冷たい空気、彼を染めている闇、そんなものは関係ないのだ。
 ヨル。ヨル。
 その名前を心の中で何度も繰り返す。そうしているうちに、シエはいつのまにかうとうとと眠り込んでいた……。

 日が落ちると、ヨルはディスプレイを眺めるのをやめた。暗闇に沈む部屋の中、振り返った彼は大きくため息をつく。
 白い少女が、壁際で膝を抱えて眠り込んでいた。
「…………」
 これを、どうするか。
 ヨルはしばらく少女を見下ろしていたが、やがて彼女の前に屈み込み、その小さな体をひょいと抱え上げた。
「ん……ヨル……?」
 寝ぼけた声でつぶやくシエを荷物のように抱えたまま、ヨルは真っ直ぐにナオの部屋へと向かった。早くこの少女を送り届け、離れてしまいたい。それでいて、あの暗い部屋にひとり残していく気にはなれなかったのだった。シエを疎む気持ちと、もうひとつの相反する感情――ヨルにはわからない感情。己の中の矛盾には気付いている。だが、どうしようもない。
 自分は何者で、どこから来たのか。
 本当に知らないのは――わからないのは、おれだ。