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Chapter.I – 1

 風が吹いていた。いつもと変わることのない、乾いた、荒い風だった。
 ――そこに、鉄錆にも似た異臭が交じる。
「誰も残っていないか」
 かさつきひび割れた地面に、赤黒い染みが広がっていた。土の上に撒き散らされているそれはまるで子供の描いた落書きのようで、しかしその禍々しい色遣いが決してそうではないのだと物語っていた。
「はい、間違いなく」
 黒い軍靴が、その紋様を無造作に踏み躙っていく。
「水と食料は集めたな? そろそろ出――」
「……――!」
 大声に、男の言葉が遮られた。
「ひとり、子供が」
「子供だと?」
 男は怪訝そうに聞き返した。
「殺すか?」
 報せをもたらした者が、尋ねる。
「……いや」
 風を防ぐためか、深くかぶったフードの奥で、薄い唇が歪んだ。
「連れて来い」
 ――その子供が己の運命を決めることになるなどと、男は予想だにしていなかった。

 見渡す限りに赤い大地が広がっている。風に巻き上げられる砂のために、空も赤く濁っていた。そこを、一群の旅団が行く。十数頭の馬と、何台かの馬車。馬車の幌もまた、赤茶けていた。
 先程の男は、馬車のうちの一台の中にいた。フードとマントは外し、荷台に丸めて置かれている。年は二十歳前後。黒髪黒目の、特に目立つところもない男だ。傍らには彼の上背ほどもあるマシンガンと、小口径の拳銃とが並べられている。どちらも使い込まれている様子だった。
 同じ荷台の上に、もう一人。先程の集落から連れてきた、子供であった。髪は白く、長い。皮膚もまた、色素を知らぬようだった。後ろ手に縛られたまま、床に倒れ込んでいる。意識は戻っていない。薬がまだ効いているのだな、と男はぼんやりと思った。
 この子供を殺さなかったのは、ただの気紛れだった。ただ――今まで襲ったところに、子供などいた試しがなかったから。子供を殺すことに躊躇ったのかもしれない。
 まあいい。こんなもの、殺そうと思えばいつでも殺せる。
 男は左手に拳銃を持ち、眠る少女に右手を伸ばした。軽く頬を叩く。
「おい」
「……ん」
「起きろ」
「んん」
 少女は彼の手を避けるように身をよじり、やがてぱっと目を見開いた。――大地と同じ、それよりももっと鮮やかな、赤い瞳だった。
「…………」
 男は息を呑み、思わず体を引いた。少女は目を大きく見開いたまま彼を見つめて……やがて、小さく微笑(わら)った。
「たすけてくれて、ありがとう」
「…………」
 呆気にとられる男の目の前で、少女は床の上でもがき始めた。身体を起こそうとしているのか、しかし後ろ手に縛られているためにうまくできないでいるようだった。男は彼女の体をとん、と押し、座らせてやった。
「ありがとう」
 ――また、礼を言うのか。男は眉を寄せた。こいつは、何なんだ。
「おまえ、」
 男が口を開くと、少女はそれを遮っていった。
「わたし、シエっていうの」
「そんなことはどうでもいい。おまえは」
「あなたの名前は?」
「…………」
 物怖じすることなく、問いかけてくる。男は苛立ったように傍らの拳銃を手に取り、少女につきつけた。
「おまえはおれの質問に答えていればいい。おまえは」
 少女は澄んだ赤い瞳で男を見つめている。その色に、男への怯えはない。
「何者だ」
「……わからない」
「お前も『ニルヴァアナ』から来たんだろう?」
「『ニルヴァアナ』……?」
 繰り返す彼女に、男は不審そうな視線を向ける。
「知らないの。ほんとうに」
 シエは首を横に振り続けた。
「じゃあ、何故あそこにいた」
 男は険しい表情を崩さない。シエは困ったように、その瞳を陰らせた。
「わからない。気がついたらあそこにいて――それで、あなたたちに捕まったんだもの」
「そんな言葉を信用するとでも?」
 子供だからといって容赦はしない。自白剤を使ってやろうか。そう鼻で笑う男に、シエはじっと真剣な眼差しを向けた。
「あなた自身が嘘をつくから、ひとのことを信用できないのね」
「…………!」
 男はとん、とシエの体を突き飛ばした。倒れ伏した彼女に、手にしていた拳銃を向け――無造作に、放つ。
 チッ、と軽い音とともに、彼女の手を縛っていた縄が千切れた。少女は驚いたように、自由になった自分の両手を見つめる。
「おれは」
 男は顔を背け、言った。少女の視線を、痛いほど横顔に感じながら。
「ヨルだ」

 一行が街に着いたのは、夜半過ぎのことだった。ヨルは出迎えに来た者のうちから彼よりも少し年上の女を呼び、シエの世話を命じた。
「『ニルヴァアナ』のやつらの牢に閉じ込められていた。詳しいことはわからんが、やつらの仲間という訳でもなさそうだ」
「へえ?」
 褐色の髪を持つその女は、興味深そうにシエを眺めた。シエはじっとヨルを見上げている。
「それで? しばらくあたしがこの子の面倒を見ればいいのね?」
「ああ。頼む」
「ええ」
 ナオはシエの頭に手を置き、「あたしはナオ」と言った。
「あなたは?」
「……シエ」
「シエ、か。あたしといらっしゃい」
「ヨルは……?」
 彼のマントを握りしめるシエに、ナオは困ったように笑い掛けた。
「あんたがヨルと一緒に暮らすわけにはいかないでしょ。いらっしゃい。またすぐ会えるから」
「行け」
 シエの小さな体を自分から引き剥がし、ヨルはさっと彼女らから背を向けた。
「…………」
 彼の後姿を見つめているシエに、ナオは首を傾げた。
「シエ、あんたどうしていきなりヨルに懐いてんの? あいつは強いけど、無愛想だし、乱暴だしさ。女子供には――いや、特に子供には絶対好かれるタイプじゃないでしょ」
「……わからない」
 シエはつぶやく。
「わたし……」
 何も、わからない。
 うつむいて黙り込んだシエに、ナオはため息をついた。
「まあいいわ。何はともあれ、しばらくの間あんたはあたしが預かるから。……砂で汚れたでしょ、髪洗わなきゃね」
「ありがとう、ナオさん」
「ナオでいいわよ。ヨルのことも、ヨルって呼んでいたじゃない」
 ぺこり、と頭を下げるシエに、ナオは微笑みを浮かべた。そしてつぶやく。
「あんたが本当に『ニルヴァアナ』の仲間じゃなければいいんだけどね……」

 「ニルヴァアナ」――それは約束の場所。裏切りの楽園。永遠の墓地。