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Chapter.I – 10

 シエがベッドを抜け出したのは、一時間ほど前のことだった。
 当たり前のようにヨルの横に並んで寝るようになって、十日ほどが経つ。たいてい先にベッドに座るのはヨルで、そうしてシエをじっと見ているものだから、その視線に吸い寄せられるようにしてシエは彼の隣に滑り込むのだ。ヨルは彼女を招くこともなかったが、拒むこともなかった。体格の良いヨルの横は決して広いとはいえなかったが、彼は寝ている間ほとんど寝返りを打たないから、隣に寝ていて困ることは特になかった。ほんとうに、彼は静かに眠るのだ。
 その夜も、ヨルは静かに眠っていた。シエは一度は寝ついたものの何とはなしに目が覚めてしまい、そのまま寝つけないでいる。ただぼんやりと、ヨルの寝顔を見つめていた。
 ――ヨルは、「ニルヴァアナ」に捨てられたのだと言っていた。けれど、どうやらそうではなかったらしい。「ニルヴァアナ」のひとびとは、ヨルをわざと外へと送り出したのだ。のろい、とやらを解くために。
 のろい。それは、「ニルヴァアナ」に掛かっているということなのだろう。一体どんなのろいなのだろうか。そして何故ヨルが、選ばれて外に出されたのだろうか。のろいを解く鍵は、見つかったのだろうか。――少なくとも、ヨルはそうとは意識していないようだが。
 そして、ヨルの元に送られたという「迎え」。それは、ほんとうに自分のことなのだろうか。そうなのだとしたら、何故自分は何も覚えていないのだろう。
 そして何故、ヨルは「ニルヴァアナ」を憎むようになったのだろう。「ニルヴァアナ」を敵だと認識して、そしてそこから来た人を見つけ出しては殺害して――もし、あのディスクの中で語られていたことが本当ならば、「ニルヴァアナ」は彼の故郷なのに。
 いくつもいくつも浮かんでくる疑問に胸がいっぱいになって、シエは長いため息を押し殺しながら吐き出す。
 その瞬間、ヨルの目がすう、とあいた。シエは息を呑む。
「ヨ――」
 ヨルは目が覚めたわけではなかったのだろう。薄く目を開けたまま、一瞬だけ――わずかな間だけ、唇を緩めた。
 シエの胸がどきりと高鳴る。
 ヨルが、微笑っている。まっすぐに、すきとおった笑みで、自分を見ている。こんなヨルの表情を、わたしは見たことがない。
 シエは身を起こし、彼の頬にそうっと掌を触れさせた。その感触に安堵したように、ヨルはまた目を閉じる。いつもと変わらぬ、静かな寝顔。静かな寝息。
 そのときはじめて――自分はヨルの側にいていいのだろうか、と疑問が浮かび、そしてそう思ってしまった途端に、どうしようもなく怖くなった。ヨルが変わってしまう。何がどう変わるのかはわからない。けれど、きっとこのままわたしといれば、ヨルは変わっていく。今までと同じではいられなくなる。
 こわい。
 気が付くと、シエは部屋を飛び出していた。

 ――はあ、はあ、はあ、はあ……。
 シエは息を切らせて路地裏に滑り込み、そこにそっとうずくまった。己の小さな掌とそこにこぼれかかる髪を見下ろし、ため息をつく。夜の中に溶け込めない自分。闇を弾く白い肌、しろがねの髪。見慣れたはずのそれに、なぜかひどく違和感をおぼえた。
 ――ニンギョウ。
 誰の声だかはわからない。だが、それは間違いなくかつてシエに向けられた言葉だった。
 ――おまえはニンギョウだよ、シエ。
 シエはぎゅっと目を閉じ、耳を塞いだ。だが、言葉は止まない。
 ――おまえは……のための……だから、
「おい」
 急に腕を引かれ、シエは顔をしかめた。
「おまえ、無視すんなよ」
 ぼんやりと見上げると、そこには見慣れない青年がいた。ヨルよりも少し年下で、メロよりは年上だろう。ぎゅっと腕を掴まれ、シエは痛みに小さくうめいた。
「あなた、だれ?」
「おまえこそ、こんな時間にこんなところで何してんだ?」
 彼はさして興味もなさそうに反問し、そうしてシエを無遠慮にじろじろと眺める。そのぎらついた目つきに、シエの背筋に怖気がはしった。
「あのヨルさんに気に入られるなんて、余程イイんだろうな?」
 赤い舌がちろりと閃く。
「なにが……っ!」
 言い掛けたシエの唇を片手で塞ぎ、男は彼女の体を砂の上になぎ倒した。がっちりと押さえ込まれると、シエは全く身動きできなくなる。彼女は目を見開いて彼を睨みつけた。青年が何を考えているのかがわからないほど、彼女は幼くはない。ぞっとした。
「うわ、本当に赤いんだな。砂見てえな目」
 男はにやにや笑いながら、シエのワンピースを引き裂いた。足を這い上がっていく男の指先に、シエは吐き気をおぼえる。この感触は、違う。ちがう。
 ふと、シエは思い出した。
 ――おれがおまえを、……
 彼女の左手は自由だった。華奢な少女が腕一本自由に動かせたところで、たいした抵抗もできないだろうとふんでいたのかもしれない。しかし、
 ――最高の殺人者に、……
 シエは冷静に手を伸ばし、腿にベルトでくくりつけていた銃を取った。これは、ヨルがわたしにくれたもの。己の胸元に顔を埋める男のこめかみに、その銃口をそっと押し当てる。
 彼女がふ、と目を細めて笑うのと、銃声が響いたのとはほぼ同時のことだった。

「シエ」
 ふと気が付いたとき、シエの体は慣れた温もりの中にいた。かたく引き締まった腕。彼女をじっと見下ろす闇色の瞳。
「よく、やったな」
 小さな呟きに、シエは体から力を抜いた。
「……ヨ、ル」
「痛いところは?」
 短い問いには首を横に振ってこたえる。ヨルは小さく吐息を漏らした。心配してくれたのだろうか。ヨルの部屋を飛び出して以来冷たく固まっていたシエの胸の奥が、じわりとあたたかくなった。
「ヨル……」
「これ、シエちゃんがやったの?」
 震える声が、空気を揺らした。シエは薄目を開いて声の主を見た。――たしか、シンという名前だった。時々ヨルと一緒にいるのを見掛けた気がする。
「まずい、ヨル。みんな銃声を聞いた。起きてくるよ」
「…………」
 ヨルはシエを抱えたまま、何かを考えるように砂の上に視線を落とした。
「ヨル、どうす――」
「行こう」
 ヨルはぽつり、と言った。シエは彼を見上げる。もう一度、彼は繰り返した。
「外に、行こう」
「……え?」
 聞き返したのはシエではなかった。
「『外』って、どういうこと?」
「おれはそもそも外からきた人間だ。こいつも」
 とシエを示し、
「外から来た。それも、おれが連れてきたようなものだ。だから――出ていく」
「出ていくって、どこに? そんな、砂漠に出ていったって野垂れ死ぬに決まってるじゃないか。馬鹿だな」
 シンは呆れたように言い、足早にヨルに歩み寄った。
「とりあえずこの場を離れよう? 関係ないふりをするんだ――どうにだってなる」
「いや」
 ヨルはきっぱりと言った。
「今が、いい潮時だ」
「潮時?」
 わけがわからない、というようにシンは頭を振る。ヨルはそれ以上彼に説明しようとはせず、シエを抱えたまま歩き出した。
「すまないが馬車を一台もらうぞ」
「ああ――もう、好きにすればいいさ」
 ため息交じりに言葉を吐きだし、シンは苦笑した。
「君のこと、結構気に入っていたんだけどねえ」
 ――君といると、退屈しなかったから。
 肩をすくめるシンに、ヨルはその平坦な眼差しを向けた。シンはゆるりと微笑んだ。
「また、会えるかな?」
「…………」
 ヨルは答えない。シンは片手を上げた。
「うん。じゃあ、またね」
「……ああ」
 低くつぶやいたヨルのその声を、シエははっきりと耳にしていた。

 残されたシンは、頭をきれいに撃ち抜かれた死体を一瞥すると、さっさとその場を離れた。その死体の様子を見れば、シエに何をしようとしたかは明らかだった。細い眉を顰める。
「子供に手を出すなんて、最低だなあ」
 起き出した人が集まってくるより前に、さっさと女の部屋に戻ろう。そうして、その白い肌に全てを埋めて眠ろう。ぐずぐずに溶けてしまおう。
 そうだ、彼らのことなんて、忘れてしまおう。
「なあんてね」
 ――忘れられるわけもないのに。歩きながら、シンは苦笑する。
「君らの行く先は、楽園かな。それとも、地獄だろうか?」

 さあ、行くがいい。
 「ニルヴァアナ」が、きっときみたちを待っている。

 地平線の向こうでは、鈍い光が赤い砂埃を透かして、朝の訪れを告げていた。